「アキラとキオ」
嫌な夢を見た。じんわりと汗がにじんでいる。あの夜のことが繰り返される。ただ、謝罪をしてもらうだけのつもりだった。男の、焦り、鼻であしらう声。暁が糾弾すると、怒りに任せ罵倒してきた表情。
まだ、一日しか経っていない。
暁が「今どこ?」と聞くと向かいの席から「あと二駅」という答えが返ってきた。降りる駅はキオに伝えてあった。
車内から見える向こうの山が鮮やかなオレンジ色に染められていた。ビルの背は幾分か低くなり、景色が開けていくのが分かる。ガタンという音とともに、二人の体がわずかに揺れる。暁は、四人掛けの正面の座席に座ったキオに目を向けた。
服装は、暁と出会ったときに着ていた七分袖のワンピースだった。昨日は街灯もあまりなかったうえに雨が降っていたので、てっきり黒だと思っていたが、改めてよく見るとそれは深い紺色なのだった。
キオの柔らかな髪は今、後ろで一つにまとめ上げられている。外を眺める小さな横顔には――出会ってから初めて――悲しげな表情が浮かんでいた。
『まもなく……、……、お降りのお客様は……』
暁が何も声をかけられないまま、電車はあっさり目的地に着こうとしていた。揺れが完全に止まってから、暁は大きめのリュックを背負い、席を立つ。キオが地味なキャスケットを深くかぶる。リュックも帽子も博士から借りたものだった。
暁は、一年ぶりに故郷の地を踏みしめた。
二人は改札を出て、辺りの景色を見渡した。キオは現金を一切持っていなかったため、切符代などはすべて暁の出費である。貯金をしておいてくれてありがとうと、この時ばかりは心から過去の自分に感謝した。
「寂しい町ね」
ふいに隣の少女がつぶやく。キオは遠くを見ていた。まるで、この町全体を見透かすように。
キオの言う通り、この町は寂れている。駅のすぐそばにはコンビニがあり、高層マンションこそないものの、瓦造りの立派な屋根が窮屈なく並んではいるが、ただ一点、致命的に失くしているのは活気だった。歩いているのは高齢者ばかり。大きな観光地もない。あるのは、ぽつぽつと小規模な会社のみ。暁の両親の会社も、そんなものの一つだった。
「行こう」
そう言って、暁はキオに向かって手を差し出した。キオもごく当たり前にその手を取る。かつて暁にとって通いなれていた、迷いようのない道を、今はこんな小さな女の子と歩いている。それが滑稽に感じた。
進むごとに草や土の匂いが濃くなっていく。道幅は徐々に狭くなっていた。時折すれ違う老人が、暁たちをちらりと一瞥する。暁は自然と早足になった。
やがて、錆びた青色のトタン屋根が見えてきた。暁は一瞬目を伏せ、もう一度見上げる。キオとその場でしばらく佇んでいた。
「あら? あんた……暁くんじゃないかい」
しわ枯れた声に懐かしさを覚えた。左手の民家から、背の曲がったおばあさんが顔を出している。暁の目の前までゆっくり歩いてきて、しわくちゃにさせた顔で笑う。
「……竹ばあちゃん?」
暁の、昔の記憶がフラッシュバックする。小学生のころは、竹ばあちゃんが飼っている柴犬をよく一緒に散歩させていた。奥にある竹林の一部を管理していたから、『竹ばあちゃん』――子供の発想だ。
「んまあ、こんな大きくなってえ。髪も茶色くなったねえ」
竹ばあちゃんが暁の腕を叩く。何年ぶりだろう、と暁は思い返す。たまに竹林に連れて行ってもらった。怪我をして帰ると母親に怒られたが、その度に竹ばあちゃんがかばってくれた。
「ばあちゃん、入院したって聞いてたけど、元気になったのか?」
最後に会ったときはまだ、しっかり姿勢を伸ばして歩いていたはずなのに。
「そうよ、ばあちゃんは元気よ。この四月に退院してねえ。でもすっかり、お婆さんになっちまったわあ」
竹ばあちゃんが自分の背中を叩いて、困ったように笑った。そこで初めてキオに目を留めた。
「おや、綺麗な子だね。暁くんの彼女かい? 飴あげようか?」
「いや、彼女じゃ……」
はい、と竹ばあちゃんがモンペの前ポケットから黒飴を取り出す。暁は言葉を飲み込んだ。キオが「ありがとう」と言って手の中の黒飴を見つめる。大切そうに、ポシェットに仕舞った。
「それで暁くん、今日はどうしたんかい」
竹ばあちゃんの笑顔に、言葉が詰まる。
「墓参りです」
暁がそれだけ答えると、竹ばあちゃんは細い目をさらに細め、先にあるトタン屋根の方を見た。
「お父さんとお母さん、喜ぶわあ」
気をつけてね、また帰ってくるんだよ、と竹ばあちゃんは姿が見えなくなるまで手を振ってくれた。暁たちは再び歩き出した。陽は沈みかけていた。
暁と両親が生活していた母屋はひっそりとそこに佇んでいた。
瓦はいくつか剥がれ落ち、ガラス戸も汚れが付いたまま放置されている。人が住んでいる気配はなかった。土地を手放したため鍵がかかっていて入ることは出来なかったが、暁は家の前で手を合わせ、キオもそれに倣った。
さらに少し奥へ歩いて、二人は古びた建物の前で立ち止まる。外観はそれほど朽ちてはいない。しかし母屋同様、人気はまったくなく、雑草は伸び放題だった。
ただいま――暁は心の中でそうつぶやいて、一歩踏み出す。壊れたシャッターを開けると、中はガレージのようながらんとした空間だった。小窓が二か所に付いており、隅には木材がいくつか放置されている。暁はキオを奥の階段へ案内した。上る前に暁は何度か踏みつけ、錆びた階段の強度を確かめる。暁が先導した。
二階は事務所だった。今では面影もなく、ただのがらんとした空間にすぎない。暁が小窓を開けると、ほこりが舞った。キオが両手で鼻と口を覆い、暁から距離を取る。「悪い」と言って、暁は両手を窓の外ではたく。それからキオに体を向けた。
「ここさ、俺の親の会社なんだ。いや、会社だった、かな」
キオは口をはさまず、暁の独り語りを聞いていた。
「俺の親は一年前、死んだ」
暁は当時を思い出す。口数は少なかったが、暁が悩んでいたときは的確なアドバイスをくれ、仕事に手を抜かず従業員を引っ張っていた父。家事をきちんとこなしながらも父の仕事を手伝い、持ち前の豪快さでいつも暁の背中を押してくれた母。ずっと続くと思っていた日常。……その日が来るまでは。
「会社、倒産したんだ。提携してた会社が潰れちゃってさ。連鎖倒産ってやつ」
暁が乾いた笑いを漏らす。あの光景は一生、忘れることができないだろう。
「父さんも母さんも相当、気が滅入ってた。従業員のことをどうするかって、借金まみれになってもそこを一番に考えてた」
暁は一拍置いて、続ける。
「夜、大学院の授業から帰ってきたら……二人とも床に倒れてた。息、してないんだ。体はとっくに冷たくなってて――」
――朝に家を出るときは二人とも笑ってたのに。これからのことはもちろん不安だったけど、父さんと母さんならどうにかいい策を見つけて乗り切ってみせるはずだって。
「手紙が置いてあった。父さんと母さんの保険金で、従業員の最後の給料を払ってやってくれって。残りは借金の返済に充てて。そしたら、なんにも残らねえの。父さんと母さんが自分で命を絶ってまで、託した金も、会社も、家も……」
暁は唇を噛んだ。握った拳は、痕がくっきりつくほど爪が食い込んでいた。
「キオ……?」
キオが暁の固まった拳の上に自分の手を重ねていた。心なしか、暁を見る瞳が柔らかい。
「ありがとう」
暁の全身に張りつめていたものがほどける。小窓から弱い光の星が覗いていた。
「暗くなるな……。裏に離れがあるんだ。今日はそこに泊まろう」
窓を閉め、足元の暗くなった階段を慎重に降りる。シャッターはそのままにして、二人は離れに向かった。
離れとは言うものの六畳ばかりの小屋で、当時も従業員の休憩所になっていた。幸い懐中電灯が置いてあり、まだ生きているようだった。隅には数人分のブランケットが残されていた。暁は、博士からもらった包みを開ける。中には、片手でちょうど持てるサイズのおにぎりが四つ入っている。キオにおにぎりを二つ渡す。暁が少しラップをはがし、かじったのを見て、キオも食べ始めた。米が冷めているのは仕方なかった。
キオが二つとも食べ終わるのを確認すると、暁は再びリュックを開け、自販機で買った飲料水を取り出した。
「うがいしとけよ。歯ブラシは明日買おう」
キオが受け取り、いったん離れを出て、水の減ったペットボトルを手に戻ってきた。
「寝る前に、汗だけ拭いて新しい服に着替えとけ。俺は外に出とくから」
博士から渡された汗拭きシートがさっそく役に立つ。暁は、キオにと貸してくれた服を畳の上に置き、外へ。暁自身も、生温い夜風にさらされながら博士に借りたシャツに素早く着替える。
しばらく経ってキオが呼びに来た。どうやら、サイズはちょうどよかったらしい。
キオが脱いだワンピースをスプレーで除菌して窓際に干し、ブランケットをかぶる。暁は懐中電灯を消した。背中が多少硬いのも、仕方ない。
明日はさすがに風呂入りたいなーと暁がぼやいたとき、キオが口を開いた。
「あの人」
キオの言いたいことが、暁にはすぐに理解できた。
「あいつ、さ。うちの会社と提携してたとこの重役。提携の話を持ちかけてきたのも、そいつ」
思い出そうとしても、もう、どんな顔をしていたか暁にはぼやけて分からないのだった。
「そう」
それで会話は終了したかと思われたが、「じゃあ、次は私の番」とキオがたどたどしく話し始めた。暁にはそれが意外に思え、黙ってじっと耳を傾ける。外で、かすかにクビキリギスが鳴いている。
「……私、母がアメリカ人、父が日本人のハーフなの。母は日本にとても関心があって、若いころは一時期留学をしてたみたい。そこで父と出会ったのだけど、交際をして、いざ結婚するというときに、母の親戚から猛反対されたって。主に母の兄――私からしたら伯父さんね」
すうっと、そこでキオが一呼吸置く。
「結局、親戚の人たちは父に実際に会って話して、人となりを見て納得したらしいわ。そんな感じだったから、私は小さいころから日本語と英語に触れて、どちらも覚えてしまって。今は伯父さんの仕事も手伝ってる」
うっすらと蒸し暑い夜の隙間から、キオの澄んだ声が小さく響いて暁の耳に届いてくる。
「日本がとても好きな母だから、私の名前もね、キオっていうのは愛称」
キオの小さな声が、さらにか細く、眠気を帯びた気配に変わる。
「ね、最後にひとつ聞いてもいいかしら」一拍置いてからキオは続けた。
「暁は、どうして私を連れてきたの?」
ここに、という意味ではなく、この逃亡に、という意味だった。しばし考えて、暁は話し出す。
「……何で、だろうな。なんとなく、なんとなくだけど、放っておいたらダメな気がした。お前のその目が、寂しそうで」
キオがわずかに息を呑んだ音がした。暁はずっと、しけった天井を見ていた。
「俺も訊いていいか? キオは、何でついて来たんだ? こんな俺に」
純粋な疑問だった。それだけが暁にとって不思議でならなかった。
「それは……」
暁はすべて聞き洩らさないようにと耳を澄ませるが、続く言葉はいくら待っても訪れない。
「私は……逃げたかった。ただ、自由に……」
やがて、近くでキオの細い寝息が聞こえた。暗闇と静寂だけがこの空間を支配していた。暁はブランケットをかぶり直し、目を閉じた。
「おやすみ、キオ」
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