本日は、晴天なり。

岩沢美翔

本日は、晴天なり。

『俺たち、結婚するんだ』

 そう言った兄の隣で照れたように笑うのは、とてもよく知った――とはいっても、記憶の中の姿よりは随分と大人びている、女性だった。

『……そう、なんだ』

 絞り出すように口から出た声は、果たして、二人にはどう聞こえていたんだろう。

 季節は冬。

 もうすぐ一年も終わろうという頃のことだった。


 僕は昔、年の離れた兄の後ろを、いつもついて歩いていた。

 兄が遊びに行くといえばついて行っていたし、兄がちょっと買い物に行くといえばついて行っていた。

 兄は明るくて素直で社交的で、同性からも異性からも好かれていた。反対に、僕は自分でいうのなんだが、暗くて大人しく内向的な性格だった。それは今でも変わっていない。

 兄について回っていたのは、兄のことが好きだったからではない。

 正確にいえば、好きではあったが苦手でもあった。兄の性格が、昔から羨ましくて仕方がなかった。

 僕は暗い性格なので、昔からいじめられやすかった。子どものいじめなんてかわいいものではあるけれど、当時の僕にはつらくて仕方がなかった。

 そんな僕をいつも守ってくれたのは兄だった。だから、兄について回っていれば安全だと、子どもながらに理解していた。

 それに、同年代の子からいじめられてしまう僕には、兄しか遊び相手がいなかった。

 しかし、僕が兄について回るのには、もう一つ理由があった。

 兄には幼馴染がいた。僕らが住んでいる家の近所に住んでいる女の子。年は兄の一つ下で、元々親同士も仲が良かったので、二人は生まれたころからの付き合いだったらしい。

 彼女は、少し男勝りなところがあった。けれども可愛くて、年の離れた僕にも気さくに話しかけてくれる、優しい人だった。

 そんな彼女に会うには、兄について行くしかなかった。いくらご近所さんで、幼馴染である兄の弟であるとはいえ、僕だけで会いに行くのは不自然に思えたし、何よりも、そんな勇気が僕にはなかった。

 兄と彼女は、二人が小学生のころから周囲に付き合っているのではないか、と噂されていたらしい。それほどまでに仲が良く、互いの両親もそうなったらいいのに、なんて話を楽しそうにしていたのを、記憶の片隅でぼんやりと覚えている。

 実際に二人が付き合い始めたのは、彼女が兄よりも一年遅く高校に進学した後だった。

 彼女が兄を追いかけて同じ高校を受験したことも、兄に会うために同じ部活に入ったことも、僕は知っている。

 兄と付き合うことになったと、そう報告してきた時の彼女の顔は、とても幸せそうだった。

 僕はてっきり彼女から告白したのだと思っていたけれど、告白したのは兄からだったらしい。かつては男とばかり遊んでいてガサツなところがあった彼女も、中学生になった頃から同性との付き合いも増え、ガサツさは随分となくなっていた。

 そんな彼女の、ふとした仕草に見惚れたのがきっかけだったと、兄は聞いてもいないのに照れたように語っていた。

 しかし、二人は兄の高校卒業を機に、別れてしまった。

 兄は少し離れたところの大学に進学することになっていて、実家を出て一人で暮らすことになっていた。

 今までのように気軽に会うことは出来なくなる。そうなった時に、上手く関係を続けられる自信がないと、当時の兄は言っていた。

「意気地なし」そう言おうとして、それを言う資格が僕にはないと、口を噤んだのを覚えている。

 兄が大学に行くために家を出て行ってから、自然と僕と彼女もあまり顔を合わせなくなった。両親同士の交友は続いていたが、そこに僕も彼女も加わることはなかった。それに、兄という共通点を失ってしまったため、彼女と会う理由がなかった。

「意気地なし」いつか兄に言おうとしてやめた言葉を、自分自身に向けて呟いた。

 兄が家を出て一年。彼女もまた、少し離れた大学に通うと、彼女の家を出て行った時のことだった。彼女が進学したのは、兄が通う大学と、そう遠くはないところだった。

 二人が再会したのは、それから三年が経った時のことだった。

 兄は大学四年生で、彼女は大学三年生。兄の内定祝いにと友人が主催した飲み会で、友だちの友だちとして参加した彼女と再会し、そのままよりを戻したらしい。

 別れてから四年。その間どちらからも連絡することはなかったらしい。そのことについて兄は「告白も別れ話も自分からだったから」と言い訳をし、彼女も「私もちょっと意地になってたから」と恥ずかしそうに笑っていた。

 それから間もなく兄は大学を卒業して社会人になり、その一年後に彼女も卒業し社会人の仲間入りをした。

 最初の数年はお互いに仕事が忙しくすれ違う日々を送っていたらしい。

 それでも二人は、時々は喧嘩をしながらも順調に交際を続け、ついに、兄が彼女にプロポーズをし、結婚することになった。

 それが、去年の冬のこと。

 プロポーズをしたのはクリスマスで、結婚報告をしたのは大晦日の前日だった。

『俺、プロポーズしようと思ってるんだ』

 クリスマスの前日に、なぜかわざわざ家に帰ってきて、なぜかわざわざ僕にそう言ってきた兄の真剣な表情を、よく覚えている。

 大晦日と年越しを、二人の結婚祝いにと両家合同で行ったことも、感極まって互いの両親が泣き出して、兄と彼女がまだ早いと笑っていたことも、よく覚えている。

 年を跨いで、二人の結婚式の話を互いの母親が特に乗り気で相談し始めていた。彼女は一人娘だから、結婚式は盛大にやろうと、母親同士がやけに盛り上がっていたのは記憶に新しい。

 二人の結婚式は、季節を跨いで、彼女の生まれ月である六月に、ということで決まった。

 いくら誕生月とはいえ、そんな梅雨の時期にしなくても。と、情緒も何もないことを思ったが、ジューンブライドということもあり、僕以外は皆、六月以外は考えもしなかったらしい。

 結婚式の相談をしながら年甲斐もなくはしゃぐ大人たちを見て、自分がもし結婚することになったら、六月は絶対にやめようと思ったことをよく覚えている。

 そもそも、自分が結婚をするなどとは、到底思えないのだけれど。


 六月なんてやめたらいいのに。話し合いの時にも言えなかったその言葉をしきりに胸中で呟くようになったのは、式の日が近付いてきた頃だった。

 どうせ式は屋内だから、と雨のことなど気にもしていなかった両親が、梅雨に入り連日降り続く雨を見ながら「せめて当日は晴れてくれないかしら」とぼやいた。それを聞いた時、だから言ったのに、と言おうとして、そもそも何も言ってはいないことを思い出し、口を噤んだ。

 あの場で文句を言っているのは僕だけだったけれど、僕はその文句を口に出してすらいなかった。

 楽しそうにはしゃぐ大人たちを前に水を差すようなことを言える勇気はなく、当人同士がそれでいいなら、他人が口を挟むようなことではないと分かっていた。

 しかし、僕は絶対に六月はやめようと思っていたのは確かだった。僕は絶対に、両親や周りが何と言おうとも六月はやめよう。どうせなら夏か秋がいい。

 ああでもないこうでもないと話し合いをしている大人たちを見ながら、そんなことを思っていた。

 結局、雨はなかなか止む気配はなく、式の前日も、相変わらず雨は降り続けていた。


 前日まであんなに天気が悪かったというのに、式の当日の空は晴れ渡っていた。雲一つない快晴。まるで二人の門出を祝福しているみたいだ、と誰かが言っているのが聞こえた。

 確かに、青く澄み渡った空は、二人の心を表しているようだった。ならば、昨日までの曇天は、そんな二人の不安の表れだったのかもしれない。なんて。

 それならば、僕の気持ちは、この空のどこに存在しているのだろうか。遠くの方に僅かに残っている、黒々とした雨雲だろうか。それとも、脇役でしかない僕の気持ちなんて、存在すら許されはしないのだろうか。

「どうしたの?」

 ぼーっと空を見つめる僕に、彼女が声を掛けてきた。純白のドレスが、とてもよく似合っている。にこりと微笑むその顔は、とても幸せそうだ。

「別に、なんでもないよ」

「そう?」

 ならいいんだけど、と言う彼女から視線を逸らす。

 あまりにも綺麗で、見ていたくなかった。

 続けて彼女が何かを言おうとして、けれどその前に彼女の母親に呼ばれ、そちらに行ってしまった。また後でね、とこちらに手を振る彼女に、ただこくりと頷いた。

 遠くなっていく後姿をぼんやりと見つめ、兄にはもったいないのではないか、とぼんやりと考えた。

 昔から頭が良く綺麗で、優しい。過去に彼女に惚れた男はきっと多いだろう。きっと中には、兄よりもいい人だっていたかもしれない。

 それなのになぜ、彼女は兄を選んだのだろうか。兄は確かに明るくて優しく、社交的ではあるが、頭がいいわけでもないし、顔も身内の贔屓目で見ても良いとは言えない。

 とはいえ、きっと、顔や頭の良さというものは決して重要ではないのだろう。それは、兄と彼女を見ていれば明らかだった。

 そんなことを考えているうちに、式の時間になってしまった。

 行きたくないとは言えず、両親のあとをついて行く。

 式は滞りなく終了し、始まる前は笑顔だった彼女と彼女の両親の目には泣いた跡があった。僕の両親も釣られて泣いていたし、兄が必死に泣くのを耐えていたのも、僕は見ていた。結局、耐え切れずに泣いていたのも。

 彼女が、少し高いところから花束を投げた。ブーケトスというやつだ。

 それを受け取ったのは彼女の友人の女性。彼女はすぐに、自分の恋人らしき男性をちらりと見て、二人して照れくさそうに笑っていた。周囲は、そんな二人を微笑ましそうに見ていた。

 ブーケトスも終わり、周囲の人たちは兄たちを祝福する拍手と歓声を上げる。「お幸せに」という声が聞こえる中で、僕だけが、おそらく異質だった。

 ぼんやりと、今日の主役の二人の姿を見る。彼女が綺麗なのはもちろんだが、兄も、今日はいつもよりも格好良く見えた。

 そういえば、とまだ彼女に言っていない言葉があったのを思い出す。正確には、彼女にも兄にもまだ言っていない言葉があった。

「誕生日、おめでとうございます」

 周囲には聞こえないように、とても小さな声で呟いた。

 言いそびれていたのはその言葉ではないけれど、自然と口から零れたのはそれだった。

 僕のちっぽけなプライドと、最後の抵抗。我ながら子供みたいだと自嘲する。事実、まだ子供ではあるのだけれど。

 幸せそうな二人を見ながら、また、小さな声を零した。誰にも聞こえませんようにと、小さな願いを込めて。

「さようなら、僕の初恋の人」


 どうか、お幸せに。

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