「ハカセ」

『――今朝、都内の××駅近くの路上で男性の遺体が発見されました』


 梅雨晴れの爽やかな陽気が、暁の瞼に容赦なく注がれる。ケータイの時刻はとうに正午を過ぎていた。体を起こし薄目で辺りを見ると、キオがソファーでいかにも小難しそうな――おそらく理学系の――専門書を読んでいた。

「暁くん、これ……」

 いつのまにか傍に博士が立っていた。博士の指さす方に顔を向けると、六十インチもある大型テレビから速報のニュースが流れていた。

『○○印刷会社に勤めていた前役員の林田安男さんであると思われ、警察は事件に巻き込まれたと見て捜査している模様――』

 暁は自然と眉を寄せる。無言で立ちあがり、洗面所へ。蛇口をひねり、髪まで濡れそうなほど顔面に勢いよく水をかけていく。近くにかかっていたタオルを掴み、力強く拭う。

 一つ、深呼吸をしてからリビングに戻った。


「昼ご飯にしましょう」

 リビングの扉を開けるなり宣言する、長身の男とエプロンをつけた幼女が暁を待ち構えていた。

「てか今さらなんだけど、キオのパジャマとかそのエプロンとかどうやって用意したんだよ」

「あれ、覚えてませんか? 小学五年生の姪っ子がいるんですけど、たまに遊びに来るので服とか何着か置いてあるんですよ」

「ああ、ふゆ姉んとこのガキンチョか」

 そういや写真見せてもらったっけ、と博士の姪の名前を思い出そうとしたところで、くいっと裾を引っ張られた。

「私もちゃんと作れるから」

 その言い方がほんの少しムッとしているように、暁には聞こえた。つい苦笑が漏れる。期待してるよ、と頭をぽんぽん撫でると、キオはキッチンに引っ込んでいった。

 しばらくして、昼食として出てきたのは形のでこぼこした黒い、ハンバーグだった。


「味はおいしかったし、次また頑張ればいいじゃん」

 励ましのつもりで暁は言ったが、キオは言葉通りに捉えてはいなかった。自分が失言したことを理解する。

 まただ、と暁は察知した。透き通ったキオの目が、暁をただ見つめる。心の奥までくい込んでくる視線に、暁は全身の血が急激に冷めていくのを自覚した。「次っていつ?」そう問われているような気がした。


「暁くん、ちょっと」

 食器を洗い終わった博士が廊下へ手招きしていた。暁はそれに応じ、リビングを離れる。

「これからどうするんですか」

 暁が廊下に出てリビングの扉を閉めると、博士はわずかに声を落として、改まったようにメガネを押し上げた。

「逃げるって、決めたんだ」

 暁は真剣な眼差しで博士を見据えた。二人の視線が交わる。

「どこへ行くつもりなんですか?」

博士の咎めるような双眸が暁を刺す。

「ひとまず実家の方に行こうと思ってる」

「……お嬢さんも一緒に、ですか」

 ああ、と頷いて、暁は扉の向こう側に視線を移す。博士の纏う空気が諦めに変わったのを、暁は感じた。

「どうして彼女を?」

 どうして――それは暁自身の疑問でもあった。アレを目撃されたから、放ってはおけなかったということも理由の一つだ。だがきっと、それだけではなくて。

「キオって、俺と似てるかもしれない」

「暁くんと?」

 博士が怪訝な顔になる。暁は含んだ笑みを浮かべた。

「キオは強い。強すぎて、少し怖くなる。俺にはあんなまっすぐな強さはない。けどたぶん、脆い」

「脆い?」

 博士がオウム返しに投げかけると、暁はうーんと唸って、考える素振りをする。

「あんま、上手く言えないけど。脆い人間は、誰かと一緒にいないとダメなんじゃないかと思う。そんで」

 俺とキオは同じ人種な気がする、そう博士に告げる。博士は腕を組んで、暁の言葉を吟味するように数十秒考え込んだかと思うと、呆れた様子で息を吐いた。

「それならさっさと遠くに行くべきでは? うちが安全という保証はありませんよ」

「止めないのか」

 少なからずの驚きが暁の表情に浮かんでいた。

「僕にあなたは止められません」

 博士が困ったような、仕様がないというような、あいまいな笑みを作る。

「なんとなく、いつか何かをやらかしそうな気はしていましたよ。暁くんって、危なっかしいでしょう」

 その言葉の真意は、暁にはよく分からなかった。

「それから、気のせいかもしれないですが……。キオさんのこと、どこかで見たことある気がするんです」

 博士が思案するように、ぽつりとつぶやく。話は終わったとばかりにリビングの扉へ手をかけようとしていた暁は、博士の方を振り向く。

「どこかって……どこで?」


 暁たちがリビングに戻ると、キオはまだ本を読んでいた。

キオに、ここを出るぞと促し、暁も暇する準備にとりかかる。キオはポシェットを肩から斜めがけにしていた。昨日から持っていたものらしかった。

「これ、今晩の足しにしてください」

 子どもの弁当入れくらいの小さな布包みを渡された。ほんのり、温かい。

「あまり、面倒なことに首を突っ込まないで。さすがの僕もかばいきれません」

精一杯の見送りの言葉に、暁は苦笑する。

「分かってる」

「あと」

 暁の返事を遮るような形で博士が続ける。

「くれぐれも、気をつけて。何があっても僕はあなたの味方ですから」

 ありがとうと言う代わりに、暁は口の端を上げ、博士の眼前に親指を立てる。

 暁たちは空が茜色に染まる前に、荷物を持って博士の家を出た。


「アキラとハカセはずいぶん仲が良いみたい」

 家を出発してからしばらく無言だったキオが、駅に向かう道すがら、暁にぽつりとこぼした。それは当然の疑問だった。

「あー、あいつとは大学の時からの付き合いだから……もう三、四年になるか」

「そう」

 話を聞いているのか、興味がなくなったのか、キオは視線を落としたまま相槌を打つ。

「あいつ、今年から大学院生で俺の後輩なんだ。俺はまあ、途中で辞めたんだけど。博士って名乗ったのも、それでだな。休みの日でも白衣着て研究してるし」

 キオに話しながら、博士と出会った当時のことを思い出し、一人で苦笑する。ずいぶんと年を取った気がする。

「着いたな」

 ちらりと辺りを警戒し、改札に向かう。遠回りをして昨日の駅と違う線まで歩いたため、制服を着た警官に遭遇せず済んだのは良かった。

 そこから暁たちは何本か電車を乗り継いだ。

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