改竄された現世にて

@gonosaki

序章

デッドエンドワールド

「ハッ…ッ…ァッ…」


 細く、断続的な呼吸が続く。極度の緊張と恐怖に身がすくみそうになりながらも、男は気力を振り絞り一心不乱に森を駆ける。


「ッ! …くそッ…!」


 自身の背後を縦横無尽に蠢く黒き激流。アメーバのように柔軟で、大蛇のように獰猛。

 この世界を破滅に導く象徴。


 男は深く生い茂る森の中、この黒から必死の逃走を図っていた。衣服を木端に引き裂かれながらも、不安定な足元をしっかりと踏みこみ、駆ける。


 一方、蠢く黒は木々や大岩など何のその、あたり一面を着実に薙ぎ払いながら侵食してゆく。これに知性でもあろうものならどうなっていただろうか。無差別にすべてを呑みこむただの力であることが、唯一の救いであった。


「! …見えた! あそこが境界線!!」


 鬱蒼とした木々が少しずつ間隔をあけ、空の色が所々みえるようになっていた。なんとも気色の悪い色だ。清々しい空の青はどこにもなく、血が乾いたような赤と重くのしかかる雨雲のような黒が覆いつくしている。


 しかし、そんな不気味な空が、ある一線より先ではまるで表情を変えている。少し靄がかった青は決して気持ちのいい天気とは言えないが、それでも自分たちを安心させてくれるあの空だ。


 あそこがきっと境界線。≪神授の聖者≫が作り出すこの世界最硬の結界。

 この世界に残された唯一の安息。

 男は視界にとらえた現実的な景色を心の拠り所とし、あと一息と自分に発破をかける。


 その瞬間、かすかな痛みとともに視界が90度傾いた。

 空の景色に気を取られるあまり、足元の注意がおろそかになっていた。枝に足を取られ、勢いよく倒れ込む。

 黒は止まらない。


「く、くそっ! こんな…!」


 これに知性があればどうなっていただろうか。無様に懇願し、愛する者がいることを告げたら、情けをかけてくれる可能性もあっただろうか。

 黒は止まらない。


「………ぁぁああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」


 あたりに響く悲痛な叫びは、無慈悲な大波によってかき消された。







「フィール様、先ほどケネセスの難民をこちらで保護いたしました。…残すところは、もう……」


 教会のシスターが重々しく事態を告げる。いよいよ結界が機能する地域も、ここ、ゼスナのみとなってしまった。銀に薄くサーモンピンクの色が帯びた美しい髪の少女は、そのまま目を閉じて気を集中させている。

 神授の聖者とも呼ばれる少女は、もはやこの世界最後の希望であった。


 この世界≪ハライア≫は、滅亡の寸前だった。何の脈絡もなくやってきた、異世界からの侵略者…人呼んで

 災厄により発生した黒の激流は、人も建物も自然も、分け隔てることなくすべてを呑み込んでいった。辛うじてあらがうことのできる結界も、世界には数少ない最高位魔術士レベルでしか張ることができず、その結界もやがては破られ黒の海の藻屑となる。


 神授の聖者は、この世界が滅びゆく様を最前線で見てきた。結界まであと一息というところで激流に呑まれる者を、観光地として人気だった煌びやかな海が、絵を描くような感覚で黒に塗りつぶされる瞬間を、災厄の放つ火球により、一瞬で跡形もなくなった村を。


 災厄には、どんな抵抗も無意味だった。奴の身体はどんな攻撃でも傷一つつかなかった。ミスリルで作られた大剣も、大地を殺すような劇毒も、災厄の放ったような、一瞬で一つの村を滅ぼせるような極大魔術でも、そして世界でただ一つのトクベツ、白雷の魔術でも。

 多くの者が災厄の討伐を掲げ旅に出た。多くの国が災厄から土地と人民を護ろうとした。そのすべてがあえなく滅ぼされた。


 黒の激流という毒は着実に世界を食い潰してゆき、この世界はもはや風前の灯火だ。

 世界地図はもはや指でつまむようなほどしか残っておらず、世界の人口は何百分の一にもなった。

 この世界に、希望の芽はなかった。



 少女が目を開く。


「魔力の供給が終わりました。これより、既定の場所に向かいます」


 少しの間の後シスターに振り返りそう告げると、視界の端に姉の姿が映った。胸の前で固く両の手を握りしめ、不安そうな表情で少女を見ている。


 …きっと、心の底から私のことを案じてくれているのだろう。

 少女はそう思った。


 少々気が強く周囲に誤解されやすい性格の姉だが、心根は誰よりも優しく、いつも自分を気にかけてくれた。類稀な力を持ち神授の聖者としてこの世界に尽くしてきたが、そんな自分の原点は、きっと姉への憧れだった。


 姉が自分を想い助けてくれたように、自分もこの力でだれかを助けたい。

 …そう。自分が、成し遂げるのだ。


「フィー」


 姉の呼びかけに応えるようにやさしく抱きしめる。その髪色によく似合う、やわらかい花の香りが鼻腔をくすぐった。大好きな姉の匂いだ。

 姉の腕の力や肉付きを通し、その疲弊具合が伝わってくる。だが、彼女の心はまだ折れていなかった。

 彼女のぬくもりを確かめ、より一層決意する。


「行ってきます」





 結界の中心点に移動した少女は、そこに描かれた巨大な魔方陣の真ん中で詠唱を始める。すると、魔方陣に白き稲妻のようなエネルギーが迸った。


「――――」


 魔方陣に満ちたエネルギーは拡散して街中を駆け、別の魔方陣を中継すると、さらに外へと駆け巡る。


(この世界はもう限界。私以外の高位術者の結界もすべて破られた)


 やがて稲妻が結界の境界線までまでたどり着くと、境界を押し広げるように更に向こう側まで範囲を伸ばしてゆく。

 もっと広く、もっと多く。

 この身に宿るすべての力を振り絞って、一人でも多くの人を救えるように。


(これが本当のラストチャンス。だからお願い…)


 頭の中に一人の少年の顔がよぎる。


『困ったときは、俺が力になるから―――』


 白き稲妻が最後に円を描き、一つの巨大な魔方陣が完成した。強烈なエネルギーに満ちた一帯では、もはや彼女以外誰も意識を保っていられなかった。


(私に、力を貸してください―――!!)


「――――!」






 そして世界は白き閃光に包まれて――――

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