第三章「ヒロチカとフユキ」

 インターホンが鳴った。男には、誰が来たのかすでに分かっていた。

「はっろ~~! 元気にしてた? ワタシの可愛い弟♡」

 玄関のドアを開けた瞬間に飛びついてくる、サングラスをかけた明るい茶髪の女をすんでのところで躱し、寛周(ひろちか)はズレた眼鏡を元に戻す。

「悲しいっ! お姉ちゃんは悲しいよっ!」

 泣きマネをする姉を横目に、寛周はひそかにため息をついた。


 寛周がテーブルの上にホットココアを置く。

「はあ……あったまる~」

「芙雪。何しに来たか分かってる?」

 姉の芙雪(ふゆき)が床に脱ぎ捨てたトレンチコートを、寛周は拾いつつ、優雅にココアをすする姉をじろりと睨む。ソファーにはエルメスの鞄が乱雑に放られている。

「分かってるよ。今日、暁ちゃんの出所でしょ。十二時だったわよね?」

 飲みかけのココアを手に、芙雪はベランダの外を見つめる。

「そうだよ。父さんが教えてくれた」

「お父さん仕事だから、今日行けないのめちゃめちゃ残念がってたでしょ? あんたたち親子そろって本当に、暁ちゃん大好きだもんねぇ」

 はあぁと、大げさに息を吐きソファーに思いきり背を預ける芙雪。何度も面会に行ってたんでしょー? と間延びした声で芙雪が問うと、寛周は芙雪から視線を外した。ほんの少し頬に赤みが差している。照れ隠しのつもりか、ごほんと一つ咳払いをする。

「芙雪だって、暁くんのこと気に入っているでしょう」

「もっちろん。あんたなんかより、よっぽど弟らしくて可愛いもん」

 あっそ、と寛周は呆れた様子でつぶやく。

「そういえば仕事はどうしたの」

 今更ながら芙雪に確認を取る。出所の日にちを伝えたとき、迷わず「私も行く!」と言われたことに、寛周は少なからず驚いていた。

「有休とったに決まってんじゃない」

 これでもかとドヤ顔をする芙雪。

「上場企業でよく直前に許可されたね。忙しいんでしょ?」

 芙雪は誰もが知る有名な証券会社で、営業として活躍している。芙雪がふふ、と怪しげに笑った。

「うちはホワイトなの」

 夜遅くまで残業したり、海外出張に行ったりと、芙雪はシングルマザーながら体も壊さず働きまわっている。その点だけは素直に尊敬できた。

「あんたこそどうなのよ」

 今度は芙雪が雑に話を振る。

「大手製薬会社の研究開発職、だっけ?」

 芙雪の興味なさげな素振りに、寛周は首を動かし肯定する。

「僕は四年経ってようやく慣れてきたよ。研究職って、変わってるっていうか……こだわりが強い人が多くて」

 そう答えつつ、自然と苦笑いになる寛周。あんたも充分変わってるわよーと、ソファーから飛んできた声は受け流すことにした。

 寛周は自分用に作ったコーヒーの入ったマグカップを手に取り、ベランダに近寄ると、閉め切られたカーテンを半分だけ開いた。

「……六年と、九か月もかかりました。本当は、なかったことに出来たらよかったのに」

 寛周が目を伏せ、誰に言うでもなく、わずかな声でつぶやく。それを芙雪がすくい上げる。

「無理だよ。仮にも、人を殺したんだから」

 寛周は眉を寄せ、ベランダの窓越しにすっきりと青く透けた早春の空を眺める。

 芙雪は空になったマグカップをテーブルにどんっと置くと、にやりと嫌な笑みを作った。

「もういい。行こ、チカ」


 エンジンのかかる音が充満する。煙たいからなのか、地に響くような音のせいか、この一瞬が寛周はどうも苦手だった。

 助手席に乗り込んだ寛周は、ふちの白い眼鏡を片手で押し上げ、シートベルトを締める。運転席には鼻歌交じりの姉の姿。

 アラフォーにもなってタイトなミニスカートを履ける人間はなかなかの貴重種だ、と寛周は思う。しかし文句のつけようがないほど、黒いレザーのミニスカートも真っ赤なポルシェも、芙雪にはよく似合っていた。

「そういやあんた、何でビニール傘持ってきたの?」

 寛周が傘を一本、後ろのシートに置くのを見て、芙雪が怪訝な顔をする。

「え、午後から夕立の恐れがあるって」

「用意周到ねえ。んー、十二時に着けばいいなら余裕はあるね」

 呆れたように感心しながら、駐車場を出ようと左右を確認した芙雪がつぶやく。

「ああ、そうだね。刑務所まで三十分くらいだから……」

 寛周は自身の腕時計をちらりと窺う。ちょうど、十一時十五分になったところだった。

「まあゆっくり走れば構わないよ」

 芙雪のその言葉を安易に鵜呑みにした寛周は後悔した。


 タイヤの擦る激しい音が、辺りに響き渡る。日光を浴び、戦隊もののリーダーのごとく赤く光ったポルシェが強烈なドリフトを決め停止する。

「よかったあ~、間に合って!」

 晴れ晴れとした表情の芙雪の隣には、全身をだらりと投げ出し、真っ青な顔の寛周。

「この状況下で平然としていられるあなたが恐ろしい……普段からどんな運転してるんだよ……」

 寛周が何とか自力でシートベルトを外し、車を降りる。時刻は十一時五十七分。

 ――事の発端は、駐車場を出てすぐの時点まで遡る。


 車が家を出発してから数分。突然、芙雪が声を上げた。

「どうしたの」

 と寛周が聞くと、芙雪は今しがた通り過ぎた後ろを指差した。

「暁ちゃんに花を買って行こう!」

 どうやら、花屋を見つけたらしい。

「次の大きい交差点でUターンするから」

 有無を言わさない口調でもう買う気満々の芙雪に、寛周は意見することを諦めた。

 その後花屋に入ったはいいものの、あれでもないこれでもないと芙雪は一人で散々悩み続け、会計を済ませたころには正午がじりじりと迫っていた。

 急いで車に戻った瞬間、芙雪は静かに宣言した。飛ばすよ、と。


「――あと三分も残ってる。時速一三五キロで飛ばしてたから、分速ニ.ニ五キロ。花屋からここまで七分で到着したということは、実質十五.七五キロの道のりだった。とすると、信号を考慮したとして、速度をあと十五キロ落としても間に合ったじゃないか……」

 どんなに荒い運転をされてもずっと離さなかった花束に向かって、寛周が乾いた笑いを漏らす。

「も~、いつまでぶつぶつ言ってるの、チカちゃん? 物理学の専門書とか、元素記号の研究本とか、プランクトンの図鑑しか部屋にないから、そんな理数脳になっちゃうのよ!」

「うるさいな。その呼び方やめてくれる?」

 寛周は数回深呼吸をして気分を落ち着け、芙雪に色とりどりのチューリップを渡す。

「っていうか、暁ちゃん見当たらないね?」

 門の向こうを凝視していた芙雪は、前方に歩いて来る小さな影を発見し、大きく手を振った。

「あっきらちゃ~ん!」

 影が、寛周と芙雪に気付き、歩調を早める。お互いの表情がはっきりと見えてくる。暁と呼ばれた青年は、懐かしそうに微笑む。

「久しぶり、芙雪姉さん。寛周も……迎えありがとう」

 門をくぐって二人の前で立ち止まり、青年が口を開く。芙雪がチューリップを暁の眼前に突き出した。

「うっわ~暁ちゃん、見ない間にムサくなったね~! 元気だった? ちょっとやつれてない? ムショにいい男いた?」

「ふゆ姉じゃないんだから」

 暁は花束を受け取りながら、思わず吹き出す。三十歳になり声も顔つきも少しだけ大人びている。短くなった髪は地毛である黒色に戻り、そこそこ筋肉がついていた体も、今はずいぶん痩せていた。

「気分は浦島太郎って感じだけど」

 そう言って、暁はぐっと伸びをする。

「早めに美容院行こっか? 綺麗にしてもらわなきゃね」

 明るい調子で気を遣う芙雪に対し、大丈夫だよと暁がやんわり断る。

「暁くん」

 黙って芙雪と暁のやりとりを見ていた寛周は、労わるような笑顔を向ける。

「昼時ですね。何が食べたいですか?」

 暁が、少し考えて答えた。

「ビーフハンバーグ」


 暁の目線のすぐ先には、チーズが溶けて、いかにも熱々な肉の塊が鎮座していた。

 三人でいただきますと手を合わせ、各々かぶりつく。

「……うまい。あー、肉食べてるなー……。安定のファミレス様様(さまさま)だわ」

 暁は一口を大きくナイフで切り取り、次々と口に運んでいく。

「急にこんなおいしいモン入れたせいで、胃が逆流しそう」

 あまりの暁の食べっぷりに、芙雪と寛周は顔を見合わせて苦笑する。二人が半分も食べきらないうちに、暁は最後の一口へ到達していた。感慨深そうな目で見つめたかと思うと、んん~っ、と最後の欠片を噛みしめ、暁はナイフとフォークを置く。

「うまかった……」

 ごちそうさまでした、と暁は一人で手を合わせた。

 芙雪と寛周も完食し、店員が鉄板の皿を下げ終わったところで、寛周は切り出した。

「暁くん、刑務所暮らしはどうでしたか? つらくなかったですか?」

 寛周はひそめた声で話す。

「いや、全然。言われたことだけをやるのって、意外と楽なんだな。単調ではあったけど」

 暁がグラスに入った水を勢いよく呷る。

「むしろ、六年ちょっとで出させてもらったのが悪いなあって。チカが定期的に面会に来てくれたおかげで、あっという間に感じたよ」

 暁が正面から寛周を見て、おどけた様子で話した。

「まー、うちのナマイキな弟君は、暁ちゃんラブだからね」

 と言いながら芙雪はテーブルに両肘をつき、からかうような目線を送る。

「ほんとうるさいよ」

 寛周が眉根を寄せ、くいっと右手でメガネのフレームを押し上げる。隣の芙雪は意に介した様子もない。

「つい一週間前も、暁ちゃんがすぐに出所するっていうのに律義に面会に行ってたじゃないの」

「それは……父さんが行くって聞かなくて」

 珍しく寛周が口ごもる。その様子を見て、芙雪がにんまりと笑みを浮かべる。

「あらあら、そんなこと言っちゃって。私と会った時いっつも開口一番に暁ちゃんの話するくせに」

「そろそろこの減らず口に液化青酸ぶっこんでいいですかね」

 ついにお得意の寛周スマイルが発動する。

「何よ~。好きっていうのは事実じゃない~。何照れてんのよ~」

 不穏な弟の言葉を鋼のハートでスルーし、追い打ちをかけるように軽快な口調でからかう姉。弟は居心地悪そうに、真横にいる姉との距離をそっと空ける。

「ふっ、あははっ……ふゆ姉とチカが、相変わらずの仲の良さでよかった」

「勘弁して下さい」

 すぐに反論した寛周に向かって、弟のくせに生意気! とつっかかる芙雪。

 こらえきれず、暁が腹を抱える。寛周は窓の外へ視線をずらし、もう一度メガネを直した。

「そろそろ、店を出ましょうか」

 寛周の合図で二人とも立ち上がる。

 店内は混み合ってきて、楽し気な話し声で溢れていた。駆け足で横切った子供の背中を見つめた寛周は、穏やかな顔をする。

 芙雪の娘も今となっては高校生だが、無邪気に走り回って人様に迷惑をかけた時期があった。もちろん、寛周自身も。

 会計を済ませた芙雪が、おーいチカ! と呼んでいた。ここは彼女のおごりだった。

 三人は店を後にし、ポルシェに乗り込んだ。

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