3 ミルコ
――あっついなぁー、今日は特別蒸してるよ。
すでに理央は3樽目を背負っている。樽の交換の都度に水分補給と、首に巻くタオルの交換は欠かしていないのだが、それでもやっぱり暑いものは暑い。
購入する客が顔に汗を滲ませつつ、うまそうにビールで喉を鳴らしている。それを見ると、飲める口の自分も飲みたくなってくる。
しかし理央は、アルコール飲料は水分補給にならないことを知っている。なおかつ仕事中だから飲めない。だから、ほかの売り子が言っているのかは知るよしもないが売るときに、
「ビールがおいしいのはわかりますが、ちゃんとお水も飲んでくださいね♪」
と、ひと言付け加えるようにしていた。熱中症や脱水で倒れられてもシャレにならない。酔客に言っても馬耳東風だろうが、理央は良心で言っているだけだから、それで満足していた。
「おーい、ネーちゃん!」
声があったほうに反射的に顔を向けると、金髪のアメリカ人らしき女が手を振っていた。理央も営業スマイルを付け加えて振り返すと、女は手招きをしだした。
――めちゃくちゃ流暢な日本語。こっちの生活が長いのかな?
「ビールちょーだい!」
理央は相手の目を見て大きくうなずき、急階段を足元に気をつけながら上っていく。
「2杯ちょーだいな」
「ありがとうございます♪ 日本語お上手ですねー、日本での生活は長いんですか」
「そうやでー、生まれてこの方やから20年以上はおるで」
「あれ? ということは、ハーフとかそういう……?」
「ごめいとー。かーちゃんが生粋のアメリカ人なんや。ウチ、沙蘭っちゅう名前なんやけど、名前もそれっぽいやろ?」
「あはは、なるほど。だから、日本語がよどみないないんですね」
理央から受け取ったビールを、沙蘭はしゃがんでいる女に渡した。
「そちらの方は大丈夫ですか? 結構グッタリした感じですけど」
「大丈夫や。さっき飲んだビールが気に食わなくて拗ねてるだけやから。ほんで、さっきから焼き鳥や弁当を食べて水ばっか飲んでんねん」
「それならよかったです。今日は体調を崩されて医務室に運ばれる方もいるので、気をつけてくださいね」
「ほーい、おおきに♪」
沙蘭が代金を支払うと同時に、女が体を震わせて立ち上がった。
『おいしいっ。チェコのエールビールを思い出すわ……!』
――背(せぇ)高(たか)っ。しかもこの人は彫りが深くて美人だし。180以上ありそう……。
『ミルコでお願い!』
女は沙蘭の前を体をズイっと伸ばしておかわりを要求する。表情はまったく変わらないが、声音は興奮に震えていた。
「ミ、ミルコ……?」
『ヤナ、いくらなんぼでも知っとるわけないやろうが』
「何をおっしゃってるんですか?」
「泡マックスで注いでほしいって言ってるんや。今チェコで流行っとるらしいねん」
「いいんですか? 置いておくとすぐなくなりますよ」
沙蘭は理央の肩を叩きながら笑った。
「ええんやって。手間賃も払ったるから、作ってやってくれんか」
「わかりました」
泡だらけのビールを提供しようものなら、日本では怒られるのが常だ。しかしチェコ人というのは、泡マックスのビールすら楽しんで飲む。
ビールと言えばドイツのイメージだが、ひとり当たりの年間消費量はドイツすらしのぐのだ。ちなみに日本人の3倍以上多く飲んでいる。四半世紀以上トップは伊達ではない。
「できました」
理央がヤナにビールを手渡し、沙蘭が1000円札を理央に支払う。ウエストバッグからおつりを出そうとする理央を、沙蘭は手を振って断った。
「ええてええて」
「いや、そういうわけにも――」
『おかわり!』
コップを突き出された先を見れば、ヤナが無表情の中にも目を輝かせていた。口の回りを泡だらけにして、美人が台無し感など気にも留めていない。
沙蘭はひとりで大笑いした。
『やんちゃなやっちゃな。でももう一杯でいったん終わりにしとき。ほかにも待ってるお客さんもおるんやから』
『あっ、そうよね……。最後は普通のでお願い』
「あのー、お客さん……」
沙蘭がウィンクをした。
「ネーちゃん、大丈夫や。言うといたから」
「ありがとうございます。言葉が通じないから、どうしようかなと思ったんです」
ビールと金銭のやり取りを済ませると、理央は階段を下りながらホッとひと息ついた。
――チェコ語なんてわからないよ。でも、沙蘭さんのおかげで助かった。ふたりとも美人で目の保養になったなぁ。
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