曇りのち、雪(雨)。
十二月。一年の終わりの月。本格的な冬を迎え、寒さが増す季節。
多くの人が、締まりの良い年末を迎えるために、忙しなくなる季節。
私が生まれたのは、そんな季節だった。だからというわけではないが、私は寒いのは好きだった。
寒いからという理由で、人にくっつくことが出来るから、好きだった。
私が中学二年の頃。私が生まれた月に、兄は結婚した。相手は大学時代の同級生。結婚する頃、既に相手はそのお腹に新たな命を宿していたが、それが発覚したのは結婚を決めた後だったらしい。
年の離れていた兄は、仕事で忙しい両親に代わり、幼い頃から私の面倒を見てくれていた。私にとっては、親にも近い存在だった。その兄が、愛する人と結婚するという。それを祝福しなければならないはずなのに、私には心から祝福することができなかった。
結婚相手が嫌いだったわけではない。その人とは兄が大学生だった頃、まだ二人が恋人だった頃から知っていた。私を妹のように可愛がってくれたし、とても気のきく、優しい人だった。
だから決して、その人が原因というわけではなかった。原因は分かりきっている。ただ、それを認めたくはなかった。認めてはいけない気がしたし、実際、認めてはいけなかった。そうしているうちに、年が明けていた。
兄夫婦が一度目の結婚記念日を迎え、年を跨ごうとした頃。私の誕生日も過ぎ、年末も近付いたからと、皆で過ごすことになった。家には両親と私、兄の妻――つまり私の義理の姉ということになる――と、兄夫婦の子供の五人が居た。兄は仕事が終わるのが遅くなるということで、その帰りを待っていた。
兄夫婦が住んでいたのは、兄の実家――つまり私が暮らしている家から車で一時間ほどの場所だった。兄が勤めている会社は実家の逆方向で、兄夫婦の家から三十分ほどの距離。会社から実家までは、道によっては一時間くらいで着く距離らしい。通うのが楽になったと、兄が笑っていたのを覚えている。
八時頃、兄から電話が着た。一度家に戻るから、着くのは九時半くらいになると。その電話を聞いていた母が心配そうに「雪が降っているから気を付けて来るのよ」と言って、それを伝えると、兄は「分かってるよ」と言って笑っていた。
兄が言っていた九時半を過ぎても、兄は帰ってこなかった。少しくらい遅れても仕方ないだろうと、特に誰も気にはしていなかった。けれど、私はなんだか胸騒ぎがしていた。
十時を過ぎた頃、家の電話が鳴った。電話に出たのは母だった。兄かと思って電話に出た母は、初めはいつもと変わりない声色だった。それはやがて暗く、小さくなっていった。
父と義姉が何かあったのか、と強張った表情で母を見ていて、私は甥の相手をしながら、ひどく、鼓動が早まっているのを感じていた。
母は電話を切るなり、そのまま床に座り込んでしまった。父がどうしたと聞くと、母はゆっくりと、電話の内容を話した。
十一時を過ぎた頃、私達は病院にいた。何が起きているのか、何が起きたのか、理解できなかった。理解したくなかった。
私達の目の前には、白い布を顔に掛けられた兄が、静かに横になっていた。
義姉が、兄の名を呼びながら泣き崩れた姿を。
母が、聞いたこともないような大きな声で泣いている姿を。
父が、強く手を握って泣くのを耐えていた姿を。
今でも、よく覚えている。
――まだ若いのに、かわいそうに。
――雪道で対向車線の車がスリップして、
――相手は飲酒運転だったらしい。
――正面衝突で、ほぼ即死だったって。
――結婚したばかりだったのに。
――奥さんとお子さん、どうするのかしら。
兄の葬式の日。親戚の人達がひそひそと、兄の死因について話していた。
仕事の帰り、一度家に戻った後。こちらへ向かおうと車を走らせていたところ、飲酒運転の車が雪道でスリップして対向車線にはみ出し、兄の車と正面衝突。兄はほぼ即死で、相手の車の運転手も重傷だったらしい。
親族の中には、なぜ死んだのが相手ではなかったのか、と憤っている人もいた。悪いのは向こうだろう、なぜ、何もしていない兄が死ななければならなかったのか、と。
大人達の会話を聞き続ける気にならなくて、少し外の空気を吸おうと、会場から出た。そこには先客がいた。義姉が甥を抱えながら、そこに立っていた。
「どう、したんですか」
「あ、見つかっちゃった。ちょっとね、外の空気を吸いたくて」
兄が亡くなった日から、あまり寝ていないらしい義姉の目の下には、隈が出来ていた。彼女の隣に並ぶ。彼女は悲しそうな目で、じっ、と目の前を見つめていた。
「あの日泣きすぎちゃったせいか、涙が出ないの」
もう枯れちゃったのかしら、と困ったように笑うその人。その腕の中では、子供がすやすやと、眠りに落ちている。
「私も、泣けないんです」
兄の遺体を目にした時も。その後も。今も。
心はこれ以上ないほどに痛んでいるのに、なぜか、涙は出なかった。
義姉は、変わらず困ったように笑っている。
「泣けないことは、別に悪いことじゃないでしょう」
そう言いながら、慰めるように、私の頭を撫でた。その時初めて、涙が出そうになった。
けれど、義姉の前では泣きたくはなかった。理由はハッキリしている。そして、そう思ってしまう自分に、また、泣きたくなった。
結局、私が涙を流すことはないまま、葬式は終わった。家に帰ると、両親と義姉は、兄の遺品を整理するために兄の部屋に行った。とは言っても、夫婦で暮らす家にほとんどの荷物を移していたため、実家の兄の部屋には殆ど物はなかった。
翌日、兄夫婦が暮らしていた家から、兄の荷物を実家に戻すことになった。義姉が、子供のこともあるからと、自分の実家に帰ることにしたからだ。
その後、義姉は一年余りを夫婦で過ごした家を引き払い、実家へと帰っていった。けれど、家と義姉の実家はそれほど離れていなかったため、週末になるとよく、子供を連れて家に遊びに来ていた。
その度に、両親はとても喜んでいて、兄がいなくなっても変わらず、義姉を本当の娘のように可愛がっていた。もちろん、両親にとっては初孫である甥のことも。
季節が変わっても、義姉は相変わらず家に来ていて、両親も自分達の子供が帰ってきた時のように喜んでいた。
そうして、高校に入学して間もない頃。私は、兄の墓前にいた。
ちゃんと兄にお別れをしていない。と、そう下校中にふと思い出し、そのまま墓地までやって来たのだ。
途中で買ってきた花を添え、手を合わせる。
三月の末。深い雪が積もり、空からは雪が舞っていた。寒いから早く帰ろうと立ち上がり、兄の墓を見つめ、一呼吸。
ちゃんと、兄に別れを言わなければ。
頬に何か冷たいものが伝うのを感じながら、静寂の中で、小さく、言葉を零した。
「さようなら、お兄ちゃん」
私は貴方を、愛していました。
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