悪夢から覚めて

 久しぶりにボールを握る。その確かな感覚。ケントからは大事をとって正月明けまではボールに触らないように言われていたものの、そう数日変わるわけじゃない。


 それに、突然の不振スランプに散々迷惑と心配をかけた亜美に完治したという報告がしたかったのだ。まあ 「報告」にかこつけたデートである。


 二人で訪れたのは俺たちが卒業した桜田小学校のすぐ裏手にある泉谷公園。かつては地元の学童野球の練習にも使用されていた。おかげでボール遊びが禁止ではない。放課後二人で下校前にここでキャッチボールをよくしたものだ。


「うわぁ、懐かしいね。」

白い息と共に亜美の言葉が弾ける。言うてもまだ3年経ってないけどな。ここは通算年齢の差による時間認識の違いだろう。


「じゃあ行くよ。」

 ゆったりとした投球動作からお互いの胸をめがけてボールを投げあう。だんだん互いの距離を離していく。

「調子はどう?」

「問題なーい!」


 ほぼ公式のバッテリー間の距離で投げあっていくうちにだんだん身体と肩が温まっていく。

「ねぇ、8割くらいで投げてみてよ。」

亜美が座ってキャッチする。うん、違和感がまったくない。

「ねぇ、ジャイロボールって投げて。」

ど真ん中に投げたんだが亜美はグラブで弾いてしまった。


「あぁびっくりしたぁ。ほんとに浮いて見えた。」

「危ないよ。どっか身体にボールがぶつからなかったか?大丈夫か?」

「うん。はじいただけ。」


 キャッチボールはそこで興がそがれ、あとはベンチに二人で座っておしゃべり。近況はメールのやりとりでわかってはいるがこうして顔を合わせて会話しているとなんとも幸せな気分になれる。

「最初に不調って言われた時はびっくりしたよ。もうダメかも、なんてメールしてくるからさ。」


「ごめん。まったく予期していなかったから取り乱しちゃったよ。」

明るい陽射しとうらはらな冷たい空気が俺たちの頬をなでる。


「ほんとにもういいの?普通は時間がかかるって聞いたけど。」

「まぁ、理事長先生ジュニアのパパが優秀な医者だからね。世界的に有名なんだ。今年もメジャーリーグの選手が学校に来てるよ。」


まさか魔法でよくなりましたなんて言えないしね。


「ピアノもまだ頑張ってんの?」

 うん。ピアノもある意味野球に通じるところがあったのだ。音符と言う記号に反応して指を正確に動かす。打撃バッティングなら投手の手元リリースポイントボールの最初の動きに反応して素早くバットを正しい位置へ繰り出す反応の訓練になる。


 そして投球ピッチングならボールを放つ瞬間の細やかな指の動きと強さをコントロールする訓練になる。握力というか指の力が強化されたので変化球を投げる時によりキレを生むことになるはずだ。


「ねぇ、今度『子犬のワルツ』とか弾いてみてよ。」

亜美の突然のおねだり。

「あのなぁ、その曲は名前が可愛いだけでちっとも可愛げのない初心者には難しい曲だぞ。」

 「え、そうなの?知らなかった。」

「あ、実は俺も能登間先輩カズさんに亜美と同じこと言ってそう言われただけだから。」

「なぁんだ、そうなんだ。」

 本当は弾けることは弾けるんだ。楽譜さえあれば。命中率アップの魔法のせいである。鍵盤に楽譜通り指を正確に命中させるだけなのだから、下手をすればリストの難曲「ラ・カンパネラ」だって弾ける。でも、それは違うらしい。


「そうだな。ピアノの音ゲーなら高得点は出せるだろうな。でも正確なだけじゃだめなんだよ。それが音楽の難しいところだな。」

能登間先輩は野球にも同じことを感じていたのだろうか。


 ただこのクラムジー症候群克服のための一連の対策は思わぬ効果を俺にもたらすことになるのだ。


別れ際亜美は俺の肩に拳を軽くあてる。

「選抜頑張ってね!」

「おう、虎のTシャツ楽しみにしてろよ。」

「あ、そうだ。」

 亜美が携帯の写真を見せてくれた。大きな熊のぬいぐるみが例のヒョウ柄のTシャツを着ていたのだ。なかなか似合ってるじゃん。「みやげ」ならぬ「いやげ」もので怒られるかと思ったけど少しほっとした。


「これ寮の子なんだ。次もらったら実家の子用にしようかなぁ。」

彼女の優しさが胸に染みる。さあ、冬休み明けたら再始動だ!


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