039:イチャついてなんかないっ

早朝、凛のアパートの前。つむぎは凛のスマホに電話をかける。


なんだかんだ数ヶ月続いている、朝一に凛を起こしにいく役割。

片手に下げた小さめのトートバッグには、おにぎりが入っている。凛が熱中症で倒れた後、つむぎの母がひょろっこい凛を心配して朝ごはんのおにぎりを持参させるようになった。つむぎだけ家で朝食を済ませて凛の食事中に暇を持て余すのも妙なので、凛の部屋で二人一緒に食べるのが日課。


「やっぱ寝てる、か…」


電話の向こうで鳴り続ける呼び出し音に、応える様子は一切感じられない。

凛が起きてさえいれば正直、おにぎりだけ手渡してそのまま一人で学校へ行ってしまいたいと思っていた。


気まずすぎる、昨夜のこと。

一夜明けても、寝起きのぼんやりとした頭に真っ先に蘇ってきたあの記憶。


あの後はすぐに家に着き、普通に家族でご飯を食べて、玄関先で見送って。

でも今から二人きりで朝ご飯なんて、どんな顔をしていればいいものか。


(…まずい、なんかドキドキしてきた)


つむぎは思い切って鍵を回し、ドアを開けた。

その途端、ベーコンを焼くいい匂いが鼻腔をくすぐった。


「り…ん?」


「あ。おはよ」


キッチンから顔を出す凛。きちんと制服に着替えてある。


「ちょっと、起きてるじゃん…!電話出てよ!」


「出たらお前、おにぎりだけ置いて先行くつもりだったろ」


完全に考えを読まれていて、返答に詰まるつむぎ。


「そういえばさ、今日の約束なんだけど…覚えてる?」


つむぎが部屋に上がってクッションの上に腰掛けたところで、凛がベーコンと目玉焼きの皿を乗せた皿をテーブルに置きながら尋ねる。


「演劇、二年生の」


「へぇ、夏休みの話なのによく覚えてたじゃん。感心感心」


「そうやってすぐ馬鹿にする…」


「褒めてるって」


つむぎはおにぎりを二つずつ並べて、凛からお箸を受け取る。


「いただきまーす」


「いただきます」


朝食のクオリティは、凛の朝の調子で決まる。つむぎに布団を剥がれても起きようとしない日は持ってくるおにぎりだけだし、つむぎが来るより先に起きている日は卵や魚を焼いたりしてくれる。


目玉焼きは、決まって塩胡椒。つむぎの母親の作る味がそのまま、二人の基本的な好みになっている。卵焼きは甘いよりしょっぱいの、とか。ポテトサラダにはハムよりツナ、とか。


「それで、つむぎってその後何か仕事あったりするの?」


「昼前まではクラスの仕事で、夕方の最後の時間に生徒会」


「そっか、じゃあクラスはシフト同じ時間帯か」


(あれ…案外普通だ)


昨日のことが、何もなかったかのように普段通りの会話。凛も別段変わった様子はない。


「…つむぎ?どうした?」


「いや、何でもない」


慌てて凛から目を逸らすと、つむぎは残りのおにぎりを急いで頬張った。



♦︎



「…うっ、…っ」


「いつまで泣いてんだ、つむぎ。次接客だぞ、そんな顔で教室戻れんのかよ」


「だって…感動しちゃって…」


凛と観に行った、二年生の演劇『レ・ミゼラブル』。六十分弱の公演用にアレンジされていたが、圧倒的な迫力が印象に残る集大成といえる作品。

終盤にキャスト全員が舞台に上がる民衆の歌のシーンは感動的だった。カーテンコールで感極まって泣いている女子も何人かいて、つむぎも思わず泣いてしまった。


「でも本当、良かった。…やっぱりいいな、演劇って」


凛はしみじみと言う。それから無意識のように手をつむぎの頭に伸ばした。つむぎが泣いていると、やってしまう癖。

だけど周りにはまだちらほら客が残っている。すんでのところでとどまり、さりげなくつむぎの背中に腕を回して慰めるようにトントンと叩いた。


「俺らも来年は出し物が舞台発表なんだよな。…演劇、やりたい」


「うん…っ」


「そろそろ行くか」


凛はつむぎの頬に手を添えて自分の方に顔を向かせると、親指で涙を拭う。

その瞬間、つむぎはそれまですっかり忘れていたことを唐突に思い出した。強烈な既視感。頬に触れる温かい手。


「い、行こう」


つむぎは勢いよく席から立ち上がると、切り替えるように自分の両頬を叩いた。




つむぎたちのクラスの出し物であるHallo Sweetsは、二日目の今日も賑わっている。


今の時間帯は特に、ヴァンパイア姿の凛を拝みにくる在校生の客が異様に多い。

つむぎは一昨日凛がマントを試着するのを見ているけれど、今日は衣装班のクラスメイトが張り切って髪をセットし、血糊でメイクをしてくれたので本格的な仮装。いつもは目に少し掛かるくらいの前髪を上げているのが大人っぽくて…つむぎも少しドキッとした。


躊躇いもなくスマホやカメラを向けられ、盗み撮りされている凛。

初めのうちは微妙な顔をしていたけれど、もはや慣れて名前を呼ばれる度に微笑みを向ける余裕っぷりだ。


「あの凛がファンサしてるよ…」


つむぎが独り言を呟いたその時、数メートル離れたところで給仕していた凛が突然パッと振り返った。つむぎは驚いて、慌てて背を向ける。


(地獄耳?…いやまさかね)


「つーむぎ」


「うぉわっ」


突然の耳元の凛の声に、つむぎは度肝を抜かれる。


「さっき呼んだ?」


「いや呼んでないし。ってか近い、離れて…っ」


耳に息がかかってくすぐったい。つむぎは真後ろに立っている凛の腹を肘でぐいぐい押すけれど、びくともしない。


「でも見てたよね」


つむぎが言い返そうとした途端、突然首筋を撫でられた。背中がぞわりとする。


「な、に!」


「いや、結ってるの珍しいなと思って」


いつもは下ろしっぱなしかハーフアップばかり。ところがさっき、緋凪がブラシと髪ゴムを持ってきてツインテールにしてくれた。彼女曰く、「やっぱ猫耳ならツインテでしょ!」らしい。


「可愛いね」


「!?」


その時、厨房エリアの方から緋凪が顔を出した。


「はーいそこ、死角でイチャつかない!」


「イチャついてなんかないっ」


「はいはい、いいからとっとと運ぶ!特に芹宮、この忙しさ九割はあんたのせいなんだから仕事して」


皿を押し付けられるがまま、二人は仕事に戻る。


つむぎたちの当番の終わる昼ごろになっても、長蛇の列は途切れることはなかった。おそらく閉場時間よりも随分前に、パンケーキもワッフルも完売してしまうだろう。

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