009:昔のお隣さん、今のお隣さん

「つむぎせーんぱい、こんばんは」


学校での生徒会活動を終えた土曜日の夕方、マンションの廊下で会ったのは、隣の住人の翔真だった。小さな妹のすずらんを抱っこしている。


「こんばんは」


「制服なんですね。学校でしたか?」


「授業はないけれど生徒会でね。すずちゃん…あれ、眠ってる?」


翔真は腕の中で丸くなっているすずらんを抱え直し、顔を覗き込んで言った。


「えぇ、ぐっすりですね」


「あ、鍵開けようか」


「すみません、お願いします」


つむぎは翔真の指に引っかかっている鍵を受け取ると、彼らの住居のドアを開けて押さえる。


「どうぞ」


「助かります」


翔真は立ったまま器用に靴を脱いで部屋に上がり、奥の部屋にすずらんを寝かせに行った。


つむぎの立っている玄関からは、すっきりと片付けられている部屋の様子が垣間見える。

自分の家とは間取りが少し違うけれど、以前この部屋に凛が住んでいた頃とほとんど変わらない景色に懐かしさを覚えた。


すずらんを下ろした翔真は小走りで玄関に戻ってきて言った。


「良かったらあがっていきません?あ、もし時間があればですが」


「いいの?」


「もちろん」


翔真はにっこりと笑って先につむぎを通してから、自分はキッチンに向かった。


「今日ね、久しぶりにすず連れて母に会いに行ったんですよ。普段はすず抜きで、俺と父が交代で面会に行ってるんですけど」


「そっか、子供は病室に入れないんだよね」


「はい。けど最近は母の調子がいいみたいで、病院の中庭に出てきてもらって会わせました。すず、あまりにも楽しかったらしくて、別れ際にギャン泣きしちゃって」


「そっか、疲れて寝ちゃったんだ」


その時、玄関でガチャリと鍵の開く音がした。


「ただいまー…あれ、つむぎちゃん。いらっしゃい」


翔真の父親が仕事から帰ったようだった。


「こんばんは、お邪魔してます」


「おかえり父さん。紅茶、父さんも飲む?」


「貰おうか。ちょうど帰ったら紅茶淹れようと思ってたんだ。ジャーン」


彼はそう言うと手に持っている白い長方形の箱を掲げて見せた。その側面にはソレイユ・ルヴァンの文字と太陽の形のロゴの、金色の印刷がきらりと光る。

このマンションの向かいにある、人気の洋菓子店のものだ。つむぎの母もその店でケーキやらタルトやらを買って帰ってくることが多々ある。

お菓子はどれも繊細で綺麗で、何よりとても美味しい。たまに雑誌の取材を受けたりテレビでも紹介されるような有名店なので、近所だけでなく遠くからもお客さんが来て、年中繁忙している。


「ソレイユ・ルヴァンでケーキを買ったんだ。偶然四つあるから、つむぎちゃんもどうぞ」


「わぁ、やった!ありがとうございます」


翔真の父から箱を受け取って開けてみると、違う種類のケーキが四つ入っていた。


「つむぎ先輩、好きなのあります?」


「全部好きだから何でもいいよ」


「ほんとですか、じゃあモンブランはすずの好物なのでキープさせてください。俺はすみません、生クリームが苦手なのでチーズケーキ貰いますね」


「すず…モンブラン…?」


つむぎと翔真が同時に振り返ると、寝起きのすずらんがいつの間にか布団を抜け出してリビングに来ていた。


「起きちゃったか。ほら、モンブラン。父さんにありがとうは?」


「パパ、ありがとう!」


ちょうど洗面所で手を洗った後、ネクタイを緩めながらリビングに入ってきた彼は、そんなすずらんの可愛いお礼の言葉にでれでれだ。


「どういたしまして、すずらん」


翔真は以前彼を親バカだと言っていたけれど、本当に子供好きなのだとつむぎは微笑ましくなった。


四人でケーキを食べながら、そういえばと翔真の父が口を開いた。


「昼に病院から電話がかかってきたけど、母さんそろそろ退院だって。今日母さんに会いに行ってくれたから、知ってるだろうけど」


「うそ、知らない!今日は先生にも会わなかったし、すずの相手は母さんに頼んで、俺は一人で寂しく院内のカフェで勉強してたんだよね」


「そうか、もうすぐ期末試験か」


「うん。…でもそっか、母さん三ヶ月ぶり?今度はもっと長く家にいられたらいいんだけどな」


「そうだね。母さんは毎年秋口から体調を崩し始めるからね」


翔真の母親の病気は、別段命に関わるものではないらしい。けれど身体が弱く、毎年入退院を繰り返している。


「まぁとにかく、母さんが帰ってくるならすずのことは任せて、俺もテスト勉強に集中しなきゃ。先輩もあるんでしょ、期末」


つむぎは顔をしかめて答えた。


「うぅ…ある…」


「あはは、そんな顔しないで。頑張ってくださいよ、俺も先輩の高校を目指してるんですから」


「えっ!」


つむぎの声と翔真の父親の声が重なる。


「うちの高校目指してるの?」


「翔真、そういえば志望校の話、父さんにちゃんと教えてくれてなかったな」


「まぁ後でちゃんと話すよ。夏は三者面談もあるしね」


「来年は翔真は高校生、すずらんは小学生か。年月が経つのは早いなぁ」


「そうですよねぇ、すずちゃんなんて最初会ったときはよちよちしてたのに」


「すず、自転車も乗れるよ!」


黙々とモンブランを頬張っていたすずらんが突然そう声を上げた。


「補助輪なしで乗れる!」


「そうそう、父さんが練習につきあってくれて、最近乗れるようになったみたいです。俺はまだ見たことないんですけど」


「えぇぇ!すっごい…!」


「お兄ちゃんとつむぎちゃんにも見せたいなぁ!ねぇパパ」


「そうだね、すず頑張ったもんな」


「えへへ」


ケーキを食べながら、明日の日曜日に河原ですずらんの自転車を見せてもらう約束をし、つむぎはおいとますることにした。


表に出ると、辺りはもう暗くなっていた。自分の家に戻ろうとしたその時。


「待って!」


「うわっ」


後ろから腕をがしっと掴まれ、あまりにも驚いてつい声を上げた。振り返るとつい今さっき別れた翔真だった。


「びっっっくりした…翔真くんか」


その背後に、今度は急に足音が迫ったことにつむぎは気づかなかった。肩を掴まれ、後ろに強く引き寄せられてよろめく。転ぶと思ったのは一瞬で、そのまま抱き留められた。


見てもいないのにそれが凛だと分かったのはなぜだろう。真上を見上げると予想の通りに凛の顔が見えた。険しい表情をしていて、彼が何か勘違いをしているとつむぎは感じた。


「…凛、この子友達」


「えっ」


凛はつむぎを開放して一歩下がる。目を丸くして立っている翔真に、凛は急いで謝った。


「ごめんなさい、つい」


「いえいえ!…あ、つむぎ先輩。忘れ物です」


翔真は手に持っていたつむぎの鞄を手渡した。


「あ、ありがとう!」


「えっと、そちらは…」


「私の幼馴染みで、同級生の凛」


「あ!もしかして、この部屋に以前住んでいらっしゃった方ですね。先輩がよく話してた」


「え?そうだっけ」


確かに凛のことばかり話していた記憶があって、恥ずかしくなったつむぎはすっとぼけて見せた。


「初めまして、鮎村あゆむら翔真って言います」


「どうも、芹宮凛です」


騒がしい玄関先の様子を見に来たらしいすずらんが、ドアの隙間からこちらの様子をこっそり伺ってる。翔真は気づいて手招きをした。


「おいで、すず。妹のすずらんです」


パタパタとかけてきて翔真の足元にぴったりとくっついたすずらんは、凛を見て顔を輝かせた。


「かっこいいお兄ちゃんだ…!」


「ありがとう」


凛はにこりと微笑んでそう返し、つむぎに小声で言った。


「じゃあ俺、先に上がっとくから…」


「待って、私も戻るところだったの。じゃあね、翔真くんすずちゃん。おやすみなさい」


「おやすみなさい」


二人と別れて、つむぎたちは家に入る。玄関で凛は言った。


「本当にごめん。階段の途中でお前の声が聞こえて、急いで来たら腕掴まれてたから…早とちりした。恥ずかしすぎる」


「いいよ。まぁ腕掴まれるより肩掴まれる方がびっくりするけど」


「だよね」


心なしかしゅんとしたその表情が物珍しくて、少しだけ可愛く見えた。


「あの人が今、あそこに住んでるんだね」


「寂しい?」


「まぁね。ちょっと」


そんな凛が今日ここに来たのは、一緒に晩ご飯を食べるためだ。凛の身体の細さと乱れた食生活を心配したつむぎの母親が、バイトのない週末だけは家に来るように命じたのである。


「あの子と何してたの?」


「え〜、なになに、気になっちゃう?」


からかうような言い方をするつむぎ。怒られるかと思いきや「まぁな」と聞こえて少し拍子抜けをした。


「ケーキ食べた」


「ケーキ…ソレイユ・ルヴァン?」


「そうそう」


「あいつ今何してる?」


“あいつ”――それはつむぎと凛にとっての、もう一人の幼馴染みのことだとすぐにピンときた。

つむぎは微笑んで言った。


「夏に帰ってくると思うよ」

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