最終章

それはきっと、たぶん……。仲睦まじい兄妹。

 あれから海乃とも色々なことがあった。


 僕はずっと強くて格好良いお兄ちゃんに憧れていた。本当は強くもなんともないのに、自分の理想を海乃に押し付けずっと演じていたんだ。


 その結果がどんなに冷たくされてもニコニコ笑う優しいお兄ちゃん。それはまるで機械的だったのだと思う。


 海乃の事を悲しませていたとも知らず、ずっと演じ続けていた。


 だからあの日、初めて海乃の前で泣いた日。それは、初めて弱さを見せた日でもあった──。





 ◇◇◇◇◇


 夏休み最後の夜。時刻は九時を回っていた。


 玄関にひとり。僕は靴紐を結んでいる。

 明日からは新学期が始まるというのに、結局、こんな日のこんな時間になってしまった。


 “心音に告白をする”


 そう、決意したはずなのに、

 その一歩が踏み出せない。足が竦む。


「よしっ」


 靴紐を結び終わった。でも──。


「……はぁ」


 ため息とともに結んだ靴紐を解く。


 結んでは解いて、結んでは解いて──。


 人を好きになる気持ちも、こんな風に解ければ楽なのに──。


 そうして次第に、靴紐にすら触らなくなった。


 玄関に座っているだけ。

 ここから動けない。


 ただ、時間だけが過ぎて行く──。



「……おにぃ」


 ボソッと耳元で声がした。

 と、同時に肩から両手が伸びてきて……抱きつかれた⁈


「わぁぁっ、う、海乃⁈」


 お風呂上がりを感じさせる、濡れた髪が頬を伝う──。僕の肩に顔を乗せていた。


「もういいよ。今日はお家に居よ?」

 


 ……それは、当たり前のことだった。

 玄関にずっとこうしていれば心配もされる。


 心音との事は何も話していない。

 話せるようなことではないからだ。


 でも、一つ屋根の下。

 毎日顔を合わせる妹だからこそ、些細な異変にはすぐ気付く。家族ってそういうものだ。


 ずっと嫌われていると思っていたけど、寄り添うようになってからはあっという間だった。


 今ではすっかり仲睦まじい兄妹になっている。


 それはきっと、幼馴染も同じこと。


 心音だって僕の異変には気付いてるはずだ。

 それなのに確信につくようなことには一切触れない。知らないフリをしてくれる。


 そうやって、お互いに嘘を積み重ねているのが今の関係なんだ──。


 いつまでもこんなこと、続けていいはずがない。


 だから……。




「今日じゃなきゃダメなんだ。これは、夏の忘れ物だから」


 言ってて自分でもよくわからない。

 ただ、この気持ちは、この夏精算しなければならない。


 ひと夏の想い出にしなければ、もう二度と戻ってこれないような、そんな気がするからだ。


「そっか。また・・泣いて帰ってくるんだろうな」


「ははっ。今日はきっといつもより特段ひどく泣いて帰ってくるぞ!」


「……そうなの?」


 冗談交じりに明るく言ったのに、海乃からの返事は真顔だった。


「うん。これでたぶん、最後だから」


「そっか。じゃここで待っててあげる。玄関開けたらすぐに、お兄を慰められるように」


「うみ、の……!」


「あー、もぉ泣きそうだし。お兄は本当泣き虫になっちゃったよね〜!」


「こ、これは嬉し涙だからノーカンだ!」

「だめー! しっかりカウントしとくからっ!」


「ぐぬぬ!」


 こんな風に海乃と話せる日が来るなんて、今だに夢みたいだ。


 僕はずっと、ずっとずっと誤解をしていた。


 いま、この手にある幸せは本当はいつでも掴めた当たり前の幸せだったんだ。


 あの日、見なかったことにしたソレ・・


 あの時だって、もっとちゃんと話せていたのなら。海乃の本音を知ることができたのなら──。


 未来は変わっていたのかもしれない。


 でもそれは、これからだってきっと遅くない。



「ちょっと後ろ向いててくれないか。渡したいものがあるんだ」


「別にいいけど。……渡したいもの、なんだろ?」


 抱きつかれていた手が離れると、くるっと背中を向いた。


 それを確認してから、僕はまず靴を脱いだ。続いてバスパンを脱いでソレ・・も脱ぐ。そして再度、バスパンを履く。海乃に渡したいもの、そんなものは決まってる!


 「もういいよ!」と海乃の肩を叩いた。


 右手にはソレ・・を握りしめて。


「なぁーんだーろなぁー?」


 こんなことを言いながら海乃は笑顔で振り返った。


 そして、視線が僕の右手へと落ちる。


 海乃の表情は一瞬で凍りついた──。


「あ、そうだ。宿題やり残してた」


 そう言うと海乃はサッと立ち上がり自分の部屋に戻ろうとした。僕は海乃の手を掴んでそれを阻止した。


「これを、海乃にもっててもらいたいんだ」


「いやお兄。さすがに謎だよ。意味わからないし」


 海乃はゆっくりと首を横に振りながらそう言うと、僕の手を振り解こうとした。……絶対に、離さない。



 全てはここから始まったんだ。


 あの日、僕はソレを見なかったことにした。


 それが、間違いだった。


 理由なんてどうでもいい。

 臭いから手洗いしてくれているだけかもしれないし、匂いフェチなのかもしれない。


 でも、そんなことはどうでもいい。


 どうだっていいんだ──。


 僕の‼︎ 大切で大好きな妹が‼︎ 海乃が‼︎

 これを必要だというのなら、笑顔で差し出すだけだ‼︎


 あの日の過ち──。


 それを今この場で、ここから、やり直す!


 これからも仲睦まじい兄妹で居るために!



「僕はこれを海乃に渡したいんだ。これからずっと、毎日。こうやって!」


 必死に振り解こうとしていた手が止まった。


「お兄、自分がなに言ってるかわかってるの?」

「わかってる」


 もう、洗濯機を漁らせるようなことはさせない。これからは毎日、手渡しだ!


「そっか。本気なんだね。……もう、戻れなくなるけどいいの?」

「なんだっていい!」


「……わかった。じゃあ〜、早く行ってきなさい! 今日で最後なんだよね。ならっ、ぜーんぶ終わらせてくること!」


 そう言うと海乃はパンツを受け取った。少し恥ずかしそうにしながら。


「おう! 今日で、全部……終わらせてくる!」


 靴紐をぎゅっと結んで立ち上がる。不思議と足の震えも治っていた。


 そして、玄界のドアに手を掛けた時だった。


「あ。待ってお兄。耳貸して」

「おう。どうした?」

「伝え忘れてることがあった」


 耳を傾けると、


「……お兄すきだよ」


 その言い方は妙に艶っぽかった。


 でも初めて言われた気がした。

 冷たくされていたあの頃からは、想像もできない言葉だった。


 兄妹の絆は、ここまで深まった!


「海乃……! お兄ちゃんも海乃のこと好きだぞ! 大好きだ!」


「お兄のそれは聞き飽きてるー。今のはそういうのじゃないし。……って、ほら、早く行くの!」


 いったいなにが違うんだと思いながらも、

 満面の笑みで見送られ、僕は玄関を後にした。



 この夏を精算するために──。

 

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