本日の天気、雨のち晴れ。
四月。冬が終わり、陽が長くなり、暖かくなる季節。
秋から冬にかけて葉を落とした木々が再び葉をつけ、沢山の花が咲き始める、春。
桜が満開になる頃、彼らは高校二年生になった。
*
新学期の始業式を終え、藤宮朱里(ふじみや・あかり)は彼女の兄の墓前に居た。どこかに出掛けた帰り際、その場所で両手を合わせるのが、あの日からの彼女の日課になっていた。
両手を合わせ、目を瞑り、兄の安らかな眠りを願う。それ以外には特に何をするわけでもない。手を合わせ終えると、あとはもう家に帰るだけ。それが、最愛の兄を失ってから一年間の、彼女の日課であり全てだった。
「ただいまー」
自宅の玄関を開け、家の中に入る。両親は共働きで、この時間に家にいるということはまずなかった。それでもその言葉を告げるのは、幼い頃からの習慣が染みついてしまっているから。
しかしその日は違った。玄関には見覚えのある靴があり、家の中から声が返ってきた。
「あら、おかえりなさい」
居間から顔を覗かせたのは、亡き兄の妻。つまり、朱里の義姉にあたる女性だった。彼女の腕の中ではまだ幼い子供がすやすやと、気持ちよさそうに寝息を立てている。
「来るなら教えておいてくれればいいのに」
彼女が拗ねたように言うと、義姉は小さく笑いながら「急な用事だったから。ごめんね」と答える。その物言いに何事かと首を傾げる。
「実は今日少し出掛けなくちゃいけなくなって。私の両親も今日は遅くまで帰って来れないみたいで」
「つまり秋人(あきと)くんを預かってくれって?」
秋人、というのは義姉の腕の中で眠りに就いている彼女の子供の名だ。名付け親は父親、つまり朱里の兄。秋に生まれたから秋人。何とも安直な名前だが、分かりやすくていいだろう、と彼の人は笑っていた。
困ったように言う義姉の言葉を引き継ぐように問えば、義姉はそう、と小さく頷いた。
「あんまり遅くはならないから」
「はーい。気を付けてね」
「えぇ。じゃあお願いね」
まだ眠ったままの子供を起こさないように、慎重に朱里に預け、義姉は急ぐように家を出て行った。
その後ろ姿を見送りながら、兄と彼女が結婚した当初は、彼女とこんなふうに会話をする日など想像もしていなかったことを思い出す。初めの頃、心の距離を示すように使っていた敬語が外れたのは、一体いつのことだったか。
遠き日に思いを馳せそうになった朱里を現実に引き戻したのは、彼女の腕の中へと移された秋人の泣き声だった。
抱く人が変わったからなのか、単純に丁度目を覚ましただけなのか。どちらなのかは分からないが、ぐずり始めてしまった秋人を宥めながら、朱里はようやく居間の中へと場所を移した。
*
「さむっ……」
春になったとはいえ、暖かいのは陽射しだけで、時折吹く風はまだ冬の冷たさが残っている。まだ上着を脱ぐには寒く、しかし冬と同じ上着では暑い。薄手の上着を一枚羽織り、外に出たのはいいものの、夕方の風は昼間よりも冷たかった。
寒さに思わず小さく身体を震わせ、少年――鈴木孝弘(すずき・たかひろ)は、買い物バッグと財布を手に、暗くなりつつある商店街を歩いていた。
つい十数分前、学校から帰った孝弘に、母親が夕飯の買い物を頼んだのだ。当の本人はまだ家事が残っているから、と。好きなものを買ってきていいから、と少し多めに金を渡されてしまっては、断る理由もなく。それでも渋々承諾し、孝弘は買い物に向かっていた。
ちらりと渡されたメモを見れば、おそらく夕飯に使うのであろう食材と、日用品の名前。これなら近くのスーパーで買えるだろうと踏み、孝弘は目的地をスーパーに定める。
目的のスーパーに辿り着き、母親に渡されたメモに書かれたものをカゴの中へ。新発売、とでかでかとしたポップの貼られたお菓子をついでに、とカゴに放り投げたところで、見覚えのある姿を見かけた。
「……藤宮さん?」
記憶の中からその人物の名前を探り、思わず口に出す。同じ高校に通う同級生の少女。一年の時は違うクラスだったが、二年になり同じクラスになった少女。だった気がする。
確かクラスの名簿の中に彼女の名前があったはず。今日教室の中で見たはず。と、既に姿を見失ってしまった人物について思考を巡らせる。
彼女がその小さな背中に背負っていた小さな子供。その姿が、何故か脳裏に焼き付いて離れなかった。
*
「おはよー」
「はよー」
早朝の教室に、続々と登校してきた生徒たちの声が響く。友人と話していたり読書をしていたり、その過ごし方は様々だった。
「孝弘おっすー」
「はよ……」
登校してきた孝弘に声を掛けたのは、一年の時も同じクラスだった高橋雅也(たかはし・まさや)。人の良さそうな顔に、爽やかな笑顔を浮かべる彼は、孝弘の友人の一人。
「今日もテンション低いなー」
「君のテンションが高いだけでしょ」
朝には弱い孝弘に、雅也の元気のいい声はいささか不愉快だった。それを露骨に表情に出してみるものの、雅也は気付いているのかいないのか、彼の傍から離れる気配はない。
「……あ、」
「ん?」
教室に入ってきた藤宮朱里の姿を見つけ、思わず小さく声を出してしまう。その声自体に意味は何もなく、雅也は不思議そうな顔をして孝弘の視線を追う。
「藤宮がどうかしたのか?」
「……なんでもない」
同じく藤宮の姿を見つけた雅也が問うも、昨日スーパーで見かけたような気がする、という話をわざわざする気も起きず、適当に話題を逸らす。
「そう言えば昨日の、」と昨夜放送していた番組の話を持ち出せば、雅也の興味はあっという間にその話題へと移った。
一日はあっという間に終わり、孝弘は帰路についていた。多くの生徒は部活動に精を出している時間。部活に所属していない孝弘は、運動部の掛け声を背に学校からどんどんと遠ざかっていく。
帰宅した孝弘を待っていたのは、昨日のように買い物を頼む母親だった。やはり多めに金を渡され、断る理由もなく制服のまま買い物へと向かう。メモを見れば、今日の夕飯に使うのであろう食材の名前。買い忘れたのか、元々孝弘に頼むつもりだったのか。もし後者であったなら、いっそ朝のうちに言ってほしかったと、小さく溜息を吐く。
昨日と同じスーパーに辿り着く。早く買い物を済ませようと、メモを見ながら目的のものをカゴに入れていく。
最後の一つをカゴに放り込み、レジに向かおうとした孝弘の足を止めたのは、ふと視界に入った、彼の好物であるさくらんぼ。折角多めに金を渡されたのだし、構わないだろうと手を伸ばした彼の視界に、彼より小柄な手が映った。
「す、すみません」
「いえ、こちらこそ……」
偶然にも同じさくらんぼに手を伸ばした二人は、咄嗟に同時に手を引っ込める。そこで互いに顔を見合わせ、同時に小さく声を漏らした。
「鈴木くん……?」
「藤宮さん……」
孝弘の苗字を呼んだのは、昨日もこの店で姿を見つけた藤宮朱里、その人だった。彼女の背には、昨日と同じように幼い子供の姿が。その子供はすやすやと安らかな寝息を立てている。
「……」
「あ、えっと、この子は私の甥で……」
思わず子供を凝視してしまった孝弘に、藤宮はどこか気まずそうに話す。義理の姉が用事で出掛けている間、よく預かって面倒を見ているのだという。
「大変そうだね」
「そうでもないよ」
素直に感想を漏らせば、彼女は本心からそうは思っていない、というような顔で答える。「昨日もここで買い物してたよね」と聞けば、「大体いつも夕飯の買い物は私がしてるの」と答えが返ってくる。
「鈴木くんもいつも買い物してるの?」
「いや……、僕はたまに、母さんに頼まれて……」
「そうなんだ」
偉いね、と笑う彼女に、君の方が、と返す。そう? と聞き返しながらも、その顔はどこか嬉しそうだった。
「家近いの?」
「そんなに遠くはないかな」
「そうなんだ、知らなかった」
目の前のさくらんぼへの興味は薄れ、二人はそのままその場で少し話し込んでいた。藤宮の背にいる幼子のぐずる声で、ようやくそれぞれの目的を思い出す。
さくらんぼを買おうとしていたことなどすっかり忘れ、お互いに「また明日」と声を掛けて離れ、孝弘はすぐさまレジへと向かった。藤宮はまだ途中だったのか、そのまま店の奥へと消えて行った。
「あ、さくらんぼ……」
会計を終え、店の外に出たところで、孝弘はようやくそれを思い出した。
「……今度でいいか」
明日もまた買い物を頼まれるかもしれないし、と。孝弘はそのまま家へと歩を進める。
また買い物を頼まれるかもしれない。そう思っても、不思議とあまり嫌な気はしなかった。それどころか、むしろ頼んでくれないだろうか、と思っている自分がいることに気付く。
その理由には気付かないようにして、少年は日が暮れ暗くなり始めた商店街の中を歩いた。
*
少年の願いはしかし、そう簡単に叶うことはなく。その翌日も翌々日も、買い物を頼まれることなどなく、いつもと変わらない日常を過ごしていた。
スーパーで会えないなら普通に教室で話せばいいのだが、少年の中にその選択肢はなかった。考えなかったわけではない。けれど、教室で話すきっかけがないのだ。彼女とまともに話したのはあの日が初めてだった。そんな自分が突然話しかけても、彼女も困惑するだろう、と。
もしかしたらこのまま、彼女と話すことなどもう二度となく卒業してしまうのかもしれない。ぼんやりとそんな思考が浮かんでは、そうなってもいいか、と窓の外へ視線を投げる。
そもそも、どうしてこんなにも彼女と話したいと思う自分がいるのか、孝弘には理解できていなかった。ただ、なんとなく。そう、なんとなく、彼女には自分と同じようなものを感じていたのだ。
(それこそ迷惑だろうな)
視線を外に向けたまま、過ぎた日に想いを馳せる。あの日も、こんなふうに晴れた日だった、と。
「あ、鈴木くん」
下校中、無性にさくらんぼを食べたくなり、この間買い損ねてしまっていたことを思い出し、孝弘はいつものスーパーに立ち寄っていた。
そこで彼に声を掛けてきたのは、つい先日この場所で言葉を交わして以来、学校でも言葉を交わすことのなかった藤宮だった。
「……久しぶり?」
「久しぶり……」
学校で顔を合わせてはいるため、決して久しぶりではないのだが、言葉を交わすのは実に数日振りであった。
やはり夕飯の買い出しに来ていたらしい藤宮に、さくらんぼが食べたくなって、と言えば、さくらんぼが好きなのかと問われる。
「果物の中では一番好きかな」
「そうなんだ、私も好き。美味しいよね」
小学生の頃、運動会の時のお弁当にさくらんぼが入っていて、それが楽しみだった、と。そんなことを話しながら、特に意味もなく藤宮の買い物に付き合う。藤宮がカゴに入れていく食材を見ながら、本日の藤宮家の夕飯を予想してみる。肉じゃがかと聞けば、よく分かったね、との返答。
「たまにご飯作るの手伝ったりするから」
「そうなんだ! ちょっと意外」
本当に意外そうな声色に、失礼な、と顔を顰める。そんな孝弘にごめんね、と申し訳なさそうに謝る藤宮に、孝弘は本気で怒ってはいないから、と申し訳ない気持ちになりながら首を振る。
「藤宮さんも手伝ったりするの?」
「うん、たまにね」
イメージ通りだと言えば、そう? と首を傾げる。買い物もこうして手伝っているくらいだから家事も手伝っているのかと思った、と素直に告げると、「ご飯くらいしか手伝わないけどね」と小さく笑った。
「藤宮さんの家って共働き?」
「うん、そう。お父さんもお母さんも帰ってくるの遅いから、いつも私が買い物に来るの」
「お母さんはいつも七時くらいには帰ってくるけどね」と言う藤宮の顔は笑顔だったが、その笑顔にはどこか陰りがあった。その正体を察してしまい、孝弘は何とも言えない気持ちになる。
「鈴木くんの家は?」
「うちも共働きだけど、母さんは昼間しか働いてないから、僕が帰る頃には家にいるかな」
「そうなんだー」
その言葉の後に「いいなー」と続きそうな声色で、藤宮は言う。その言葉は声にはならなかったが、その表情は確かにそう言っていた。
「そう言えば、今日はあの子いないんだね」
「あの子……、あぁ、甥っ子?」
スーパーで彼女と出会った時からの違和感に気付き尋ねれば、今日は母親――つまり藤宮の義理の姉と一緒にいるという。「二日続けて預かる方が珍しいんだよ」と、彼女は告げた。
「義理のお姉さんってことは、お兄さんのお嫁さん?」
「そう。一応ね」
「一応……?」
彼女が付け加えた言葉が引っかかったが、藤宮はにこりと笑みを返すだけだった。それ以上は聞いてはいけないのだろうと思い、孝弘は話題を変えることにした。
新たな話題はどうということはない、学校の話。連休明けに学力テストをやる、という今日担任が言っていたことを思い出し、何も連休明けにしなくても、と二人して愚痴を零す。授業が少し難しくなったという話や、クラスメイトの話。部活の話は、二人とも所属していない、ということですぐに終わった。
「ごめんね、長々話しちゃって」
「全然。むしろ僕こそ、買い物の邪魔しちゃってごめん」
「そんなことないよ」
結局藤宮が会計を終えるまで二人は話しこみ、買い物を終えたところでようやく話は終点を迎えた。二人して申し訳ないとは言いながらも、その表情は楽しそうなものだった。
「じゃあまた」
「うん、また」
店の外に出て、入り口のところで別れる。家が真逆であることは、以前に会った時に互いに知っていた。
少し歩いたところで、孝弘はふと振り返る。藤宮の後ろ姿が遠くに見えた。彼女が振り向くことはないだろうと思いながら、その背中を見送る。そうしていると、彼女が振り返った。
まだお互いにぼんやりと顔が見える距離。互いに少し驚いて、藤宮は笑顔で大きく手を振る。控えめに手を振り返せば、藤宮は少し照れたように笑って、再び背を向ける。その姿が見えなくなってから、孝弘も同じように、もう見えなくなった藤宮に背を向けた。
*
あれからも二人は、時折スーパーで顔を会わせてはその場で話すだけだった。教室内で言葉を交わすことは無に等しかったが、それはどちらかが提案したことなどではない。理由などないが、学校では話さないということが、二人にとって暗黙の了解となっていた。
月が代わり、世間は連休で賑わう頃。
孝弘の家は、普段は少し遠い街で暮らしている兄夫婦の帰省により、いつもよりも賑やかだった。
兄の嫁、つまり孝弘の義理の姉にあたる人が妊娠した、という話は、鈴木家の一大ニュースとなった。
「孝弘は彼女できたかぁ?」
夜、すっかり酒が入り酔っぱらっている兄に聞かれ、「出来ても言わない」と素っ気なく返事をする。
「気になる人とかいないの?」
その話題にのってきたのは義姉。彼女も酒を飲み少し酔っているのか、顔が少し赤くなっている。
「いない」と孝弘が答えるより先に、その話題が耳に入っていたらしい母親が会話に加わった。
「そういえば孝弘、最近よくスーパーに行くようになったわよね」
「スーパー? 何で?」
「もしかしてそこに気になる人でもいるの?」
「レジのお姉さんとか?」
孝弘が口を挟む間もなく、兄夫婦と母親の間で話が盛り上がっていく。「年上が好きなのか」という兄の言葉に「違う」と強めに返せば、義姉が「どんな子なの?」と聞いてくる。
気になっている人がいる、と孝弘が言ったわけではないのに、すっかりそういう方向で話が進んでしまっていた。
「……同じクラスの、藤宮、さん」
孝弘とこういった話が出来ることが嬉しいのか、義姉がキラキラとした目で見ている。そのことに耐え切れず、ついに孝弘は、彼自身が気付かぬようにしていたことを吐露してしまった。
「藤宮?」
孝弘の口から出た名を、兄が復唱する。その表情は先程までの酔っぱらいのそれとは違い、真剣なものだった。首を傾げる孝弘は、その表情の意味をすぐに理解する。
「もしかして藤宮朱里って子か?」
「知ってるの?」
「あぁ。その子のお兄さんが、大学の先輩なんだ。先輩の葬式の時に会った気がする」
「葬式……?」
聞けば、藤宮の兄は一昨年の冬に、事故で亡くなっているのだという。結婚したばかりの妻と、生まれたばかりの子供を残して。
それを聞いて、孝弘はスーパーでの藤宮との会話を思い出していた。あの時の笑顔は、そういうことだったのか、と。
「あの子同じクラスだったのかー」
先程までの真剣な表情は緩み、兄は「どんなこと話してるんだ?」と問う。再び義姉と母も質問攻めに参加しようとしたところで、孝弘はテスト勉強をするから、と無理矢理部屋に戻った。
部屋のドアを閉め、背中を預ける。ドアの向こうからは家族の笑い声が聞こえる。その声をどこか遠くに聞きながら、孝弘は深い溜め息を吐いた。
あの時、藤宮の笑顔の奥に確かに存在していた感情に、気付いてしまったような気がした。
*
翌日。孝弘はふらりといつものスーパーにやってきていた。理由など特になく、強いて言うのなら、藤宮に会えたらいい、くらいの気持ちだった。それが理由として十分であることに、孝弘は気付いていない。
目的もなくうろうろと店内を歩いていると、見覚えのある姿が視界に入った。もしかしたらいるのではないか、と思いながらやってきたものの、まさか本当にいるとは思ってもいなかった。少し驚き、すぐにその姿の傍へと駆け寄る。
「藤宮さん」
「あれ、鈴木くん? 偶然だね」
背後から声を掛けると、少し驚きながら藤宮が振り返る。どうやら今日も一人であるらしく、彼女以外には誰もいない。
「今日も買い物?」
「うん。鈴木くんは?」
「僕もまぁ、そんな感じ……」
とは言ったものの、孝弘の手には何もない。言い淀んだこともあり、買い物が目的ではないことは明白であった。それに気付き、藤宮はふふっ、と小さく笑う。
「……藤宮さん、今日ってこの後暇?」
「? うん、何もないよ」
孝弘の突然の問いに、藤宮は不思議そうに首を傾げる。
「ちょっと、どこかでゆっくり話さない?」
「じゃあ、一回家に帰ってからでもいい?」
「うん」
適当な場所で待ち合わせる約束をし、藤宮の買い物の邪魔をするのも、と思い孝弘は一度帰ることにした。何も買わないのもどうかと思い、適当な菓子と飲み物を買うことにし、スーパーをあとにした。
待ち合わせの時間は、スーパーで二人が会ってから一時間後。場所は二人の家からそれほど遠くない、あまり人気のない河川敷の小さな公園。
先に着いた孝弘は、公園の隅の方に設置されたブランコに腰掛けていた。
孝弘が到着してから十分も経たないうちに、藤宮も公園に辿り着いた。
「あ、ごめんね、待たせちゃった?」
「ううん。僕もさっき着いたばっかりだから」
テレビドラマでよく見るような会話を交わし、藤宮は孝弘が座るブランコの隣に腰掛ける。周囲には誰もおらず、風の音がうるさいくらいに耳に響く。
「僕、好きな人がいたんだ」
突然の告白。
ブランコに腰掛けたまま、真っ直ぐ前を見つめながら、それでもどこか遠くを見ながら、孝弘が呟く。
独り言のようなその言葉を、藤宮は静かに聞いていた。
「年の離れた兄がいるんだけど。その兄の一つ下で、僕達兄弟の幼馴染で。……今は、兄のお嫁さん」
「……じゃあ、お義姉さんなんだ」
「うん」
ゆっくりと話す孝弘を決して急かすようなことはせず、藤宮は時折相槌を打ちながら耳を傾ける。
二人の声しか聞こえない公園は、世界から切り離されているのではないかと思うくらい、静かだった。
「きっかけはよく覚えてないんだ。そんなものなかったのかもしれない」
遠い昔のことでも思い出すかのように、遠くを見つめたまま言葉を続ける。
「どこが好きだったの?」と藤宮に問われ、孝弘は少し考え込んだ。
「少し強気なところ。真っ直ぐなところ。それでいて、ちょっと寂しがり屋なところ」
もう、自分の恋人にはなることのない女性。その顔を、性格を思い浮かべながら、問いに答える。
「お兄さんとはいつ結婚したの?」
「去年の六月。だから、来月で一年」
「そうなんだ」
どんなことを話すのか、兄とはどれくらい仲が良いのか、二人の馴れ初めは。気付けば藤宮からの質問に答える形で、孝弘は話を進める。
「もう吹っ切れたの?」
「吹っ切れた、というと、嘘になるかな」
最後の問い。困ったような、諦めたような、そんな曖昧な表情を浮かべて、孝弘は答える。答えを聞いた藤宮は小さく、「そっか」とだけ返した。
「私もね、好きな人がいたんだぁ」
今度は藤宮が、先程までの孝弘を真似るように、どこか遠くを見つめながら告げる。そのすぐ後に沈黙してしまった藤宮を、孝弘は待った。
「中学三年の冬に、事故で死んじゃった」
「……一昨年?」
「そう」と、小さく頷く藤宮に、孝弘は言葉を飲み込んだ。
一昨年の冬。それはつまり、藤宮の兄が死んだという季節と同じ。もしかして、と思いながらも、その疑問を口にすることは憚られた。否、それは孝弘が言ってはいけない気がした。藤宮本人の口から聞くべきだと、そう思った。
「私のお兄ちゃんもね、年が離れてたの。小さい頃から親はどっちも仕事で忙しくて、お兄ちゃんが親代わりだった」
元々あまり社交的ではなく、いつも兄の後ろに隠れていて。異性の友達などおらず、兄が最も身近な異性だったのだ、と。そうして、気が付いた時には、兄を好きになっていたのだと。
独り言のように紡がれた言葉は、懺悔のようにも聞こえた。
「お兄さんの、どこが好きだったの?」
「優しいところ。強くて、頼りになるところ」
泣きそうな表情で、声で。どこか懐かしむように、藤宮は答える。
「結婚してすぐだった。子供が生まれてすぐだった。交通事故だったの」
「お兄ちゃんの幸せな姿を見ることが、私の幸せだったのに」と。弱弱しく呟いて、藤宮は目を伏せた。
涙こそ流しはしていないものの、その姿は泣いているようにしか見えず、孝弘は何も言えなくなってしまった。
「……こんな話、人にしたの初めて」
「僕もだよ」
顔を上げ、恥ずかしそうに小さく笑う藤宮につられ、孝弘も小さく笑む。
孝弘の話はともかく、藤宮の話はあまり人に言える話ではない。それは、当事者ではないからこそ、孝弘にはよく分かっていた。
「気味悪がられるかと思った」
「どうして?」
「だって……」
その先の言葉は出なかったが、彼女が何を言おうとしたのかはすぐに分かった。
実の兄を好きになるなど、確かに人によっては気味悪がるのかもしれない。
「誰が誰を好きになるかは自由でしょ。それに、藤宮さんはただ好きだっただけでしょ」
「……うん。ありがとう」
寂しそうな、嬉しそうな顔で、藤宮が言う。「どういたしまして」と返して、孝弘は彼女に視線を向けた。
「藤宮さん」
「はい」
真剣な表情で、声で。彼女の名前を呼ぶ。それに応える彼女もまた、表情も声も真剣なものだった。
孝弘に合わせただけなのかもしれない。
孝弘が何を言うつもりなのか分かっていたのかもしれない。
「僕のことを、好きになって下さい」
それは懇願に近い言葉だった。
真っ直ぐに藤宮の目を見つめ、告げた。
彼女は驚きも笑いもせず、孝弘と同じような調子で言う。
「私のことも、好きになって下さい」
言い終えて、二人揃って照れたように目を伏せる。そして、ほぼ同時に「よろしくお願いします」と、二人分の声が響く。
「強気でも真っ直ぐでもないし、鈴木くんの好きな人には適わないかもしれないけど」
「それを言うなら僕だって、強くもないし頼りにだってならないし、優しくもないし。藤宮さんのお兄さんには適わないかもしれないけど」
その人以上に好きにならなくてもいいから、と。口には出さずとも、互いに相手の言葉の意味は、理解出来ていた。
「友達に言ったら驚かれるかな」
「教える必要もないでしょ」
「それもそっか」
学校では全くと言っていいほど接点のない孝弘と藤宮。そんな二人が付き合っているとなれば、確かに二人の友人は驚くかもしれない。
しかし、二人の間ではたった今、この関係を黙秘することが決定したのだった。
「藤宮さん、明日って暇?」
「明日?」
暇だよ、という彼女の答えに、じゃあどこかに出掛けよう、と提案する。藤宮は少し驚いて、嬉しそうに頷いた。
「どこがいいかな」
「行きたいところある?」
彼女は少し悩んで、何かを思い出したように「あ」と小さく声を上げた。
その表情は、悪戯を思い付いた子供のようだった。
「前々から行ってみたいところがあったの」
「どこ?」
「内緒」
無邪気な笑顔を浮かべながら、「明日、またここで待ち合わせしよう」と、藤宮は楽しそうに言う。どうやら、そこに辿り着くまで目的地を教える気はないらしい。
藤宮が楽しそうだし、それでもいいか、と。孝弘は分かったと小さく頷く。
「連絡先交換しておこうか」
「そうだね。何かあったら困るし」
ふと思い出したように自分の携帯を取り出し、メールアドレスと電話番号を交換する。決して多くはない連絡先の中に、相手の名前が新しく追加される。電話帳を確認して、そこに増えた名前に、なんだかむず痒さを覚えた。
「じゃあ、今日はもう帰ろうか」
「うん。明日もあるし」
二人してブランコから立ち上がり、公園の入り口まで並んで歩く。この公園を出れば、向かう先は逆方向だった。
「また明日」
「また明日」
ほぼ同時に、同じ言葉を告げて、お互いに手を振り合う。藤宮が背を向け、歩いて行くのを確認して、孝弘も背を向けて歩き始めた。
二人、また数時間後にこの場所で会う。それを考えると、胸の高鳴りが増していた。こんな気持ちになったのは久しぶりだと、かつて初恋の相手に抱いていた感情を思い出しながら思う。
「楽しみだなぁ」
数十メートル離れた場所で、二人同時に、同じ言葉を呟いた。
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