029:私がいるからいいじゃん
「り……」
凛の後ろ姿が見えて名前を呼ぼうとしたつむぎは、すんでのところでとどまった。どうやら彼は今他の人と会話している様子で、つむぎは教室に入るのを躊躇した。
目を凝らして相手を見てみると、文化祭の実行委員長である神崎美雨だった。すらりと背が高く、ひょっとしたら170センチ近くあるのではないだろうか。身長180センチを越える凛と向かい合う姿は、まさに釣り合いが取れていて絵になっていた。
話が終わるまで待つか、と壁に寄りかかる。引き戸が開け放たれているので、会話が漏れ聞こえてきてしまう。
「えー!
彼女の弾むような声。凛、という呼び方につむぎは少し驚いた。この学校の人では彼を呼び捨てにするのは自分だけだと思っていた。
親しくなるといつの間にか下の名前で呼び合うようになると言うけど、凛の場合は周りから一目置かれているせいか、何故か呼び捨てをする人は誰一人としていない。彼に積極的に絡みに行っているクラスメイトの女子ですら、『凛くん』とか『芹宮くん』とかだ。
「はい。本当に外れがないですよね」
「それそれ、めっちゃ分かる。私の一番好きな映画も丸町監督のなんだけど、『砂漠に雪の花』って古い映画で…」
「知ってます、中々珍しいところいきますね。それじゃあひょっとして、『リペンタンス』もお好きでは?」
「好き!」
(会話が…すごく弾んでる…)
凛はあまり親しくない人とは普通、必要最低限しか話したがらない。無視はしないし突き放しもしないけれど、聞かれたことにしか答えないし話を展開させようともしない。
凛の身の回りで共通の趣味を持つような人を、つむぎはかつて見たことがなかった。凛と近づきたくて多少知識を齧るような計算高い人はいたものの、容易に区別がつくため凛は相手にしない。
聞いていると、美雨はかなりの映画好きらしい。そしてつむぎにも、美雨のそれは偽物ではなさそうだというのは感じられた。
「そうだ、ちょうどもうすぐやるじゃん。丸町監督の映画」
「ですね」
つむぎはどきりとした。
数日前に凛と観に行く約束をした映画である。
「一緒に行かない?友達から断られちゃってさ」
「うーん、どうしようかな……」
「えー!そこ迷う?行こうよ」
(!?)
当然断るものだと思って聞いていたつむぎは頭が真っ白になった。つむぎを誘ったのは凛の方だ、何故迷うことがあるのだろう。デートだね、なんて言ってたのに…!?
と、そこでつむぎは重大な事実を思い出した。凛はよほど気に入った映画の場合、二回三回と観に行きたがる癖がある。つむぎとの約束を取り消さず、美雨とも約束することが可能なのである。
…だからと言って、凛が美雨と二人で出掛けるのは何だかいい気分ではなかった。
(凛には私がいるからいいじゃん!)
考えるより先に、身体が動いた。
「凛!…あ、すみません話途中でした?」
つむぎは精一杯の演技で教室に足を踏み入れた。凛はつむぎの方を見て言う。
「随分遅かったね」
「ごめん、ちょっとね。…お疲れ様です、神崎先輩」
つむぎは美雨の方を見て挨拶をした。
「お疲れ様。確か生徒会の…」
「瀬名です」
「そうそう瀬名さんね。…凛、今の話はまた」
美雨がそう小声で耳打ちをして立ち去ろうとすると、凛が呼び止めた。
「あ、その件はやっぱりごめんなさい。先客がいるので」
「そうなの?なら仕方ないか」
美雨は意味ありげにつむぎの方を一瞥した。つむぎは内心冷や冷やしながら微笑みかける。
美雨が教室を出ていくと、つむぎは凛に向かって白々しく尋ねた。
「その件って、何?」
「え?全部聞いてたんじゃないの?」
「え」
つむぎはぎくりと表情を強張らせた。
「だって俺の名前呼ぼうとしてやめてただろ」
「…何でよ」
ぽつりと消え入るような声でつむぎが呟き、凛は聞き返した。
「ん?」
「迷わないでよ…!私が聞いてるの知ってわざとそんな…馬鹿っ」
「ごめんね。不安だった?」
余裕の笑みを浮かべる凛。つむぎは凛を睨みつけて何も答えない。
「でも、あのタイミングでつむぎが出てきてくれるって思ってたよ」
さらっとそんなことを言う凛。つむぎも思わず、ぽろっと本音を漏らしてしまう。
「そんなの、承諾したら嫌だもん…」
「へぇ、嫌なんだ?」
くすりと笑う凛の足を、つむぎはげしげしと蹴り飛ばす。
「はいはい、分かったよ。帰ろうか」
♦︎
その日の、夜七時を過ぎた
カランコロン、と乾いた木のベルの音に凛はドアの方を見た。
「いらっしゃいませ」
客の顔を見て、視線が釘付けになった。凛は動揺を表に出さないよう注意を払う。
…どう見ても、丸町監督だ。見間違うはずもない。
このバーはテレビで見るような有名人も多く来るような店だから、特に不自然でもないのかもしれない。
「あれ、新しいバーテンさん?」
その彼に話しかけられ、凛は答えた。
「いえ、従業員です」
「ほー、どっかの事務所の子?やたらめったら綺麗な顔してんね」
「恐縮です。ただの高校生ですよ」
「おぉ、若いんだねぇ。落ち着き払ってるもんだから、もっと年上に見えたよ」
すると奥からマスターが出てきて彼に気づく。
「これはこれは、丸町さん。ご無沙汰しております」
「久しぶり。中々時間が取れなくてね。エル・ディアブロを頼むよ」
「かしこまりました。…あ、そういえば。芹宮くん、丸町さんのファンだと仰ってませんでしたか」
「はい、実は。今度公開のも楽しみにしています」
「お、それは嬉しいな。そんならあげちゃう」
丸町監督は懐から前売り券を二枚取り出して凛に渡した。凛は戸惑って遠慮がちに言った。
「そんな…よろしいのですか?」
「構わないさ」
凛はありがたく受け取った。監督から直々に券を頂けるなど、夢にも思わなかった。
カランコロンと再びベルが鳴り、今度は常連客がやってきた。年配の男性で、スーツをきっちり着こなしている。
「いらっしゃいませ、月城さん」
「やっほー凛ちゃん。…と、これはこれは丸町さん!お久しぶりですね」
月城は大手芸能事務所・ツキシロプロダクションの代表である。言わずと知れた有名な役者やタレントを抱えており、数年前からは声優部門を設置して発掘オーディションを開催したり、アイドルビジネスにも参入している。
そして何より凛をかなり気に入っているようで…、
「凛ちゃん、ウチに入ってよぉ」
「ごめんなさい」
「いい加減にしてください、追い出しますよ」
マスターによく怒られている。
丸町監督はその一連の流れをニコニコと眺めていた。
「やっぱ月城くんからしても、彼は魅力的なんだね」
「当然ですよ、見てこのオーラ。ちょちょっと表に出せば一気にてっぺんに上り詰めるタイプの子でしょ、長年色んな子を見てきたので分かります。欲しくてたまらない」
凛は穏やかに笑った。
「ありがとうございます」
ツキシロプロの代表から直々のスカウトなど、信じられないようなことなのである。凛の好きな役者も多く所属している事務所であり、事の凄さは自覚している。勿体ない誘いを断るのは凛にとっても心苦しいことだ。
「興味湧いたら言ってよ」
「えぇ、その時は」
凛はグラスを白い布で磨きながら頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます