夜雨寄北
春嵐
響
新聞文芸部の戸棚。
自分たちの作品。
机。
スカートに引っ掛かるから後輩に削らせた椅子。
通い慣れたこの部室にも、もう来ることはない。
卒業式を抜けてきた。
証書を渡すだけの儀式に、興味はない。なんでみんな、そんなに名前を呼ばれるのが楽しいんだろうか。
「なつかしいな」
高校生活で何度も作った、数々の部誌。
キスの回数と愛情の相関について書いた研究を先生が寄稿したり、理科研究部から涙の研究についての紹介文入れたりしたっけ。
まとめたり編集したりは、した。それでも、3年間で一度も、書くことはなかった。私の作品は部誌に載っていない。
編集後記にも、名簿にも、私の名前は載せなかった。ここに、私は、いない。そういうことになる。
自分の名前が載るのが、なぜか、いやだった。こんなにも楽しかった部活が。高校生活が。そのなかに、私の名前を入れたくない。
「なんでなんだろう」
卒業証書に名前を書かれるのは大丈夫なのに。自分でノートに名前を書くのは大丈夫なのに。
「先輩」
「お、新部長」
2年の男子生徒。1年のとき突然部室に入ってきて、入れてほしいと言い出したやつ。
こいつの入部を皮切りに、私ひとりだけだった新聞文芸部は部員10人の大所帯になった。ちなみに、男子生徒はこいつだけ。私も含め、残りは全員女。
「やめてくださいよ、それ。先輩も別に部長名乗ってなかったし」
「私はひとりだけの先輩だからな。先輩って呼ばれるだけでよかった」
だがこいつは、これからも新聞文芸部にいる。
「先輩。卒業式は、行かなくていいんすか」
「名前を呼ばれるだけのところに。何が楽しくてそんなところへ行くんだか。それに、お前も」
「はい。抜けてきました。俺は新部長ですから。取材準備と言えばなんとでもなる」
「立派な権力濫用だな」
「そのための、そう、今日ここに来るための権力ですから」
「ん?」
「先輩。俺、新聞文芸部をつぶそうと思ってます」
ちょっと、予想外だった。
部活をやめるだろうなとは、薄々思っていた。部活動のためにここに通って私の側にいたわけではないらしい、というのはなんとなく分かる。
「つぶす、か」
「はい」
「それはかまわないけど、理由は訊いてもいいかな」
「止めないんすね」
「新部長の決定だからな。卒業していなくなるやつがどうこう言うことでもない」
「俺は、先輩。先輩と一緒にいたこの部室が、いや違うな」
言葉を待つ。
「俺は、先輩と一緒の部活がだいすきでした。みんなで駆けずり回って情報を集めたり寄稿を募集したり、部員が小説書くのを部室でみんなで見てたり」
「そうだな。私も楽しかった」
「先輩がいたからです」
「ありがとう」
「先輩が」
言葉を待つ。
「先輩のいない部活に、俺は、耐えられません」
「なぜ」
「先輩のことが」
迷うような、仕草。
「好きでした。でも、先輩は、結婚、するんですよね。卒業したら。電話してるの、聞いちゃって、すいません」
結婚。
私が。
何言ってるんだこいつ。
高卒で結婚するわけないじゃないか。相手もいないのに。
「だから、耐えられなくて。先輩は、ここに」
「待て。なんで、私が結婚するんだ」
「最後まで聞いてください」
最後まで、聞くことにした。
「俺には先輩の記憶があるのに、ここには先輩の名前がない。まるで自分は最初からいなかったような、そんなの」
涙。
「耐えられない。だから、つぶしたいです。部室ごと」
沈黙。
「話は終わりか?」
「はい。すいませんでした。帰ります」
「待て」
「いえ。つらいのでもう帰ります」
「だめだ。座れ」
椅子を蹴飛ばして、新部長のほうに寄越す。
「座れ。いいから。お前の間違いを正してやる」
新部長。椅子の前で、突っ立っている。座ろうとしない。
「さて。校正しよう」
私も立ち上がった。
「ここを卒業した後の私のことだ。おまえはどこまで知っている」
「中国に、行くんですよね」
「そうだ。中国のどこに行くかは、分かるか?」
「いえ」
「浙江。浙江省だ。そこで漢詩を学ぶ」
「そう、ですか」
「どこをどう聞き間違ったか、分かるか?」
「なんのことですか」
「浙江だ。結婚じゃない。相手がいないのにどうやって結婚するんだ。ばかかお前は」
「えっ?」
「一言訊けば分かるだろうが。なんで私に訊かないんだ」
「だって中国、だし、望まない結婚、かなって」
「おまえ、ばかだな。試験の成績は悪くなかったはずなのに」
「せ、先輩は、結婚、しない」
「しない。座れ」
新部長。座った。心ここにあらずという感じだった。
「私から、聞きたいことがある」
「はい」
「私は、気になっていることがある」
「あ、ごめんなさい。俺さっき」
告白したことを思い出したのか。
「それはどうでもいい。そんなのお前が一年のときから分かってるわ」
「え、え?」
「重要なのはそこじゃない。訊きたいのは」
「告白したのに重要じゃないとか、まじか、へこむなあ」
「私の名前のことだ。おまえ、なんで私が部誌や記録に私の名前を書こうとしないのか、分かるんじゃないか?」
「え?」
「分かんないんだ。なんで名前を書かないのか。自分でも」
「あ、そんなことですか」
「そんなことか」
「ええ。そんなの俺が一年のときから分かってます」
一年のときから。
「先輩は、名前呼ばれるのがいやなんですよ」
「なんでいやなのかが分からなくて」
「いやいや。濁点と発音です。簡単な話です。先輩は、名前、というか名字の途中の濁点がきらいなんです。濁るのが嫌だから」
「は?」
「名字を書くのがいやなんじゃなくて、呼ばれるのがいやなんですよ。だから卒業式も抜けてくる」
名字の濁点がきらい。考えたこともなかった。
「そうか。名字の発音か。ありがとう」
「先輩」
「分かった。ためしに、私の名字を呼べ」
「えっ」
「はやくしろ」
新部長。泣き顔。
「響。響先輩」
名字。私の。
「きらいになりましたか。俺のこと」
「いや、全然」
「あれ」
「というか、いやじゃなかったけど」
「あれ、なんでだろう。おかしいな」
「おかしくないよ。わかってたことだから」
椅子を寄せる。
「私もお前のことが好きだ。だから新聞文芸部の活動は楽しかった。それに」
それに。
「お前に呼ばれるなら、いやな名字も、いやじゃなくなる」
「先輩」
「おっと。キスはしないぞ。おまえ泣いてるからな。ハグだけだ」
「はい」
ハグした。
「暖かいな、おまえ」
「先輩。くるしいです」
「えっ」
「締めないでください。くるしい」
「あっ、ごめん」
力加減難しいな。
「大丈夫だから。一年ぐらい浙江で学んでから、こっちに戻ってくるから。同じ大学に行ってあげるよ」
「先輩。俺」
「耐えられるか。この部室と部活のなかでも」
「俺。続けます。部活。先輩のこと想って、一年間、先輩のために」
「よし。いい子だ」
そうだ。
「戻ってきたら、あなたの言うとおりにしよう。そうだそれがいい」
「なんすか」
「籍を入れよう。あなたが私の、名字を消すの。あなたの言うとおり、結婚、しよう」
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