008:割のいいバイトについて
ある放課後のこと。
凛が職員室での用事を終えて教室に戻ってくると、仲睦まじげな男女が二人戯れている場面に遭遇した。二人きりの教室。お互いの腰と背に腕を回して、いかにも第三者が立ち入るべきじゃなかったような雰囲気だ。
とはいえ今更慌てて出て行くのも決まりが悪い。申し訳ないと思いつつ目の前を横切り、荷物を持って早足で教室を出た。いつも通り生徒会室に向かおうとしたその時、足音が近づいてきて背中を叩かれる。
「りーんくんっ!」
「わ」
振り返り、目の前の男を見つめる。蓮音だと分かるのに数秒を要した。
「…紫藤?」
「何で疑問形」
「誰かと思って。髪色違うし」
「いや確かに染め直したけど!…僕のこと、髪で認識してたわけ?もう六月だよ、そろそろ顔も覚えてくれます?」
「…あ、さっき教室にいたのお前?」
「そうだよ。どうりで無反応だと思った」
やれやれ、と呆れたような様子の蓮音に、凛は冷静に言う。
「例えお前だと気づいてたとしても普通無視するだろ、あの状況」
「一応弁解しておくけど、僕はキスより先は学校じゃしないからね」
「そう」
「へー、反応薄いな。もっと狼狽えるかと思った。もしくは怒られるか」
意外そうに言う蓮音。
しかしそれもそのはず、通っていた中学の治安が悪かったせいで、空き教室で“キスより先”をしている現場に遭遇するのも珍しくなかった凛は、今のような状況にある程度耐性がついている。もはや何を見ても動揺などしない。
しかしそんなことを蓮音に話せば根掘り葉掘り聞かれること間違いなしなので、凛は黙っておいた。
手に持って存在を忘れていた、パックのコーヒーのストローを咥える。口に苦味が広がった。パッケージを見て分かってはいたけれど、無糖のブラックコーヒーだ。普段好き好んで飲まない。
「あ、それ自販機のだよね?凛くんが買ってるの珍しくない?」
「あー、これ、さっき通りすがりの知らない先輩がくれた。なんか眠そうだからあげる、って」
「うわー、さすが凛くん。その人何て名前?」
「何だっけ…」
そう言えば最後にクラスと名前を言っていたけれど、もう覚えていない。
「忘れた」
「まじかよ…。ま、僕の顔すらまともに覚えてないんだから当然か。成績学年一位って本当?記憶弱くない?」
にっこりと煽るように顔を覗き込んでくる蓮音。人は誰しも得意不得意があるものだ。凛は勉強なら得意かもしれないけれど、人物を覚えるのはどうも苦手。そもそも覚える気がないのは自覚しているが。
「興味ないことと必要ないことは覚えが悪いんだよ」
「…なんかサラッと僕のことディスった?」
凛は蓮音のことを無視して、手にしていたコーヒーを押しつける。
「あげる」
「やった、凛くんと間接キスじゃーん!」
蓮音のはしゃぐ声に凛はこっそり顔をしかめる。深刻な寝不足のせいか、蓮音の高めの声が頭の中に変に響いた。
生徒会室に着くと、他のメンバーはまだ来ていなかった。
「一番乗りかぁ。そういえば先輩たちは文化祭執行部の方に用事あるって言ってたよね。一年女子は?」
「二人とも掃除当番」
「そっかそっか」
二人は書類を広げたりパソコンを立ち上げたりして、それぞれ連日やっている作業を再開した。
(…眠い)
十分ほど続けたところで、目の前の画面が二重に見え始めた。それでも耐えてキーボードを打っていると、ふっと目の前がブラックアウトする。同時に額に衝撃を感じて我にかえった。前のめりになってモニターに頭を打ったらしい。
「大丈夫?」
斜め前から、蓮音が心配そうに覗き込んでいた。
「…平気」
「かなりガチな寝不足じゃない」
「んー…最近寝てない」
「どうせ勉強しすぎてるんでしょ。主席のプレッシャーもあるかもしれないけど、何より健康が大切だよ」
「いや、勉強はそんな」
「…嫌味?」
凛は欠伸を噛み殺して言った。
「それよりバイト続きで…」
「バイトかぁ。そんな詰め込んでるだなんて、何か欲しい物でもあるの?」
「ねぇよ。生活費。一人暮らしだから」
「へぇ…!すごいな、凛くん。同い年とは思えないや、しっかりしてんだね」
「…どうも」
「でも無理は禁物だよ。お金足りないなら僕が何とかしてあげる」
「何とかしてあげる、って…」
「ジョークじゃないよ?なんたって売れっ子バイオリニスト・紫藤蓮音だよ。プロデビューから早五年、こう見えてかなり稼いでるんだから」
バチンと綺麗なウィンクを決め込んでくる蓮音を、唖然と眺める凛。
「…」
「信じてないでしょ」
凛は目の前の、茶髪ピアスのチャラチャラしているだけに見える少年をまじまじと見つめる。とてもバイオリニストには見えない。
「…有名人なのに不特定多数の女子と関係持ってて大丈夫?」
「い…今更蒸し返すなしっ」
「とにかく平気だから、気持ちだけ貰っとく。必要なお金がどれほどか見当がつかなくて、詰めてただけ。でも割のいいバイトが見つかったから、一本に絞るつもり」
「そうなんだ。時給いくらよ?」
「2000円くらい」
「へー」
聞き流すようにそう相槌を打った蓮音は、数秒反芻してから眉を潜めた。
「…は?」
♦︎
「…ってわけだよ!」
蓮音は切迫した様子でつむぎに言った。
何があったのかと言うと、蓮音は数日前に凛とバイトの話題になったらしい。その時給が異常に高いので、不安になったと言う。
「この求人サイトで調べてみたんだけど、高校生可で時給2000円なんてヒットしないんだよ!何かやばい仕事なんじゃないかと思って…凛くんから詳しく聞いてない?」
「そういえば最近新しいバイト始めたって言ってたけど、それ以上は聞いてないな」
するとそれまで黙って聞いていた緋凪は、スマホを見ながら呟く。
「長期バイトだと…塾講師、性的なサービス…まぁ高校生不可よな…基本22時以降の労働も禁止だし」
「凛くん、法に触れることさせられてるんじゃ…」
「運び屋ならゼロが二つ三つ多いだろうし、可能性は低いんじゃない」
「何でそんな冷静なのさ、緋凪ちゃん!つむぎちゃんも!」
「まさかあの凛が、そんなアホなことするわけないよ。一歩間違えれば退学じゃん。…けどまぁ、気になるな。2000円か…」
「じゃあさ、尾行してみない?」
緋凪の提案に、二人は瞬きをした。
♦︎
「刑事っぽくてドキドキする」
「呑気だね、紫藤くん。凛って無駄に察しがいいから私は怖くてたまらない」
「あ、ちょっと二人!喋ってないで着いてきて。見失うよ」
三人の十数メートル先を、凛はすたすたと歩いていく。普段つむぎと凛が乗り換えのために降りるその駅は、東京でも有数の大きな街の真ん中。高層ビルが立ち並び、日夜問わず人通りの多い繁華街だ。凛は電車を乗り換えることなく、改札を出て賑わう街へ向かったのである。
ヒヤヒヤする場面もあったものの、三人はとうとう凛が建物へ入る姿を見届けた。歓楽街を抜けて人通りの少ない通りから、さらに裏路地に入ったところ。マンション…ではなく、こじんまりしたビルといったところか。
「まずい、ここまで来て建物内のどこに行くのかは分からない」
「あ、エレベーター乗った。今だ」
三人は急いで建物に入り、エレベーターの上の液晶の表示を見る。
「9階で止まったね。うちらも行こう」
階段で9階まで辿り着いた。
…信じられないことに、そこに凛が待ち構えたように立っていた。
「やっぱりお前らか。どういうつもり?」
「紫藤、いつから…」
すると、奥の扉が開いた。
「大丈夫ですか、芹宮くん」
三人は一斉に声の方を見る。白いシャツに黒のベストと蝶ネクタイの、洗練された印象の男性。年は40かそこらだろうか。
「はい、友達でした」
「そうですか。…折角なので皆さん、お時間あればお茶でもいかがですか」
三人は顔を見合わせた。
♦︎
「会員制のバー!?」
三人の声が見事に揃う。看板らしい看板もないそのお店に恐々通された三人は、一枚板の見事なカウンター席に並んで座っていた。
薄明るい店内には、ゆったりとしたジャズミュージックが流れている。外から見た印象よりも、意外と中は広くテーブル席もいくつかあった。
「おじさん、こいつ高校生なんです。夜の十時までしか働けないし、酒も飲めないし」
「もちろん、了解しております」
穏やかな表情をたたえて、
「このお店は朝まで開いておりますが、芹宮くんは十時までには帰します。それに当然、お酒も飲ませません」
「でも、『君も一杯どうだね』って言ってくるお客さんだっていると思います!」
「高校生だと伝えれば、強要する方などおりませんよ。なんせ、私の信用しているお客様しかここにはお通ししないので」
凛が着替えて来て、三人の並んでいるカウンターに麦茶のグラスを並べる。制服はマスターと違い、黒いシャツに腰には黒のエプロン。その姿があまりにも様になっていて、三人は声もなく見惚れてしまう。
「以前、私の友人がオーナーをしている飲み屋に行った時、そこで働いていたのが芹宮くんです。物腰柔らかで所作も美しく、何より初対面のお客様相手に、受け答えのしっかりした方で。十五歳と聞いた時、本当に驚きました。ちょうどその店が移転するタイミングで、引き抜いてしまいました。オーナーには色々言われましたがね」
マスターはグラスを拭きながら、そう言って笑った。
「バイトを雇う予定などなかったのに、衝動的に採用したのは後にも先にもこれきりでしょう。それにここではしつこく連絡先を聞いてきたり待ち伏せするようなお客様はいらっしゃらないので、芹宮くんにとっても良い職場だと思いますよ。他の所ではよくあることだったみたいです」
「そうだったんですね。…まぁ、あの顔じゃ仕方ないですよね」
蓮音が麦茶を飲んで言った。三人は、少し離れたところでテーブルを拭いている凛をひとしきり眺める。
「ところで、もしかしてあなたは紫藤蓮音さんですか?」
つむぎはぎょっとして隣の蓮音を見る。けれど蓮音は至って普通に笑って答える。
「そうです。ご存知なんですね」
「恥ずかしながら音楽には詳しくはないのですが、去年たまたま月刊クラシックの表紙でお見かけして。特集も拝見しました。まだこんなにお若いのに、素晴らしいですね。陰ながら応援しております」
「わー、嬉しいです!ありがとうございます」
一人ついていけないつむぎは、逆隣の緋凪に救いを求めるように視線を送る。
「あ、つむぎは知らないのか。紫藤、こう見えて有名なバイオリニストなんだよ。あたしも詳しくは知らんけど」
「緋凪ちゃん、せっかくコンサートのチケット取っておいても貰ってくれないじゃん」
「寝たら悪いもん。…ってか、そろそろ帰ろうか」
緋凪の言葉に、つむぎも腕時計を見る。そんなに時間は経っていないけれど、さすがにそろそろお客さんが来るかもしれない。
つむぎは店先まで見送ってくれたマスターに言う。
「急に来て色々失礼なこと言って、本当にすみませんでした。ごちそうさまでした」
「いえいえ、気にしないでください」
「あの…凛のこと、よろしくお願いします!」
三人が帰った後、マスターはしみじみと呟く。
「いいお友達ですね」
「…すみません、本当」
奥から様子を覗いた凛は申し訳なさそうに、しかし嬉しそうにそう言った。
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