007:一人暮らしの幼馴染みの部屋で
次回の期末テストについて早くも釘を刺されたその夜。机に広げた教材の中に、つむぎは見覚えのないノートを見つけた。
「これ…凛の?」
表紙には教科名も名前も書いていなかったけれど、凛がいつも使っているものだった。中をパラパラとめくると予想の通り、見覚えのある流れるような達筆な字や数式が並んでいる。凛の化学のノートらしかった。今日は生徒会の活動が久々に早く終わり、最終下校までの時間を使って生徒会で勉強会が開かれた。各々の教材を貸しあったりしているうちに、このノートも混ざってしまったのだろう。
まぁ明日学校で返せばいいや。一日くらい大して困らない…
「明日土曜日じゃん!」
つむぎはノートを返しに、凛の一人暮らしをしているアパートを訪ねることにした。
♦︎
最寄駅とつむぎのマンションの、ちょうど中間あたりに位置するアパート。ここの202号室が凛の部屋だ。
階段を上り、意を決してそのインターホンを押す。
ピンポーンと部屋の中で鳴り響く音。しかし応答はない。凛は毎日バイトをしているけれど、十時を回ったこの時間は家にいるはずだ。
…もしかして寝てる?
つむぎはボタンを連打した。それからドアが開くまでに時間は掛からなかった。
「うるせぇよ」
凛がそこに立っていた。
――上半身は裸で、辛うじて肩からタオルを掛けている。濡れて普段より長く見える前髪の隙間から、青色を帯びた目が不機嫌そうにこちらを見据えている。
「り…凛…!?その格好」
「ちょ、おい」
凛は慌てふためくつむぎの腕を掴んで強引に玄関口に引き込み、ドアを閉めた。部屋の中は明かりがなく、薄暗かった。
「近所迷惑。何時だと思ってんの」
そう静かに怒られたつむぎはやっと落ち着きを取り戻し、しょげかえった。
「ごめんなさい」
「あとさ、俺シャワー浴びてたのね。ひとまず服着てくるから」
「…ほんとごめん」
Tシャツを着てすぐに戻ってきた凛は、パチリと壁のスイッチを押して玄関に明かりを灯した。まだ濡れている頭にタオルを被っている。彼はつむぎの手元に目をやって言った。
「あ、そのノート」
「凛の、間違えて持って帰ってきちゃったみたいで…」
「わざわざ持ってきてくれたの?」
「週末だし、無いと困るかなぁって」
「…この時間に一人で?」
「うん」
「ありがとうな。でもそういう時は連絡してくれる?こっちから行くから。危ないだろ、女の子なんだから」
凛はノートを受け取りながらそう言った。つむぎはびっくりしてまじまじと凛の顔を見る。
「…何」
「いや、ごめん。…女の子扱いされたことに驚きを隠せなくて、その…」
つむぎが照れたようにそう口籠ると、凛は黙ってそっぽを向いた。被っているタオルを引いて口元を隠すようにして、それから目線だけつむぎの方を見て言った。
「女の子じゃん。曲がりなりにも」
一言余計だ、と突っ込もうと思った。けれど凛の濡れた髪の間から見えるその流し目を見たその一瞬で、つむぎは何を言おうとしていたのか忘れてしまった。
(…なんか色っぽい)
急に心臓の音がうるさくなり始める。
(私が女の子なら、凛は男の子だ)
そう意識した途端、なぜか急に恥ずかしくなって、つむぎは後ずさる。
「じゃあ、用は済んだしもう帰るから…」
「待って」
腕を掴まれる。シャワー上がりだからなのか、凛の高い体温が直に伝わる。
「俺の話聞いてた?」
まるで掴まれた腕から全身へ熱が広がるように、顔が、耳が、熱くてたまらない。恥ずかしい。そんなつむぎの動揺した様子に目敏く気づいた凛。面白がるように、つむぎに顔を近づける。
「どうしたの?」
「待って、近い」
生まれながらの幼馴染みである凛。今やすれ違えば誰もが振り返るような端麗な容姿をしているとはいえ、毎日毎日一緒に過ごした幼馴染み。今さら客観的に見るなんて出来るはずがなかった。…この瞬間までは。
ずいっと顔を近寄せる凛。間近に見るその綺麗な顔に、見惚れるなと言う方が難しい。
つむぎが遮るように咄嗟に手で自分の顔を隠すと、凛はいとも
「…そんな赤くなって」
お互いの吐息さえ感じられるくらいに近い。シャンプーか石鹸の甘い匂いが鼻を掠める。あと少しで触れてしまいそうだ。つむぎは目をぎゅっと瞑る。
「…や、やめて凛」
凛はふっと笑った。ほぼ同時に手首が解放され、つむぎが目を開けた頃には普通の距離の先で凛が可笑しそうにしている。
「ごめん、いじめすぎたわ」
その楽しそうな表情からは、ごめんなんて気持ちが微塵も感じられない。つむぎは恥ずかしいやら腹立たしいやらで混乱した気持ちのまま、ドアに手をかける。
「帰る!」
「それは本当に待って、送ってくから。夜道、危ないでしょ」
「何事もなく来れたし平気」
「駄目だ、もう二度とそんなことすんな」
厳しい口調で凛は靴を突っかけた。
「でも凛、まだ髪濡れてる。外肌寒いし、風邪ひくから」
凛は動きを止め、それから言った。
「じゃあ乾くまで待って」
履きかけた靴を戻しながら続ける。
「…上がって」
つむぎは初めて、凛が一人で暮らすその部屋に上がった。
ベッドとローテーブルという必要最低限の家具。それからキャリーケースが部屋の端に佇んでいる。そんなに広くないはずの部屋が、やけに広く見える。小さなキッチンも綺麗で、手入れが行き届いている、というよりも使っている形跡が見えないような感じがした。生活感のまるでない部屋。
「…ちゃんと食べてる?」
「夜は大体、バイト先で
「朝は?」
「…つむぎ、お母さんみたい」
質問には答えずに、凛はそう言って笑った。朝はあまり食べないんだな、とつむぎは思った。もともと凛は朝が弱いタイプだから、単に食べる気になれないのかもしれないけれど。
「ごめん、クッションとかないからベッドにでも座ってて」
凛はそう言って、キッチンでケトルにお湯を沸かし始めた。しばらくすると、甘い香りが漂ってきた。
「つむぎ、まだココアは好き?」
凛は二人分のマグカップを持ってきて、コトリとテーブルに置いた。
「うん。一番好き」
「そっか、良かった」
凛はベッドには腰掛けず、つむぎの足元の床に座った。
冷たい牛乳を少し混ぜてあるココアは、猫舌のつむぎも冷まさずに口をつけることができた。インスタントココアではなく目分量のココアパウダーと砂糖で作ったというそれは、適度にほんのりと甘くておいしかった。
「料理、今はしてないの?すごく上手なのに。勿体ない」
「忙しい母さんのために作ってたようなもんだからね。自分一人のために、ってなると…なかなか」
「そっか」
凛の亡くなったお母さんのことが話題に出るのは、再会してから初めてだった。二ヶ月あまり、お互いが無意識にその類の話を避けていた。
「でも、それにしても偉いよ。自分でバイトして稼いだお金で生きている。高校生でこんなこと、普通できることじゃない。…ここからもっと近い高校もあったのにあそこを選んだのは、特待制度があったからなんでしょ。主席合格なら学費が全額免除」
「よく知ってるね。公立ですら、母さんの遺してくれたお金とバイト代だけじゃどうにもならないから」
凛は淡々と言った。数秒間の沈黙の後、凛はぽつりと呟く。
「母さんが身を削って貯めてくれたお金も、十二年手をつけずにいてくれた父さんの貯金も、ほとんど取られちゃったんだ」
凛が三年間、連絡を寄越せなかった理由。そして早すぎるように思える自立。
凛の今の一言で、全てが繋がった気がした。きっと、手紙を書いたりそんなことに気を払ってられるほど、まともに暮らしていなかったのだ。
親を失った子供が、心優しい親戚に引き取られるとは限らない。
「私、二ヶ月前に凛のこと責めた。手紙くれなかったって。…ごめん、無神経だった」
「気にしないで。あれは正直、嬉しかった。…俺を大切に思ってくれてる人が、まだこの世にいたんだって実感できて」
そんなの当然だ。家族同然の幼馴染みだから、大切に決まっている。
「もういいんだ、もう叔母のことは。未婚だしお金にも困ってたみたいだし。何よりあの人にとって俺は、疎遠のまま十二年も前に亡くなった弟の息子。そんなの他人同然だ。ただ…」
凛はカップを揺らしてココアの溶け残りを溶かし、最後の一口を飲んで言った。
「…あんなに追い詰められるまで身を削って働いた母さんの人生は、何だったんだろうね。一人親だからって馬鹿にされないように、大学へ行くまでのお金は心配するな、っていつも言ってたんだ。…本当、申し訳ないよ」
「凛がそんな風に思う必要なんてない」
そう言いながら、つむぎはやるせない感情に潰されそうだった。どんなに探してもこんなありきたりの言葉しか見つからないし、凛は自分を責めるのをきっとやめない。生まれてこのかた、つむぎは凛に何度も救われてきた。けれどつむぎは、凛を救えない。悔しかった。
ベッドからすとん、と床に座る。空っぽのマグカップを両手に包んだままぼーっとしている凛に身体を寄せ、その肩に頭をぐりぐりと押しつける。
「…もしかして泣いてる?」
凛はつむぎの方を見てないし、つむぎも嗚咽を漏らしてないのに、そんなことを言う。さらに強く押しつけると、彼はカップを置いて片手でつむぎの頭を抱き寄せた。つむぎが泣くと、いつも凛はそうする。
凛を差し置いて泣く自分が嫌で、意地でも歯を食いしばって口をつぐんだまま、深呼吸をしていた。涙だけは次々と頬を伝った。
凛は一度も泣いてない。母親が亡くなった瞬間も、葬式でも。
しばらくしてつむぎが落ち着くと、凛は切り替えるように言った。
「…さて、帰ろうか。随分遅くなっちゃってごめん」
「こっちこそ」
「ありがとう、つむぎ。少しだけ楽になった気がする」
外に出ると、涼しい夜風が肌を撫でた。すっかり乾いた凛の黒い髪が、さらさらと揺れる。
「送るついでに、おばさんたちに会いたいな」
凛は、つむぎとは毎日学校で会っている。けれど東京に戻ってきてから、つむぎの両親とは一度も顔を合わせていない。
「絶対喜ぶよ。最近は毎晩、凛の様子聞いてくるの」
「何それ、ほんと?」
凛は嬉しそうに笑う。
家の前に着いてつむぎがドアを開けると、待ち構えたように母親が玄関まで来る。
「つむぎ!何でこんな時間に一人で…」
母親の視線がつむぎから、後ろの凛へ移る。
急に静まった玄関の様子を見にきた父親も、凛を一目見て微笑んだ。
「おかえりなさい。凛くん」
一つの景色に収まる両親と凛の姿に、つむぎはその時初めて凛が帰ってきたような気がした。
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