038:夜の住宅街でキス

生徒会の業務は、文化祭当日も変わらない。…いやむしろ、普段よりも多いくらいだ。


校内の出店の売り上げや来場者アンケートの集計。今日の片付けと明日の準備。校内見回りと安全確認、その他もろもろ。

結局普段と同様、生徒会メンバーは閉門時刻ギリギリに学校を出ることになった。


自宅の最寄駅からの家路を、凛とつむぎが二人並んで歩くのは久々だった。

夏前から生徒会は忙しさを増し、凛は帰りに直接バイト先へ向かうか、もっと長引く事になると早退するかのいずれかだった。


「…七月の頃は、中夜祭やるとか言ってたっけ」


静かな夜の住宅街を歩く最中、凛はふと呟いた。


「うわぁ、本来だったら今日だったのか。無理無理、今日の過重労働に加えて中夜祭なんて」


「な」


中夜祭というのは文化祭一日目閉場後の、在校生のみを対象とした講堂での舞台の催し。確か七月の頭まで計画が進んでいたが、ただでさえ忙しい生徒会にとって過剰な負担となることに気がついた生徒会長が早々に頓挫させた。


中夜祭はその年によって、あったりなかったりするらしい。その理由はやはり、主催者側のキャパシティの問題だろう。

今年は生徒会も委員会も人数が少なく、開催を諦めるのは正解だったと思う。



いつの間にか肌寒い季節になった。脇の草むらから秋の虫の声が聞こえる。まだ蒸し暑かった夏の終わりの頃から鳴き始めたっけ。あっという間に秋も終わってしまうような気がした。


「なんか久々じゃない?二人でここ歩いたの、確か夏休みが最後だよ」


つむぎは思い返すように言った。


「凛、バイト忙しかったし…あれ、今日は?」


「今日も明日も週末」


くすりとおかしそうに笑った凛。


凛の働くBar Polarバー・ポラールは平日のみの開店であり、店舗は週末のみ昼間から営業する洋食屋に様変わりするのだ。所謂、休日のみの間借り。凛の雇い主であるマスターの古くからの友人が、オーナー兼シェフを務めているらしい。

というわけで、凛は週末にバイトは入れていないのだ。


つむぎは思い出して、口を手で押さえて恥ずかしそうに言った。


「…うあ、そっか…学校あると平日と思っちゃう。ってことは凛、一緒に夜ご飯の日か!」


「そうそう。それだけを楽しみに、俺は終わりの見えないアンケート用紙と二時間戦ってたわけだけど。つむぎは忘れてたんだ、切ないな」


わざとらしく顔を覆って見せる凛に、つむぎはあたふたとフォローした。


「ごめんって。あ、そうだ。クッキング部のチョコブラウニーあげるから許して」


「あぁ、それ午前中に売り切れちゃったやつ。買えたんだ」


「そうそう、午前中は暇だったし並んだんだよ。凛は朝からシフト続きだったよね」


つむぎはリュックを片方の肩に引っ掛けて中身を探り始める。


「はい、どうぞ」


つむぎが差し出した手のひらには、ラッピングされた一切れのチョコレートブラウニー。


「本当にいいの?」


「…凛のために買ったやつだし」


昨日の朝、クッキング部の高二の女の先輩が凛のクラスへ来た。部活で作って販売するお菓子の宣伝で、ブラウニーは例年人気ですぐに売り切れてしまうとかなんとか。「忙しいなら特別、取り置きしといてあげるよ」とまで言われたが、潔癖症で手作りの食べ物が食べられないという体で過ごしている凛が買いに行けるはずもなく。本当は好きだし食べてみたかったけど、スルーした。


「本当は食べたかったんでしょ、私は知ってるんだからね」


得意そうなつむぎを横目に、凛は包装を開けるとブラウニーを一口かじる。甘い…想像よりも随分と甘ったるいココアの味が、口いっぱいに広がった。


「美味しい。ありがと」


「うん…てか今食べるんだ」


「そ、ご飯前に食べたらおばさんに怒られちゃうから内緒ね」


「えー、どうしよっかなぁ」


悪い笑みを浮かべるつむぎ。


「つむぎ、あーん」


「?」


反射的に開けたつむぎの口に、凛は最後の一口分のブラウニーを押し込む。


「これでお前も同罪な」


つむぎはみるみるうちに真っ赤になった。即座に俯いて、ひたすらもぐもぐと口を動かしている。しばらくの間そうしているので、女子の一口にあれは大きすぎたかと凛は少し思った。


「…顔真っ赤」


俯いていても分かる耳の赤さ。つむぎはやっとブラウニーを飲み込むと、キッと凛を睨みつけて言った。


「うるさい。びっくりしたの」


「はいはい」


つむぎは唐突にブレザーのポケットからスマホを取り出して何やら始めた。


「赤面症、直し方…」


ぶつぶつ呟いて検索をかけるつむぎ。凛は思わず笑い、そのスマホを横からひょいっと取り上げる。


「あ!ちょっと、返して」


「いいよそのままで。可愛いから」


「かわっ…!な、何を急に」


「急にじゃないよ。昔からずっと、可愛い」


「あっそ!」


ぷい、とそっぽを向くつむぎ。

小さい頃は、可愛いと言われると「本当?」と嬉しそうにニコニコしてたつむぎ。その反応が可愛くて面白くて、毎日のように褒めていたっけ。成長するにつれて今みたいな嫌がるそぶりを見せるようになり、言うのをやめてしまった。


「可愛い、って言われるのやっぱり嫌?」


「当たり前でしょ、よりにもよって凛に容姿褒められても嬉しいわけない。嫌味かっつーの」


「嫌味じゃないよ。本当に可愛い」


「…そんな言葉、他の女子が言われたら卒倒するだろうな」


「つむぎにしか思ったこともないし、言わないよ」


「…そりゃどうも」


小さな声で呟き、すたすたと歩調を早めるつむぎ。凛は早足で追いつき、咄嗟にその腕を掴んだ。つむぎは肩をびくりと跳ねさせて立ち止まる。


「そうやって受け流さないで、つむぎ」


「受け流させてよ…」


つむぎの声が震えていた。凛は怯んだように思わずつむぎの腕を握る手をパッと離す。

振り返ったつむぎは頬が赤く火照っていて、心なしか目は涙で潤んでいるように見える。


(うわ……なんて顔してんだ)


一度は引っ込めた手を再び伸ばして、凛はつむぎの頬から顎の輪郭をゆっくりと撫でる。温かくて滑らかな感触が手のひらに伝わってきた。


「凛、最近何でこんな…そうやって変なこと言ったり、さ、触ってきたり」


「それ、少しは意識してくれたってことかな」


「してるよ。とっくに」


心臓が跳ねた。胸の奥がざわめくその音が、遠くの方から聞こえる気がした。


「そっか」


知っていた。焼きもちを焼いたようなむすっとした表情も、すぐに赤くなる顔や耳も、つむぎが自分だけに見せる表情。つむぎは感情が表に出やすくて、思っていることが手に取るように分かる。幼い頃から隣にいるのだから、なおさら。

だけど、本人の口から聞くとそれはそれで…


「…嬉しい」


凛はつむぎの頭に手を置いて、そのまま少し屈んで顔を寄せた。


「つむぎ」


「え…ちょっ」


唇に、キスをした。

ほとんど衝動だった。思ったよりもずっと柔らかくて、微かに甘いココアの香り。


唇を離すと、つむぎは訳が分からないというように目を白黒させている。さっきよりも一層真っ赤に染まった頬。

凛はそんなつむぎの感情を探るようにじっと見つめた。恐怖や嫌悪の色が見えないことに、少しほっとした。


「今…口に、した?…え、気のせい…」


「勝手に気のせいにしないでよ。なんならもう一回する?」


「ばっっかじゃないの!?……こ、恋人でもないのにっ」


久々の本気パンチを脇腹にくらった凛は、笑って返す。


「悪かったって、ほら帰ろ」


もう決して顔を見せるまい、と言うように随分と先に立ってどんどん早足で歩くつむぎの後をゆっくりと追いながら、凛は自分の唇に触れた。

まだ熱が残っているような気がした。


ふと見上げると、建ち並ぶ家々に縁取られた小さな夜空に、丸い月が浮かんでいた。よく見るとほんの少し欠けていて、明日か明後日が満月だろうか。


「ねぇ上見て、凛!満月」


「まだ満月じゃないよ。…でも、綺麗だね」


月ではなく、天を仰ぎながら歩くつむぎの後ろ姿を見つめながらそう言う。

ちゃんと前見ないと転ぶよ、と言おうとした矢先につむぎが何もない道端で軽くつまずくのを見て、思わず笑ってしまった。

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