第15話 昇進

朝になった。いきなり七海がたたき起こしに来たので井出はビックリした。なんでも天気が良いので布団をしたいのだそうだ。


「は~い、井出さん!  起きて、起きて~! お布団、すんだから~!」


七海がいきなり掛け布団を引っぺがそうとする。井出は必死に抵抗した。まるで玩具おもちゃを取り上げられるのに抵抗する大型犬のごとく、掛け布団にしがみ付く。


「わ~! めれ! めれ~!」


余りの井出の抵抗に辟易へきえきした七海は、仕方なく交換条件を提示した。


「10分間だけお待ちします。もし次に二階に上がって来た時に起きてなかったらヒドイですからね?」


七海が腕組みをしながら「湖川アオリ」をめて宣言する。彼女は振り返ると寝室を出て、そのままトントンと階段を下りてゆく。階下で真由美やアヤに何やら話している声が聞こえて来た。そこまで確認してから、井出は行動を開始した。


「あちゃ~、やっちゃったよ。コレ・・・。」


彼は掛け布団を少し上げてのぞき込む。どうやら布団に被害は無い。問題は下着トランクスの中だ。一回や二回では無い、数回はやらかしている・・・。井出は夢精むせいしていた。下着トランクスの中は阿鼻叫喚あびきょうかん様相ようそうていしていた。


中学時代に二歳上の姉がいきなり掛け布団を引っぺがして来たまわしい記憶がよみがる。正に「黒歴史くろれきし」だ。姉は「無かった事」にしてくれず、何度も謝罪してきた。それが逆に辛かった。その時は見兼みかねた母が間に入ってくれて、事は収まっていった。


だが、今回はその経験が生きた。 何とか掛け布団は死守して事の露見ろけんまぬがれたのである。しかし油断は出来ない。井出に残された時間はたった10分間しかないのだ。彼は寝室のふすまに取り付く。少しだけ開けて廊下や階下の気配を探る。


辺りに人の気配は無い。彼は素早くふすまを開けて、少し前屈まえかがみで隣の洗面所に移動する。素早く浴衣ゆかたと下着を脱ぐと、脱いだ物をかかえながら浴室に飛び込んだ。そのまま、彼は洗面器に湯船ゆぶねの残り湯をむと下着トランクスを洗い出した。


「こんな危険物をイキナリ洗濯機にかけるワケにはイカン! 汚物は洗浄だ!」


ここで筆者としては井出を弁護したい。24歳の若い男性である彼が夢精をするのは全く普通である。何ら性的に異常なところは無い。むしろ健康な証である。だが井出は罪悪感と自己嫌悪で大変だった。


「七海君で、こんな事になるなんて・・・。俺は最低だ! どっかおかしいのかな?」


保護したばかりの少女のあられもない姿を夢想してこんな事態におちいるとは・・・。


洗浄が終わった井出は全自動洗濯機に洗剤と共に「ブツ」と浴衣を放り込み標準コースにセットしてスイッチを押す。これで証拠隠滅は完了した。だが、彼の状況ミッションは終わっていない。すぐさま頭と体を洗う。正に神速しんそくでだ。


そのまま、体をくとバスタオルを腰に巻いて寝室に戻る。替えの下着は事務所のロッカーの中だ。井出は迷わず、そのまま制服を着こんだ。少しスースーするが仕方ない。これは非常事態なのだ。次は布団を一気にかかええてしに行く。ベランダに出て全ての寝具を拡げて太陽の日にさらす。


「ふう、これで完了! もう安心・・・。む! このにおいは!」


やれやれと彼が息をいた瞬間、ベランダに独特な香りがただよった。毎年6月頃になると全国でほこる「あの花」の香りだ。不味まずい、掛け布団に匂いがこもっている。トントンと階段を上がる音がする。七海だ。井出は布団叩きを取り上げると必死に掛け布団を叩き始めた。顔面は蒼白そうはくだった。


「あ~、感心、感心! ちゃんと布団してるじゃん! ほこり叩くのは私がやるから、朝ご飯食べちゃってよ!」


七海が笑顔でベランダにやって来た。


「ん? この匂い、何?」


井出に近付いて来た途端に眉を潜めて尋ねて来た。


「ん? んん? ああ、この匂い? なんだろ、こっちの世界の珍しい花とか咲いてるのかな ? 俺、花とか良く知らんけど・・・。」


井出はそう言って布団叩きを七海に押し付けて階段を下りていく。額に冷や汗が浮かぶ。くして、彼の10分間の隠蔽いんぺい工作は完了したのであった。彼は朝食を食べるために居間に向かう。


居間のコタツの上に朝食が用意されていた。しゃけの切り身の塩焼き、卵焼き、豆腐の味噌汁、味付け海苔のり、お新香しんこう、そして暖かく白いご飯。日本の美しい朝ご飯だ。アヤの素晴らしい仕事に感謝しつつ、手を合わせてからモソモソと食事を始める井出。そこに連絡事項を伝えにエマが近付いて来た。


「はい。今、急いで対応して貰わないといけないのは、この二件ね。」


彼女が手渡してくれる書類を見る。真由美が日本語に書き直してくれていた。内容を確認していると、横でエマが井出を見つめて可笑おかしそうにしている。


「ん? 何? 俺、どこか変かい?」


彼がたずねると、エマはとうとうおなかかかえて笑い出してしまった。


「あなた、そのひげすごいわよ。食事が終わったら先にってらっしゃいな!」


井出が自分のあごを触ってみると、もう無精髭ぶしょうひげの手触りでは無かった。仕方が無い。彼はついさっきまでひげどころでは無かったのだから・・・。


「お待たせ! 昨日は良く眠れたかな? ご飯はもう食べた?」


朝食を終えてひげった井出が事務所で待っていた子供たちに声を掛ける。小学生で言うと低学年くらいだろうか、身長130cmくらいの男の子と身長120cmくらいの女の子だ。昨日の夕方に井出とエマが肉食獣の群れから救出した兄妹だ。


妹の方が椅子から降りてスカートをまんでうやうやしく頭を下げる。だが男の子の方は椅子の上で腕を組んだまま不機嫌そうだ。顰め面しかめっつらでじっとこちらを見つめている。何か気にさわることでも言っただろうか? そう考えたとき、井出はハッとした。


駐在警察官ちゅうざいけいさつかん井出浩一巡査いでこういちじゅんさです。昨日は災難でしたね? しかし大事にいたらなくて良かったです。エマ保安官補から大体の事情はうかがっています。」


彼がそう言って二人に敬礼すると、男の子は椅子から降りて来て握手を求めて来た。


「君は礼儀をわきまえているようだな。私はオッツオ・ハイェターだ。仕事は外交吟遊詩官をしている。宜しく。君たちが居なければ、今頃我々はハイコヨーテ共の腹の中だ。礼を言う。」


「私はミィドリ・ハイェターと申します。お仕事は外交舞踏官ですの。昨夜は誠にありがとうございました。ご駐在様ちゅうざいさま。」


なるほど、これがホルビー族か。井出は保安官テッドに感謝していた。あのしつこい注意が無ければ、気付くことが出来ずに怒らせてしまうところだった。しかし彼らを怒らせたら本当に怖いのだろうか? 彼は今一いまひとつ、に落ちなかった。


井出は目の前で自分を見上げるミィドリの姿にある小動物を連想していた。ハムスターだ。大きめの頭、4頭身くらいか? ドングリ型の大きく黒目勝くろめがちの瞳、エルフの様に長くは無いが良く動く大きく丸い耳、短い手足、太っている訳ではないが、服装がゆったりとした体の線を出さないものなので体形も丸く見える。


うるんだ瞳で頬を上気させて自分を見上げるミィドリは、おやつを両手で受け取るハムスターの様にあいらしい。艶々つやつや栗色くりいろの髪は頭の上でお団子だんごにしてまとめてある。前髪は眉毛の位置でパツパツだ。井出は思わず頭をでそうになったがこらえた。こう見えて相手は大人なのだ。


「なるほど、丘の頂上付近でハイコヨーテハイエナもどきどもの待ち伏せを受けたのですね。その時に『馬』の脚をやられてしまったと・・・。」


話を聴いて井出は少し責任を感じていた。自分が「保安官の町」に行って留守にしていなければ彼らを無駄に危険に晒すことは無かったからだ。だが昨日の流れでは行くしか無かったのも事実だ。彼は改めて真由美に感謝した。彼女が一旦帰ることを提案しなければ、今頃この二人の命は失われていただろう。


「判りました。この後、本官も『保安官の町』には用事があります。お二人はパトカーでお送りしますよ。『馬』は当駐在所でお預かり致します。」


「それは助かる。あの白い車なら多少の事があっても安心だ。今日中に連絡を着けなければ同僚たちも心配するのでね。」


ホルビー兄妹と話を付けると井出は駐在所の裏に回った。そこにはエマと真由美が待機していた。「黒い建造物」の本稼働。これが二件目の用件だ。


「本稼働を始めると色々と忙しくなるわ。先に私の管理者登録を済ませちゃうわね。」


エマが「黒い建造物」の操作パネルに手をかざす。パネルの上に光る文字が浮かぶ。井出には読めないが共通文字ヴィルブリフで色々な表示がされたボタンが並んだ。彼女はれた手付きでボタンを操作する。自分の名前を入力すると操作を完了した。


エマの説明によると、これで彼女にも駐在所の「黒い建造物」が持つ「防御結界」の入場許可が可能になったと言うことだ。つまり、これからは井出とエマのどちらかが駐在所に居れば来訪者を「防御結界」の中に収容出来るのだ。


次は「黒い建造物」の本稼働だ。先ずは、この建造物の正式名称を決めなければならない。入力作業に入ると真由美が右上の小さなボタンを小指で押した。するとパネルに別の窓が開いて言語の一覧が表示された。彼女は「日本語」を選択した。


操作パネル上に文字が記されたされた光るボタンが並ぶ様を見て、「まるでATMだな。」と井出は思った。しかし真由美は、まるで昔から知っていたようにパネルを操作する。元々、頭の良いだとは思っていたが何故だろう?


「井出さん、この建物の名前は何にしますか?」


彼女が井出にたずねる。自分が決めて良いのか?と聞くと三人の女子高生は彼に任せると打ち合わせているそうだ。彼は考えた。この「黒い建造物」はどこかで知っている気がした。数年前に読んだ小説に似たようなものが登場していたのだ。何かバイクが深く関係していた気がする。


そうだ、「神殿」だ。確か、その小説の中では「神殿」と呼ばれていた建造物はバイクや銃を与えてくれたり交換してくれるものだった。井出は「黒い建造物」の使い方を実演された時に、何かを思い出しそうになっていた。今、それが繋がった。


「神殿・・・。いや、その名は既に使われてたんだよね。なら、『真の神殿トル・マルヤクータ』ってのはどうかな?」


井出が真由美に告げる。横で見ていたエマが一瞬だけ驚いたような顔をした。しかし直ぐに悪戯いたずらっぽい少女のように微笑ほほえんだ。井出は知らなかった。何気なにげなく決めた、この名前が後に様々な波乱を巻き起こすことを・・・。


真由美が井出に告げられた名を「黒い建造物」の操作パネルに入力する。パネルに「この名前で決定しますか? はい/いいえ」と表示が出た。彼女が井出を見つめる。彼がうなずくと真由美は「はい」のボタンを押した。


操作パネルに様々な光る文字が日本語で表示される。真由美がエマに内容を音読して伝えていた。そうすれば「翻話テルホルーラ」のおかげで意味が伝わるのだ。


「本稼働モード、開始します。」

「『防御結界』既に運用中です。」

「『自動補給・整備・補修・保守システム』既に運用中です。」

「『住民登録モード』本運用に移ります。」

「『管理者保護システム』運用開始します。」

「『治安維持ポイント管理システム』運用開始します。」

「『昇格システム』運用開始します。」

「『進化・・・・」


ズラズラと光る文字が流れてゆく。井出には余りにも多くて読み切れなかった。全ての表示が流れて一旦止まった。少し間を置いて操作パネルに表示が現れた。同時に彼の全身が淡い緑色の光に包まれる。


「ん? なんだ、この光?」


身体のあちこちを確認する井出、急に真由美が彼の右胸を指差しながら叫んだ。


「井出さん! 胸章が『巡査長』になってますよ!」


操作パネルには次のように表示されていた。


「井出 浩一 昇進:巡査→巡査長」


彼は何時の間にか「巡査長」に昇進していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る