第一章「アキラ」

 二人は徒歩で、一つの傘を差し、ある場所に向かっていた。少女はキオと名乗った。暁も名前だけ告げると、それ以降は口を閉ざしてしまう。不快な沈黙ではない。同じ部屋で別々の本を、それぞれのペースで読んでいるような静けさがあった。

 少し空いた二人の間には、かすかなぬくもりが存在していた。


 十五分も歩くと、目的地が見えた。もともと今夜はここに泊まる予定だったのだ。

 住宅街の隅、『シークレットガーデン』と書かれた、生成り色のアパートの前で暁は立ち止まった。この辺りでは高層な方で、外観はシンプルだが周りと比べると真新しさがよく分かる。

 キオが見上げる。「九階建てだ」と言い、暁はキオを促した。三方の壁が、薔薇やレース模様で装飾されたエレベーターに乗り込み、九階のボタンを押す。

 キオは「アキラの家なの?」とも、「おしゃれね」とも言わなかった。


 南向きの一番端の部屋にたどり着き、インターフォンを押す。しばらく待ってみるが出てくる気配がない。暁は躊躇なく連打した。ピンポンピンポンピンポンピンポン……

「……今何時だと思ってるんですか」

 やや乱暴に開かれたドアが、家主の怒りを物語っていた。

「まだ夜の十時すぎだけど」

 暁が、ズボンのポケットからケータイを取り出し――濡れてはいたが、電源は生きていた――画面を見ながら言うと、白ぶちのメガネをかけた目の前の男はため息をついた。暁の体がびしょ濡れであることに顔をしかめ、さらに嘆息。

 それから、隣の少女に気が付いた。

「暁くん、いつからそんな趣味に?」

 男の着ているTシャツのペンギンも同様に、目を丸くして暁を見ていた。

「とりあえず寒いんで部屋入っていいかな」

 と、暁は男の返事を無視してずけずけと玄関に入り込む。キオも然り。

 着替えとバスタオル持ってきます、と三度目のため息をついて部屋に向かう男の背を、暁は面白がる風にひらひらと手を振って見送った。


 シャワーを浴び終わった暁の前に、青汁が置かれた。いや、見た目は青汁そのものだが、独特のにおいが全くしない。「サンキュ」と言って受け取る。

 一口含んだ瞬間、暁は眉根を寄せた。青汁もどきを作った張本人が「特製健康ジュースです」と笑顔をたたえている。暁は一気に飲み干した。渋みがきつい。それなのに後味が絶妙に甘い。何と何を混ぜたらこうなるのだろう。レベルアップしたな――暁が微妙な顔をしていると、キッチンから淹れたての香りが漂ってきた。

 男が自分用のマグカップを手に、ソファーへ近づいてくる。芳醇なインスタントコーヒーが暁の鼻を刺激する。

 濡れた髪をタオルで拭いていたキオが手を止め、暁より十センチ以上も背丈のある男のことをじっと見上げていた。

 キオのために用意されたホットミルクは半分ほど残っている。そういえば紹介してなかったな、暁がそう思い口を開くより先に、男は喋り出していた。

「僕のことは博士と呼んでください」

 暁たちが座っているソファーの向かいに男はゆったりと座り、その長い足を組んだ。何とも言い難い顔のペンギンに皺が入る。キオが「ハカセ」とつぶやく。

「血縁者の職業の都合で、少々本名を偽らなければならない事情がありまして」

 もっと柔らかい表現で説明しろよ! と暁は突っ込みたくなったが、キオが分かったように頷いたので口をつぐんだ。

「私はキオ。ジュニアハイスクールは卒業しているわ」

「あなた、高校生ですか?」

 博士が素っ頓狂な声を挙げるのも無理はない。成人男性の平均身長ほどの暁でさえ、頭一つ分以上は差があるキオを、暁と博士はそろってまじまじと見つめる。

 およそ百四十センチほどの身長に、まっ平らな胸元。手も足も、すこし力を入れただけで折れそうなくらい、細い。

 キオが残りのホットミルクを飲みほした。きゅ、と小さなのどが鳴る。白いヒゲをつけたまま、キオの目は暁を捕らえた。これからどうするの? そう聞いていた。

「まーひとまず人のいなさそうな田舎にでも逃げるか」

 深く考えず暁はつぶやいた。

「あの、何ですか、逃げるって。まさか暁くん、とんでもない事をしでかしたわけではないでしょう?」

 口をはさんだ博士が、にっこり人のいい笑みを作る。明らかに目が笑っていなかった。

「ごめんごめん、言ってなかったな。今日ここに泊らせてもらうのは」

「アキラは人を殺したのよ」

 少女の一言は、この場の空気を凍りつかせるのに充分な力を持っていた。

 急にじわっと、暁の体のいろんな穴から嫌な汗が噴き出してくる。皮膚の表面がびりびりとしびれる感覚。腰まであるキオの髪から、ぽたりと雫が落ちる。

 キオは暁の瞳を無遠慮に覗く。私の言ったこと、合っているでしょう? と。

 耐えきれなくなって暁が目を逸らすと、キオは何も言わなくなった。

 髪を乾かし、博士が用意してくれた布団に入って、翌日に暁が目を覚ますまで。

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