032:期待した訳じゃない!

「つむぎちゃん」


廊下で後ろから蓮音に追いつかれ、つむぎは足を止めた。

激しく鼓動する心臓は、まだ落ち着かなかった。


「深呼吸して」


蓮音に言われるがまま、肺に空気を吸い込んだ。どうやら息をすることを忘れていたらしい。息苦しさがずっと消えたと同時に、自分の鼓動が緩やかに変化する。


「ありがとう。紫藤くん」


「いえいえ。…あのさ、余計なお世話かもしれないけど。凛くんが最後に言ったこと、気にしなくて平気だと思うよ」


「…どうして?」


「彼が賢いからよ」


驚いたことに、そのつむぎの問いに答えたのは蓮音ではなく、後ろからつかつかと歩いてきた由芽だった。


「桃井先輩」


「用事が済んだ後、何やら隣が騒がしいから寄ったの」


つむぎはハッとして、廊下の脇にずらりと並んだ教室の壁を見る。

つむぎたちの出てきたファッションショーの部屋の隣は、何やら怖そうな装飾の教室。どうやらそこが由芽のクラスの出し物であるお化け屋敷だったらしい。


「よく考えてもみなさい。あの場で芹宮くんがあなたを恋愛的な意味で好きだと公言すれば、とばっちりがいくのはあなたじゃない」


「とばっちり…」


「あの雰囲気であなたに告白なんて、ただ周囲の落胆と嫉妬を買ってあなたが嫌な思いをするだけよ」


「こ、告白なんて期待したんじゃありませんけど…!」


つむぎは顔を赤らめて、わたわたと慌てて両手を顔の前で振る。


文脈的に恋愛感情を否定されたことに意外とショックを受けただけで、再考してもあの時どんな言葉を自分が期待していたのかは分からない。何を言われてもしっくりこなかっただろう。


つむぎは自身が凛に対し恋愛感情を持っていることを最近自覚した。

しかし凛がどう思っているのか、自分と同じ類の感情を持っているのかどうかは、正直なところ今まであまり気にしたことがなかった。

自分の感情に対処するだけで精一杯で、目を向けてこれなかったのだ。


蓮音はつむぎの背中をとんと叩いて言った。


「そういうことだよ、つむぎちゃん。あそこで告ることもなく、また焦ってつむぎちゃんを傷つけるような全否定もしなかったのはあいつのファインプレーだと僕も思う」


「ありがとうございます」


幾分か冷静さと余裕を取り戻したつむぎは、二人に礼を言う。


「…正直、一番心を抉られたのはあまりに二人がお似合いで、それと二人が付き合うことをみんなが望んでいる雰囲気です。…凛は何も悪くない」


「美雨先輩とは中学も同じだったけど、昔から恋愛で負け無しの自信家なんだよ。自分が綺麗でモテることも、凛くんと並んでもてはやされることも、知り尽くした上で全てが計算。…ですよね、由芽先輩」


「でしょうね。だからあの雰囲気を作り出したのも、芹宮くんが言葉を濁すしかない方向へ持って行ったのも、あなたの心を折るという理由だけだ思うわ…大人げがないと思うけどね」



♦︎



美雨に口づけられた右頬を、凛は手の甲で拭う。

赤い口紅が少し移っていた。

その場所が運良く特別教室だったため、教室の隅にいくつか水道があった。凛はランウェイを飛び降りると水道へ向かい、蛇口を捻って手と頬を洗った。


「ごめん、リップついちゃった?」


無邪気に背中の後ろから呼びかける美雨。

凛は振り返って美雨に確認をとる。


「落ちてますか」


「バッチリ綺麗」


凛はポケットからタオルハンカチを取り出すと水気を拭き取って、足早に美雨から離れた。追いかけて来ようとした彼女を振り返り、釘を刺す。


「見送りは結構ですから。仕事に戻るので、また」


「…分かった。またね、ありがとう」


美雨は立ち止まって手をひらひら振る。

凛は大勢の視線を背中に感じながら教室を出ると、左右を見渡した。つむぎたちはどこへ行っただろう。


教室を飛び出したつむぎの横顔は、傷ついた表情に見えた。


最近つむぎは、美雨と凛が接近するのを制止するような行動をよくとっている。凛も当然気づいていた。

凛が告白されようが迫られようが、どこか他人事のようだったつむぎ。だからこそ、彼女がそのようなことをするなど、今まで一度もなかったことである。


慣れないことをするつむぎの必死さが健気で、そして嫉妬してくれているような気がして、凛はその状況を少しばかり楽しんでいた節があった。


…とはいえ、今の出来事は流石に楽しめる範疇を超えている。つむぎに不快な思いをさせたかった訳ではないのだ。


何より自分が一番、キスされるのを彼女の前で見たくなかった。家族のようにだなんて、言いたくもなかった。


当てもなく歩き始めると、廊下の端っこの方につむぎたちの姿を見つけた。

凛が近づいていくと、由芽と蓮音、そしてつむぎがこちらを見る。


凛は何を言うか少し迷った。


「えっと…ごめん。さっきの」


つむぎは目を瞬いて、それから少し笑って返す。


「凛が謝ることなんてないでしょ」


凛は落ち着いたつむぎの様子に少し拍子抜けした。


「うん…でも」


「これは誰の落ち度もないから一件落着でしょう。…ってことで、持ち場に戻りましょう、芹宮くん」


由芽はクリップボードとカメラを携えている。凛があの教室で誰かに預かられた持ち物だが、いつの間にか引き取ってくれたようだ。


「僕たちも戻ろっか、一階に」


蓮音はつむぎにそう言い、それから凛の耳元へ顔を寄せ、彼にしか聞こえない音量で囁いた。


「心配せずとも、つむぎちゃんは分かってるよ」


凛は苦笑して「ありがと」と返す。

どうやらありがたいことに、由芽や蓮音がフォローしてくれたようだった。

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