022:同棲イベント、勃発

「…松尾のおばあちゃんの具合が悪いようなので、泊まりがけで長崎に行ってきます。お母さんより…」


ある日学校から戻ったつむぎは家に着くなり、テーブルの上の書き置きを読み上げる。

松尾、は地名ではなく苗字で、つむぎの母の実家の近くに住んでいてお世話になった人らしい。つむぎは一度も会ったことがないのだが、近所との繋がりの強い場所で生まれ育ったつむぎの母は、このようにしてたまに何かあると実家へ戻る。


珍しいことでもないので、普段は気にも留めない。市民病院に勤めているつむぎの父親は家にいたりいなかったりなので、一人で過ごすこともあれば父と過ごすこともある。


しかし今、凛が絶賛同居中である。ちなみに父は数日帰ってこない。

一瞬思考を停止させたものの、考えてみれば別に何も問題はない。二人きりで数日間過ごしたことはかつてないけれど、家事でも何でもできる凛がいるのは心強いし。

凛が来てから一週間と数日。彼のいる風景にも慣れ始め、変わる事といえばただ二人きりになるという事のみ。


「…ふたりきり」


「ただいまー」


「凛!?」


つむぎは言葉通り飛び上がった。凛が帰って来たことに気づかなかったのだ。今の時期、冷房が効きやすいようにリビングと廊下を仕切るドアを閉めているから、玄関の音があまり聞こえないため無理もない。


「何だよ、嫌か?」


「嫌じゃないけど…早くない?まだ九時過ぎだよ」


「お客さんが少ないから早く上がらせてもらったんだよ。…つむぎも今帰って来たところ?」


凛はそう言って、制服を着て荷物を持ったままのつむぎの格好を上から下まで見る。


「そう、図書館寄って勉強して帰ったの」


「熱心なのはいいことだけど、あんまり遅くなるなよ」


そんな気遣いにすらドキドキするつむぎは、近頃の凛の言動や今の状況にかなり毒されている。


「別に、すぐそこだし。まだ九時だし、過保護だなぁ全く〜」


軽くあしらうように余裕ぶって見せるつむぎに、凛はリビングのカーテンを閉めて回りながら言った。


「女の子なんだから、もうちょっと用心したらどうなのーって前も言った気がするんだけど…」


シャーッと最後のカーテンを引いて、つむぎに向き直る凛。


「…つむぎ?」


「あー…そうだっけ?あ、手洗いうがいしなきゃ」


つむぎはこれ以上絡まれる前に、そそくさと洗面所へ向かった。


もうかなり前のことのような気がしてくるが、初めて凛の一人暮らしの部屋へ行った時の話だ。もちろん覚えているけれど、うっかり余計なことまで思い出してしまった。シャワー上がりの凛。色っぽい流し目。顔を寄せられた時のシャンプーの匂い。温かいココア、抱きしめられて感じた体温…


思考を断ち切るように頭を振る。思い出に浸っている場合ではない。


「何してんの?大丈夫?」


「だ、大丈夫」


「…顔赤くない?」


「気のせいだからあっち行って!」


「やだよ。手洗いの順番待ち」


「そうですかっ」


つむぎがごしごしと手を洗っていると、凛が思い出したように「あ」と声を上げた。


「そういえば夕方おばさんからメール来てたけど…さっきから挙動不審なの、そのせい?」


「……」


「安心しなよ、別に何もするつもりないし。…例え年頃の男女が一つ屋根の下、夜を明かすとしても。ね」


つむぎの耳元に顔を寄せて、囁く凛。つむぎは真後ろに立っている凛の膝を軽く蹴りをお見舞いする。


「当然だから!」


その後は普通に凛が軽い晩ご飯を作り、交互に風呂に入って寝た。

何事もなく、至って普段通りに夜は更けていった。



♦︎



「つむぎ。起きろ」


最近はもっぱらアラームで起きていたつむぎは、凛にそうやって起こされるのは久々だった。

眠りから覚めてのろのろと身体を起こした直後、すぐそばの凛に気がついたつむぎは思わず身構えた。


「もうご飯できてるから、早く着替えておいで」


「…うん」


(…あれ)


何もされなかったことにつむぎは肩透かしをくらった気分のまま、制服に着替えた。いつも通り生徒会の活動があるけれど、金曜日である今日が終われば週末がやってくる。

リビングに足を踏み入れた途端、焼いたベーコンの良い香りが鼻腔をくすぐった。


「わー、美味しそう」


絶妙な焼き加減の目玉焼きにカリカリのベーコン、狐色のトースト。ヨーグルトに簡単なサラダ。ここまではいつもの朝の食卓とさほど変わらないけれど、真ん中に置かれた皿に唐揚げやインゲン豆の胡麻和えが盛られている。


「なんか豪華だ」


「冷蔵庫から出しただけだよ。あ、唐揚げは温め直したけど。明日から週末だから、朝のうちにお弁当用の作り置きの消費」


食器棚からマグカップを取り出しながらそう言った凛。何から何まで任せきりで、つむぎは申し訳なく思った。凛はこの家に泊まることになった日から毎朝、苦手なはずの早起きをしてお弁当を作り、加えて今朝は朝食を作ってくれている。


「なんかごめんね、凛に全部やらせて…」


「居候の身ですから。家事くらいやらせてよ」


「とは言っても…」


凛も席につき、二人は「いただきます」と揃って食事を始める。


「じゃあさ、この後つむぎには洗濯物干すのと取り込みお願いしていい?」


「もちろん!あと食器洗いもやる」


「それは俺に任せて。つむぎが干してくれてる間にやるから」


結局は一番面倒で手間がかかる料理を凛に任せきっているせいで、さほど彼の負担は変わらない。


「…私も料理、手伝いたい。…いや、むしろ足手まといかな」


「そんなことないよ。じゃあ夜ご飯は一緒に作ろうな。ちょうど今日バイトないし」


「うん!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る