第13話:オレンジ①「誰か私を自由にしてくれないかな」

 私にとってバイトとはすごく楽しく、心休まる居場所の一つでもあった。


 ちなみに言うと私はバイトをする必要がない。なぜならこれでも一応かなりのお嬢様だからだ。別にお小遣いが欲しい訳ではなかった。


 物心ついたころから、私には習い事の日々が待っていた。茶道に華道、お琴にピアノも習った。小さい頃は、それこそ自由がなかった。今でこそ、学業やそういった習い事で優秀な成績を修めているため、ある程度の自由は与えられている。今でも習い事はたくさんさせられているが。私にとって自分の家とは息が詰まるところだった。

 そんな私が気を休められるところといえば、学校か、バイト先くらいのものだった。

 バイト先はおしゃれなカフェ。そういうところに憧れがあった。バイトを始める時、親と一悶着あったけど、どうにか説得して週1くらいでバイトをしている。


 夏休みも残り2日となった今日は、夏休み最後のバイトの日。

 今日もその週に一度のバイトで楽しく一日を過ごすはずだった。しかし、そんな一日は最悪のスタートを切ってしまった。そう、寝坊だ。

 昨日に限って、WEBの少女漫画を読み出したら続きが気になって止まらなくなり、寝るのが遅くなってしまったのだ。

 お嬢様と言っても私だって普通の女子高生だ。そういったこともある。


 寝坊した理由は置いておいて、今は急いでお店に向かわなければならない。

 今日はあの、エリアマネージャーがお店を見に来るからだ。エリアマネージャーは、厳しいことで有名で月に1回、この地域の各系列店を見回りにくるらしい。らしいというのは、今までシフトでエリアマネージャーが来る日と被ったことがなかったからだ。


 幸い、エリアマネージャーが来るのはお昼からと聞いている。今から全力で自転車を漕いで行けば、朝礼の時間にはギリギリ間に合うと思う。

 朝ごはんも食べれずに髪の毛もくしゃくしゃで出ないと行けないのは、本当に嫌だったが背に腹は代えられない。最低限の身だしなみを整えて自転車に跨り、私はショッピングモールまでの道を駆け抜けた。これでもお嬢様かと自分にツッコミを入れたい。


 今日も1日、猛暑日になる。そんな予感が真上を照りつく太陽から感じ取れる。ショッピングモールまでの道すがら、これなら間に合うと思っていた私に更なる不幸が舞い降りる。それは、自転車のパンクだった。


「最悪......」そんな言葉が自然と口から溢れた。結局、この茹だるような暑さの中、私は自転車を押してどうにかバイト先までたどり着いた。たどり着いた時にはもう汗だくだった。バイトは朝礼に間に合わず、10分ほど遅刻してしまった。


 店長ならそのくらいのことは笑って許してくれる。そう油断していた。今日は店長は本社への研修で不在にしており、そんな日に限ってエリアマネージャーが早く来ていたのだった。


 朝礼中のタイミングで入って来た私をギロリと睨むとツカツカ音を立てて、私の方へ向かって来た。そして朝からお説教が始まった。

 普段から習い事で怒られ慣れている私でも恐いと思うほどだった。途中から涙目だったと思う。本当についてない。


 私はこの職場が好きだ。おしゃれだし、ご飯は美味しいし、一緒に働いている人もみんな優しい。前にも言ったが、心休まるところ。それがこのカフェだ。

 だけど今日1日でその評価が覆りそうになるほど、あのマネージャーの印象は劇的だった。


 今日だけでもう一生分の不幸が降りかかった気がする。そんな大げさな愚痴を新人の子に溢していた。

 だけどそうやって気を緩めているとあのマネージャーの目が光った気がした。私はすぐにその場から離れ、店の中をラウンドした。


 その後は、マネージャーの怪しく光る目をなんとか回避しつつも、お昼の書き入れ時がやって来た。ピークさえ過ぎれば今日のバイトは終わり!いつもならバイトの時間は楽しく、家に帰るのも億劫な気持ちを抱えていたが、今日は逆だった。ピークが過ぎて、早く帰ることを目標にしつつ、お昼に群がる客を捌いていった。


 だけどここで今日一番の不運がまたしても私にのしかかって来た。

 もうすぐ上がれることで気が緩んでいたこともあったのかもしれない。


 新人の子が何やら嬉しそうに話しかけてきたのだ。


「私好みの爽やかなお兄さんが入店してきました!!」


 別に興味があったわけではないが、そこまで興奮して言う彼女の姿に少しばかり感化されたのか、呼び出しベルがなった時、私はすかさず水を運びに行くことにした。後ろから、「えー」と聞こえたが聞こえていないふりをした。


 私は、水を入れたグラスをトレンチに乗せ、その客の顔を運びながら見た。確かに小綺麗な顔立ちをして爽やかそうである。まあ、私の好みってほどではないけど、人によってはイケメンと呼ぶ顔立ちだろう。

 そう考えていたその時だった。私は何かに躓き、盛大に運んで来た水をそのお客さんにぶちまけてしまった。


 私も転んでしまい、腕を擦りむいたがそれどころではない。急いでお客さんの元へ向かい、謝罪した。そして落として割れたグラスを拾おうとした時、手で制止された。なんでと思ったが、いち早く、拭くためのタオルが欲しいとのことだった。


 だけどこれは建前だと後で分かった。そのお客さんは割れたグラスで私が怪我しないように先に拾っていてくれたのだった。それはタオルを持って戻って来た時に既に片付けられた破片を見て気がついた。なんて優しい人なんだろう。そう思っているとお客さんが私を見つめている。あんまり見つめられ慣れていない私は、少し照れながらも、我に帰りお客さんに話しかけた。


 その時だった。例のあの人がやって来た。

 また運悪く、その騒動にエリアマネージャーが駆けつけて来てしまったのだ。私は頭が痛くなった。いや、私が犯したミスのせいでこうなっているので自業自得なのだが、またあの雷が飛んで来るかと思うと、気が気でなかった。


 案の定お客さんの前で怒られた私はまたもや、涙目になっていた。朝からやることなすこと空回り。もうやだ......

 そうして本気で人前で泣きそうになった時だった。


 謝り倒す私とエリアマネージャーにお客さんは私を庇ってくれるようなことを言ったのだ。

 それも超絶爽やかな笑顔付きで。何あれ、ずるい。こんな時にそんな優しくされたら余計に泣いてしまう。お客さんの前で泣かないように必死に我慢しながら、仕事に戻った。


 結局その場はそのお客さんの好意で一大事にならずに済んだ。マネージャーには後で説教とまではいかなかったが、少し嗜められた程度で終わった。それもこれもあの神客のおかげだ。私の中であのお客さんは神に昇格していた。





 そうしてどうにか今日のバイトを終えた私は、休憩室兼、更衣室へと向かった。そこで私にまたまた、ハプニングが訪れる。しかし、今回に限っては不運ではなく、幸運の方だった。


 今日1日のことをぼやきながら、休憩室に入るとそこには、恐るべき肉体を持つ男性がいた。

 ゆっくりと振り向くその姿。それはまさしく。先ほどの神客だった。

 慌てて、休憩室から出る私。柄にもなく、めちゃくちゃドキドキした。


 何々!?あの体!?爽やかな上に、あんなすごい体......

 すぐ今、見た肢体を思い出し、更に顔が熱くなる。私は首をブンブンと振り、その邪念を打ち払った。


 そして中から先ほどの彼の声が聞こえて来る。どうやら、私が濡らしてしまった服を着替えようとしたら、エリアマネージャーにここを通されたらしい。一応ここ、更衣室でもあるんだけどな。私が着替えてたらどうするつもりだったのだろう。

 休憩室の外で彼が出て来るまでの間、私の頭の中を一つの考えがぐるぐると回っていた。

 それは、先ほどのことについてお礼を言うということだ。

 緊張していた。先ほどの裸を見たこともあって、顔が熱い。何回も何回も脳内でシミュレーションしていた。

 そしてその時はすぐにやってきた。


 着替えた彼は慌てて、休憩室から出て来る。そしてすぐにその場を去ろうとした。

 私は意を決して、彼を呼び止める。そして。


「さっきは、庇って頂いて嬉しかったでしゅ......では!」


 ああああああああ......恥ずかしい..............

 盛大に噛んでしまった。恥ずかしくなって私は、彼の反応を見ることなく、休憩室に戻った。

 それにお礼の言葉は言えていない。何回もシミュレーションした結果は散々なものとなった。




「ただいまー」


 私はバイトを終え、パンクした自転車を押して家に戻って来た。時刻は3時過ぎ。思ったより遅くなってしまった。習い事の時間にはまだある。

 私は、汗をシャワーで流し、部屋着に着替えた後、ベッドに寝転んだ。

 そして、今日のあの人のことを考えていた。


「ああああああああああああああああああ」


 私は、枕に顔を埋め、足をバタバタしながらこれでもかと言うくらい叫んだ。

 やばい、やばい、やばい。あんなの反則だ。あんなに優しくて、あんなに爽やかで、あんなに肉体美を持ってるなんて。どうしよう。


 私は普段学校ではクールビューティーなどと持て囃され、男子に一切興味のないような態度をとってはいるが、そんなことない。私だって一人の女の子だ。かっこいい男の子がいればその人のことを考えてしまうくらい、普通の女の子だ。だけどこんな私の一面を知っている人はいない。


「はあ......」


 一旦落ち着こう。こんなのいつもの私らしくない。別に素を隠しているわけでもないが、皆の言うこの冷静なのもまた、私なのだ。


 コンコン。

 部屋にノックの音が響き渡る。


「ひゃい!」


 落ち着きを取り戻しつつあった私だったが、何分急だったので声が裏返ってしまった。

 ガチャリと言う音とともに、綺麗な服装に身を包んだ女性が部屋に入って来た。


「橙火さん?どうしたの?そんなに慌てて?」


「ママ!ううん、なんでもない......」


「そう?お華の先生が予定より早く着くそうだから、御仕度なさい?バイトで疲れてるのかもしれませんが、こちら疎かにしてはいけませんよ?」


「う、うん。分かってるよ」


「そ?ならいいですが。約束はしっかり守ってくださいね?」


 ママは私に用件を伝えると部屋から出ていった。

 約束。それは私がバイトをする条件だ。バイトを始める時、これまで以上に習い事や学業で成績を残すこと。それがママと交わした約束だった。


「はあ......」


 ため息がこぼれてしまう。やっぱりこの家は息苦しい。全部、親に決められて親の言いなり。いつか、結婚相手まで決められてしまうのだろうか。そう思うとため息が何度も出てしまうのは仕方のないことだった。


 誰か私を自由にしてくれないかな。

 そう思った瞬間、不意に今日のあの人の笑顔が頭に過ぎった。


 ってなんであの人が出てくるのよ!!

 別に好きとかそう言うんじゃない。偶々、弱っていたところに優しくされただけ。というか誰かを好きになったことなんてないし、そんな感覚わからない。それにどうせ、親に全部決められるんだ。そうして私は無駄な感情だと切り捨てた。


 私は赤くなった顔を熱を冷ましながら、和服に着替えて稽古場に向かった。

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