第二章「キオカ」

 少女は堂々と、重厚な洋館の戸を開ける。勝手知ったるようにシャンデリアの下を優雅に通り抜け、レッドカーペットの敷かれた豪勢な階段を昇っていく。『少女』と言っても、実年齢と見た目は必ずしも一致するわけではない。特に、彼女に関しては。

 姿勢を正したまま一段一段を丁寧に昇りながら、少女は思い出す。

 ――あれから六年の月日が経った今でも、忘れたことはない。初めて料理をしたこと、他人の家に泊めてもらったこと、手を繋いだこと。

 すべてを投げ出して、自由になりたいと、思ったこと。

 揺るぎない決意が少女の瞳に宿っていた。


 一台のリムジンが、嫌味なほど高級感を醸し出すホテルの入り口の前で止まる。黒塗りの車体は、ホテルの外観と出来すぎなくらいにマッチしている。

「フランシス様」

 サングラスをかけたスーツ姿の運転手がわざわざ、外から後部座席のドアを開け、促してくる。隣に座っていたもう一人の付き人はとっくに降りて、荷物を運び出している。ふかふかのシートから腰を上げ、私は日本の夜の空気を思い切り吸い込んだ。


 目の前にはそびえ立つ三十階建ての宿泊所。運転手が出迎えのボーイに車を引き渡す。リムジンは正面の駐車場へ移動させられていく。

 チェックインし、エレベーターのボタンを押される。二人の付き人に挟まれながら、二十九階で停止。私の部屋はエレベーターのすぐ近くだった。ずっと持ってもらっていた私の荷物が、部屋の前でようやく降ろされる。荷物を持っていなかった方の付き人が、スーツの内ポケットから小さめの手帳を取り出した。

「明日は午前十時から被災地を巡り、昼食は日本国の総理大臣とともに致します。午後四時からは、都内で国際会議がございます。その間は――」

 ――別室で待機、でしょう。

「大統領はまだお戻りになられませんので、先にお食事を摂るようになさって下さい。ホテル内にレストランがございますが、ルームサービスもお頼みいただけます。部屋から出られる際は、必ずお声かけいただくようお願いします。我々の部屋はフランシス様の隣です」

部屋のカードキーを渡され、私は自分でドアを開ける。ピ、と小さな電子音がした。

「ルームサービスを頼むわ」

 それだけ告げて、荷物をさっさと中に運び込み、オートロックのドアを閉めた。


 灯りをつけ、引きずったキャリーケースを部屋の角に置く。私はすぐに、皺一つなく用意されたさらさらのダブルベッドへ顔ごとダイブする。十数時間のフライトは、何をしていなくても疲れてしまう。しかも、前日にたっぷり睡眠を取っていたので、飛行機ではあまり寝ることが出来なかったのが痛い。

 このまま寝てしまいたかった。

 とは言え、昼食を摂ったきりだからお腹は空いているし、お風呂に浸かって髪も乾かさなければ。歯も磨かないと。明日の準備もある。――ああ、面倒くさい。

 シーツに吸い込まれそうな体を無理やり起こして、部屋に設置された電話に手を伸ばした。


「ようこそ、おいで下さいました。フランシス大統領」

 通されたのは応接室のような個室の、けれどテレビカメラやリポーターが押しかけても充分に広い部屋だった。目の前には、流暢な英語でにこやかに迎えてくれる日本の総理。隣に通訳の女性がきっちり付いている。大統領――伯父様も、笑顔で応じ握手をする。シャッターを切る音が鳴り止まない。

「今日は、会議以外の日常生活においてのみ通訳として、私の姪をともにさせていただいています。ご紹介します、キオカ」

 伯父様の斜め後ろから、私は一歩前へ出る。ワンピースの裾をつまみ、膝を軽く折り曲げ、一礼する。このワンピースは日本製で、一年ほど前に母が買ってきてくれたものだった。キオカは目も髪も色素が薄いから濃紺が映えるでしょう、と。

「お初にお目にかかります。キオカ=フランシスでございます。本日はお会いできて誠に光栄です、総理」

「おお、本当に日本語が達者でいらっしゃいますね。こちらこそお会いできて光栄ですよ、ミス・キオカ」

 目元に皺を作った総理が、年期の入ったごつごつの手を差し出してくる。私は意識的に口角を上げ小さな右手で応えた。すかさずその様子を、部屋の隅でずっとこちらを撮影していた日本のカメラに捕らえられる。リポーターが興奮した様子で、カメラに向かって何か言っている。生中継、だろうか。

 挨拶が終わると、私と伯父様は用意されたリムジンに乗り込み、総理の案内で大震災によって跡形もなく倒壊した町や、洪水ですべて流され出来た更地などを回り、黙祷を捧げた。

 予定通り被災地を回り終わったころには、十三時が近付こうとしていた。朝からの曇り空は、溢れた涙を今にもこらえきれず、こぼしてしまいそうに見えた。私たちは都内に戻り、総理のおもてなしで内装も外観も古風で格式高い料亭で、豪華な和食をご馳走になった。

「大統領、会議までのご予定は?」

 すべての料理を食べ終え、静かな時間が流れていた。総理がこちらを窺う。伯父様は日本語がまったく分からないから、私はすぐに英語で伝える。

「今日拝見した被災地について感じたことや考察したことをレポートにまとめ、自国にいる妻へ送るつもりです」

 伯父様の答えを聞いた総理は穏やかな笑顔を見せた。

「そうですか。日本のことを、それほどまで真剣に考えて下さり、誠にありがたく思います。フランシス大統領とは今後もよい関係が築けそうです。では、また会議でお会いしましょう」


 会議が始まる時間だった。窓の外は懸念した通り、あいにくの雨模様だけど、何においても車移動の私はどうとも思わなかった。

 私は二十九階の部屋で、読んでいた有名な詩人の短編集を閉じた。ホテルにこもってから六時間近くが経過しようとしていた。とっくに食事も摂り、簡単にシャワーを浴び終え、あとは歯を磨いて寝るだけだ。時間つぶしに持ってきたのは、文庫本が三冊と学校で配られた薄い問題集のみ。問題集なら先ほど仕上げたばかりで、本は飛行機の中で読破してしまって、読むのも二周目に突入したところだった。

 伯父様が外交で日本に行くと聞いたとき、付いて行きたいと言ったのは自分だ。私の中には半分、日本の血が流れている。だからこの目で日本というものを確かめたかった、けれど。

 ――暇すぎる。

 ベッドに転がり、何か打開策はないかと考えていると、ぴったり閉まったドアの向こうから話し声が聞こえてきた。ドアに近寄り、耳をそば立てる。くぐもっていて聞き取りにくいが、私の部屋の前の警備を交代しているらしかった。

 そのとき、私に妙案がひらめく。ハンカチとクレジットカードだけ入ったポシェットと、部屋のカードキーを掴んだ。

「ちょっと、コンビニまで行ってくるわ。十分も歩けばたどり着くでしょう?」

 自室のドアを開けると同時に、付き人に対し言い放つ。付き人が険しい表情になる。

「外へ出かけられるのは自粛するようにと、大統領から厳重に注意されております。どうしてもと仰るのでしたら、私が行って参ります」

 心の中で笑いがこぼれる。その言葉を待っていたのだ。

「じゃあ、一緒に行くというのはどう? それなら心配ないでしょう? 一度、どうしても日本のコンビニを見てみたいのよ」

「ですが、もう日が落ち切っています。明日になさってはいかがですか」

「明日だって夜までスケジュールが詰まっているわ」

 反論をし返され、くせっ毛の付き人は黙り込んでしまう。インカムで、部屋にいるもう一人の付き人を呼び出したのを見て、私は勝利を確信した。

「すぐお戻りになる、という条件でしたら」

 もじゃもじゃ頭のブロンドヘアーは、その顔に渋い色を浮かべ、私とともにエレベーターへ乗り込んだ。


「フランシス様、雨が降っておりますので車を用意させます」

 一階のフロントに着き、カードキーを預けた付き人がそう断言する。

「いいわ、近いもの。徒歩で行くわ」

 私は付き人を無視して、ホテルマンに「傘は借りられるかしら」と尋ねた。若い印象のホテルマンは、一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐ笑顔を取り繕って答えた。

「傘ですね。申し訳ありません、大変流暢な日本語だったもので……。少々お待ちください」

 ホテルマンが隣にいた年配の女性のスタッフに目配せすると、その女性は奥へ引っ込んでいった。一分もしないうちに、黒いものと赤いものを手に戻ってくる。

「フランシス様にはこちらを」

 やせ型の女性は丁重に、私の目の前へ赤い方を差し出した。

「これは?」

 もちろん傘なのだが、広げてみると持ち手も骨の数も、安物のビニール傘とはまったく異なっている。

「こちらは、和傘でございます。古くから日本に伝えられたもので、日本独特の『和』を体現した形状や質になっております」

 付き人も同じように傘を開く。私の赤い方にも、付き人に渡された黒い方にも、花柄が控えめにプリントされていた。鮮やかな赤とは対照的に、薄ピンクで彩られた花だ。初めて持つものなのに、しっくりくる感じがした。

「ありがとう。使わせてもらうわね」

 私の言葉に、フロントの二人はそろってお辞儀をした。

「はい。お気をつけていってらっしゃいませ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る