第一章 異世界の転生

異世界の転生 1



「よっと…」


 ベッドの軋む音が一室に響く。菓子パンやジュースの入った袋を傍らに置いて一息つき、少し体を伸ばして出窓に視線を投げる。そこには鮮やかな夕焼け空が一面に広がっていた。

 七美丘しちみおかの町が茜色に照らされ、特有の寂寥感せきりょうかんに包まれていた。


 七美丘は山梨県の一角に存在している。多くの山に囲まれながら、駅前は一通り整備され基本的な商業施設などが存在している、緑と灰が共存する町。

 十の家は比較的街中に近い住宅地にあり、生活する分にも特に不便を感じない。立方体の似たようなデザインの家が立ち並ぶ穏やかな場所だ。

 名物は柄深山にある天文台で名産は苺。23年間暮らす男の故郷である。



 カーテンを閉め切り、暗くなった部屋の明かりを灯してからネットの巡回を開始する。明日は贔屓にしている会社の新作RPG『アストラビジョン』の発売日であった。日付が切り替わると同時にスタートし、限界まで走りきるための備蓄の準備も万全だ。

 沸々と湧き上がってくる興奮をSNSで発散しつつ、今か今かとその時を待つ。


深代十ふかしろじゅう。七美丘で生まれ育ち、ゆとり教育を余すところなく受けた23歳。


 この男、深代十はどこにでもいる無気力な青年であった。高校を卒業した後はモラトリアムと称して大学の社会学部に入学し、漫然とした学生生活を終えた後は、たまにバイトをしながらネットの海に浸った日常を過ごすだけの日常を送る。

 多くの人間が同じような怠惰な考えを抱えながらも耐え忍び生きてる中、そのまま実行してしまっているダメ人間であった。


 時計の針が頂点を指した。十は逸る気持ちに後押しされるように、急ぎ気味に文章を読み進めていく。膨大なクエストに定評のある会社の新作だ。ここからは長期戦になる。最初のチュートリアルを終えると、傍らにあるお茶を一口含み気合を入れた。


 長い夜の幕開けだ。







 二日過ぎていた。

 二日。

 48時間。


 世の体育会系の人らを、薄暗い部屋の中に48時間寝かさず閉じ込めていたら軽い鬱にでもなるのではないだろうか。鍛え上げられた引きこもり体質がなせる業だった。

 探索やサブクエストが魅力としてあげられる本シリーズだが、メインストーリーの展開が気になってしまい、今回は寄り道ほどほどの急ぎ足プレイ。孤独な狩人ゼロイの戦いは終わり、画面には二時間映画終わりのような壮大なクレジットが流れている。

 現在朝5時、更新して約53時間のフルマラソンであった。


「あ゛ぁ゛…よかった…」


 気だるさを訴える身体にようやく耳を貸し、大きく伸びをする。空気のこもった部屋が少し臭うため、二日ぶりにカーテンと戸を開き新鮮な空気に入れ替えた。ほんのり明るさがでてきた藍の空色が目にやさしい。


 住宅地の朝5時。町は爽やかな静寂が支配していて気持ちが良い。藍の空から目線を落とす。目の前には特になんの面白みもない、いつもの町の景色が広がっている。




 はずだった




「…ん?」


 何か、おかしい。


 ここは我が町七美丘。23年間暮らすわが故郷。


 そのはずなのだ。


 目をこすり、よくその景色を凝視する。

 斜向かいの家はそんな威厳のある石造建築だったか? そもそもそんな大きかったか? 奥の方に見える灯台みたいなのはなんだ? その他にも疑問が頭にじわじわと浮かんでくるが、なにぶん全力のフルマラソン後。どっと押し寄せる疲労で頭がうまく働かない。


 ひとまず外に出てみよう。足早に一階に降り、そのまま玄関を出る。早朝の鋭い冷気が刺さり体を震わせるが、この違和感を払拭するにはちょうどいいかもしれない。


 表に出て周囲を見渡すと、その光景はやはり見過ごせない…気味の悪い変化をしていた。斜向かいの家だけではない。家の裏手にある建物は教会ではないか? 確かに日本にも存在する類のものだが、日本の風景に溶け込むような質素なつくりというよりも、もっと荘厳さを放っている。


 なんというか、中世ヨーロッパを基にしたファンタジー作品のような。


「………ッスゥーーー…?」


 余計に頭がこんがらがってきた。


 一度細く息を吸い込んでみて、それからとぼとぼと歩き出す。すべてが変化しているわけではなく、変わらぬ家屋も確認できる。

 だが、やはり明らかに覚えのない形に変わっている建物が所々に存在していた。


 知ってる道のはずなのに、知らない川が流れている。川沿いには水車付きの木造の家屋が立ち並んでいた。

 噴水がある。二日前まではなかったことを百歩譲って置いておけば、それは整備された町の一角に過ぎないだろう。

 だが、その周囲にわけのわからん生物がたむろっている。バレーボールほどの大きさの毛玉の…ビーバーか? あれは。

 現代日本の町中で見かけたらすぐさまニュースに取り上げられそうな非日常に気が遠のく。噴水で水を飲む馬が普通に思えてしまった。


 大きく開けた道路に出ても、それは変わらない。

 眠気と疲労でぼーっとする頭を何とか動かそうとするも、やはりうまくいかなかった。


「何が何だか全然だな…」


 今の状態ではどうしようもないと判断し、家に引き返そうと歩を進めて―――


『三ノ刻、走行するトラックに衝突』


 突然、頭の中にささやき声が聞こえた。


「えっ…?」


 思わず立ち止まる。


 直後、目の前を大型のトラックが過ぎさっていった。


 周囲に目を配ると、自分が車道に少し踏み込んでいることに気づく。どうやら方向感覚まで危うくなっていたようだ。あのままだったらトラックに轢かれてお陀仏になっていたところだろう。


 …いまのは、虫の知らせみたいなものだったのだろうか。




(やっぱ、二徹は無茶だったか)


 ふらつく足取りで何とか自宅の前まで戻る。さすがに眠気も限界だ。疲労や眠気でついに幻覚や幻聴の症状が出てしまったんだろう、などと塀の前でぼんやりと考えていると、少し離れた家から戸を開ける音が聞こえた。


 幻覚の世界に、可憐な聖女が姿を現した。


 石造建築の豪華な家屋から出てきた少女は空を見上げると、深呼吸をして両手を広げ、その場をひらりと回った。


 …あんなにきれいな子、生まれて初めて見た。

 素直にそう思った。


 銀にサーモンピンク色のファンタジックな髪色で、後ろ髪はショートボブ。前髪はストレートで、耳の付け根から瞳までの部分が伸ばしてある、いわゆる触覚ヘア。鎖骨部分まで伸びる触覚部分は緩いウェーブがかかっており、先端は小さく三つ編みが編まれている。

 大きくてたれ目気味な瞳は、余裕のある大人びた雰囲気と純真で優しそうなあどけなさが共存している。

 整った目鼻立ちに、出るとこは出てるスタイル…。絶世の美少女とは、ああいう子のことを言うのだろう。


「…フフッ。趣味出すぎだろ」


 そんなことをうつらうつら考えるも、この地域にあのような少女が住んでいた記憶はなく、今日このあたりでコスプレ大会が開催されるわけでもない。

 二徹の疲労と眠気が見せた幻覚に、ずいぶん趣味が出てそうな妄想がプラスされているのに、思わず噴き出した。


「……!」


 遠くにいた少女がこちらに気づき、その瞬間彼女の体がピタッと固まる。家の前で踊る姿を見られたのに羞恥心でも覚えたのだろうか。

 数瞬の後、少女の顔が驚きに染まり目元が緩む。その反応に、俺はいたたまれなさから周囲をきょろきょろと見回して視線を逸らした。


(俺かっ…? その反応、俺だよなっ…!? 踊りを笑ったみたいな感じになっちゃってるもんなっ!?)


 すると、少女は何かに背を押されたように走り出した。目標はただ一点。


(えっ…、何? はっ? ……いや何っ!?)


 狼狽している間に少女はすぐそこまで駆けてきていた。

 そしてそのまま、謎の美少女に抱き着かれた。


 頭の中が困惑で埋め尽くされ、身体が完全に機能停止している俺とは反対に、喜びと感動がないまぜになったような表情の少女は俺の胸の内で口を開く。



「十くん…っ! やっと、会えた…!!」



 麻痺した頭に、とどめの一撃がぶち込まれた。奇妙な変化を遂げた街並みに、初対面の絶世の美少女。

 意識が朦朧としてくる。


(…ああ、そうだ。幻覚かと思ったがもう一つ可能性がある。)


 急速に睡魔が押し寄せる。

 そうか、これは夢か。しかも、夢の中で夢と自覚できる…そう、明晰夢というやつだ。難問にようやく回答を見出して、小さな達成感に浸る。

 それにしても…


(こんな美少女に抱きしめられるなんて、いい夢だなあ…)


 そんな感想を最後に、俺はまどろみの中へと落ちていった。

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