ep.11
大声を張らねば会話出来ないほどのやかましさが食堂全体を包み込んでいる。酒が入っていることもあり、人々の声はより一層活気に満ちていた。
「兄ちゃんもっと食え食え、最後の夜なんだからよ」
「おーいクラーク!こっちにも追加の肉持ってきてくれ」
「おいまだ全然食べてねえじゃねぇか。そんなんじゃローズに勝てっこねぇぞ!」
「食ってる食ってる!食ってるって!」
ノアが口いっぱいに料理を詰め込んだまま、もごもごと主張する。村にいた頃は自分が誰よりも食欲旺盛だったのに、ここでは皆が育ち盛りのノアに負けず劣らずの勢いで、運び込まれる料理をガツガツと食らっている。「空腹を感じる前にとにかく胃に詰め込め!」と夕食前にかけられた身も蓋もないアドバイスを思い出しつつ、ノアは味の濃い料理をたんまりと口の中に放り込んだ。
目の前に広がる空いた皿が、手馴れた調理師の無駄のない動きで片付けられては、続々と新しい料理が運ばれてくる。
ノアがスプーンに乗せた大きなひと口を頬張ろうとしたところで、後ろでどっと大きな歓声が上がった。なんだなんだと皿を持ちながら振り向けば、少し離れたテーブルでローズとガタイのいい男が肩を並べ、口をせわしなく動かしながら目の前の料理に食らいついていた。それも、ノアが空けた皿の比でないほど高く積み上がった白い皿を前にして。
「何やってんですか、あれ」
ノアが口の中のものを飲み込んでから尋ねた。
「ああ、あれか。たまにやってんだよ。どっちが多く食えるか、ってな。端金賭けにして。ローズは強ぇぞー。勝率80%だ。」
テーブルを挟んで向かい側に座る男が、両手で『8』の数字を作った。
「さっきばくばくパン食ってたのに、まだあんな入んのか…すげえな」
「あいつの胃袋は俺らのよりうんとでけえのよ。見た目で判断しちゃいけねえ。」
「まじで一日ずーーーっと食ってますね」
「ずーーっと食ってんな」
「…ここの食費どうなってんですか」
「そりゃあもう。俺らもローズも食うために働いてるようなもんよ」
適当にはぐらかされた答えになんとなく察したノアは、苦笑いを浮かべた。
食事を終え、食堂からはすっかり慌ただしさがなくなっていた。今は調理場から聞こえる皿の音、木樽ジョッキをテーブルに勢いよく置く音、そしてご機嫌な笑い声がよく響いている。
酒を飲み交わしながら和気藹々と話す男たちと共に、ノアもくだらぬ話で盛り上がっていた。酒で赤くなった顔で駄弁る男の話を聞きながら、ふとノアは誰かの視線を感じる。視線の先を見遣れば、ここの経営者であるオスカーが、調理師のクラークと何やら話をしながらこちらに視線を送っていた。ばちりとオスカーと目が合った瞬間、オスカーが席から立ち、こちらに向かって来る。ノアがその様子をきょとんと見ていると、気づけばあっという間に距離が詰められていた。
「ノア君と話したいことがあるんだ。ちょっといいかい?」
「え、はい」
「なんだなんだー?」
「おいおい、まさかこいつを雇い入れるんじゃねえだろーな」
酒で呂律が回っていない野次が飛ぶ。
「いやいや、違うから。ただ話すだけだよ。」
オスカーが手をひらひらさせて否定する。
「じゃあ向こうの席、座ろうか。」
オスカーが、奥にある中央のテーブルを指した。
「で、どうしたんですか?話って。」
「いやまあそんな大した事じゃないんだけどね、ちょっと話をしてみたいなぁと思ってね。」
「はぁ」
「聞いてるよ、クラークから。パンの作り方教えてくれたんだってね。すごく喜んでたよ。」
「いやあ、教えたっていうか…クラークさん覚えるのが早いから、一回一緒にやってその後何回か教えながら一人で作ってもらったら、余裕で出来たって感じでした。なんで、俺がというよりクラークさんが凄いんですよ」
「そんなことはないよ。ノア君が一から丁寧に教えてくれたおかげで、コツがつかみやすかったって言ってたよ。それに昨日の夜も、日付が変わるまで練習に付き合っていたんだろ?」
「そ、そんなことまで………一体どこまで聞き出してんですか…」
「はは、安心しなって。雑談の内容までは聞いてないよ」
「いや怖ぇって!俺なんか変なこと言った気ぃすんもん。」
「ははは」
「こわい…」
「はっはっはっ、」
「こわ…」
「ふふっ」
オスカーが、頬杖をつきながら笑みを零した。
「…ノア君てさ、昨日今日だけで随分うちのやつらに気に入られてるみたいじゃん?だからどんな子なのかなーって気になってさ、こうして話をしてみたかったんだよね。
どう?ノア君的に。うちの男共、昨日今日と過ごしてどう映った?」
オスカーからの問いに、ノアが腕を組んで考えを巡らす。
「う〜ーん………………そうだなあ……
……『うるせぇ』?」
「だっはっはっはは、うるさいと思ってたんだ」
オスカーが、笑いながらテーブルを叩いた。
「あと、」
「うん」
「手がでけぇ」
「手?」
オスカーが泪を拭いながら聞き返す。
「なんかやたら肩組まれたり、背中叩かれたり、髪くしゃくしゃされたりして、そのたんびに手がでけぇなーって」
「なるほど、うちのやつらずっとノア君に構ってたもんね。一人でいる時間ほとんどなかったでしょ」
「うーん…確かに言われてみれば」
「ローズちゃんはどう?ノア君が来てからサボってたって報告めちゃくちゃ聞いたけど」
「え、あれサボってたんですか!?」
「そうだよ」
「だからか、なんか変だなぁとは思ってたんですよ。なんでローズだけこんな時間あんのって」
「うんまあ、それでそれで?ローズちゃんの事どう思う?」
「どうって………なんかすげぇ、豪快な奴だなって思いますけど…」
「あはは、豪快かあ。的を得てるね。
なんていうか、ローズちゃんはさあ。僕達の不安なんて他所に、軽々と壁を越えていっちゃう子なんだよねぇ。
昔ね、ローズちゃんが5歳くらいの時かな。
天候が荒れに荒れて、雷がそこら中に鳴り響く中、ローズちゃんが脱走した羊を追い掛けて行方不明になってしまったんだ。僕達はもう必死に捜索したんだけど、どうにも見つからなくてさ。結局日が落ちても手がかりは一切掴めなかった。あんな嵐の中じゃ、声も聞こえない。それに、探す方にだって危険な目に遭う可能性が出てくる。考え得る最悪の事態も想定したけど、これ以上従業員達を危険な目におくわけにはいかないと、断腸の思いで、捜索を一時中断したんだ。
その、丁度一時間後くらいだ。突然森の中から、羊を担いだローズちゃんが泥まみれになりながら姿を現したんだ。窓からその姿を確認したんだけど、もう膝から崩れ落ちたよ。もし見つかった ら、みっちり説教して言い聞かせてやる、って思っていたんだけど、ローズちゃんを見た瞬間、そんなことどうでもよくなった。
聞きたいことは山ほどあったんだけど、僕達はとにかくあちこちにある傷の手当をしようとしたんだ。そしたら、
「こんなの唾付けとけば治る!!それよりお腹減った…!!」って。」
「い、言いそう…」
「でしょ?昔っからそうなんだよ。ローズちゃんは。
そもそも原因っていうのがね、雨が降る前に落ちた雷にびっくりした羊が、一匹パニックになって列から飛び出してしまったせいなんだ。でもそんなの、大人に任せれば良いと思わないかい?大人が大人数で手分けして探した方が確実に見つかるし、ましてやまだ5歳の子供が一人で追い掛けるなんて無謀すぎる。それなのに、誰にも頼らず一人で行ってしまったんだ。まあ、5歳の子の判断能力なんてそのくらいだという意見もある。子供が仕出かすことなんて、殆どが理解不能だからね。
でも、この事件の一番の要因は、ローズちゃんが人を求めないことにある。なぜなら、それは今もだから。大きくなっても、全然他人を頼ろうとしない。出来ると思うことは全部自分でやろうとする。自分を、一番に信用しているんだろうね。
…でもさ、僕は思うんだよね。人を頼らないってのは、強いこととイコールなのかな、ってさ。
自信は…力にもなるし、時として死角にもなりうるから。…まあ頼られないのは僕達の力量不足もあるんだろうけど。」
オスカーが目線を下に落とし、弧を描くグラスの縁を指でなぞった。
「うーん………でもまあ、いざという時に頼られなくても、信用されてるってことに変わりはないんだからいいんじゃないですか?別にそれで」
「ノア君…君は話を聞いていたかい?
それだけじゃだめなんだよ。頼られたいんだよ、俺は、俺たちは。何かあったりする前に。守ってあげたいんだよ。」
「…………あれですね。オスカーさんは、もっとローズのことを信用しないとですね。
大丈夫ですよ、あんなに豪快で握力強い奴、そう簡単に死ぬわけないです。年寄りになっても、片手で果物絞ってガブガブ飲んでます、多分。」
「………ふっ、はっはは」
オスカーが、目頭を押さえながら天を仰いだ。
「うん…………確かに言われてみれば、それもそうかもしれない。僕は不安が先立って、ローズちゃんを信じてみようとしてこなかったね。」
「…あ、なんかすいません、説教したみたいになっちゃって」
「え説教だったの?」
「いやいやいや、違う。違います」
「ははは、冗談だよ。説教だなんて思っちゃいないよ。
ただなんか思いがけず沁みちゃったんだ、その言葉が。」
オスカーが、グラスに残る少量の酒を飲み干した。
「…いやあ、こうして話が出来てよかった。
どんな子かなーって思ってたけど、あれだね、君は人が好きなんだね。」
「…俺が…??いやいや、俺そんな良い奴じゃないです。嫌いな奴だっているし」
「そういうことじゃあないんだよ」
「じゃあどういうことですか…」
「そのうち分かるさ」
トーンを落としたオスカーの言い草に、ノアはなぜだか安易な発言をしてはいけないような心地になり、押し黙った。
オスカーは、頬髭を触りながら空になったグラスの底を見つめている。
「…ここを出てく気は無いみたいだけど、僕は思うんだよね。ローズちゃんには、もっと輝ける場所があるんじゃないかって。もっと広い世界を見て欲しいって……そう思ってしまうんだよ。」
「そんな話を、なんで俺に?」
「……なんとなくだよ。」
鼻をすうっと通り抜ける湿った早朝の空気が、胸を満たしていく。
ノアは欠伸を噛み殺しながら、出荷予定の牧場の荷物を運び入れていた。この旅のメインはあくまで納品が目的で、送迎はそのついでなのだという。荷物を送り届ける村を経由していくため、ノアの目的の町へ着くのには通常より二日かかる計算だ。
幌がかかった荷台に積み上がる荷物を見て、ノアは腰に手を当てた。この幌馬車は牧場で一番大きいものだとオスカーは言っていた。それを聞かされた時は納品目的だと知らされる前だったので、ノアは内心この部屋のようなスペースで道中どう過ごすか胸を膨らませていたのだが、それもぬか喜びに終わった。
不意に、肩に大きい手が乗った。隣を見上げれば、納品リストの項目がずらりと並ぶ紙をひらひらとさせて、男がノアの方に寄りかかっていた。
「ありがとな、助かったよ。あとは俺らの仕事なんで、兄ちゃんは自分の荷物取りに行ってきな」
「お。じゃあ、あとはよろしくお願いします」
何歩か歩いたところで、ノアがふと足を止めた。
「出るのあと何分後でしたっけ!?」
「あと30分だ!」
ノアの声を張った問いかけに、相変わらずの声量で答えが返ってきた。
「りょうかい!」
ノアは口の両端を上げてから、気持ち急ぎ足で宿舎の方へ向かっていった。
世話になると言ってもたった二日だったため、さらっとした別れになるのかと思いきや、意外にも牧場の門近くにはわらわらと人の群れが出来上がっていた。集まった人達は皆この二日間でよく見知った顔ぶれで、ノアは別れの時だというのに少しの安心感を抱いた。その中にはオスカーも、クラークも、そしてローズの姿もあった。白み始めた空に溶け込むように、色素の薄い髪を靡かせているローズは、ガタイのいい男たちに紛れていてもなお、一点の輝きを放っていた。
「じゃあな、気ぃつけろよ」
よく食堂で一緒になっていた男が歩み寄り、ノアへと手を差し出した。
「おう、世話んなりました」
ノアもそれに応え、強く手を握る。
「元気でなー」「頑張れよ」と近くで見送る男達から矢継ぎ早に声が飛んでくる。ノアはそれを見て、笑いながら軽く頭を下げた。
「ありがとうございました」と一言添えて、ノアは荷物で窮屈になった荷台に乗り込もうと、背中を向けた時だった。
パシっと誰かがノアの腕を掴んだ。
見れば、ローズが目を少し伏せながら、ぐぐぐっとノアの腕に力を込めていた。
「え?どうした」
「……えっとーー…」
「…………
まさかあれか、パン焼けるやつを逃してたまるか、って思ってんな??」
「い、いや〜〜〜…?」
ローズがあからさまに顔を逸らす。
「やっぱそうじゃねえか!大丈夫だよ、クラークさんもう俺と同じくらい作れんだから、作ってもらえよな」
「うーん……」
ノアが目を見て言葉をかけても、ぶすくれたままどこか煮え切らない返事である。
様子がおかしいローズの動きに、ノアは腕を掴まれたまま周囲に懇願の視線を送る。
だが視線の先の男たちもこれには予想外のようで、周りの空気がざわざわと変容してくる。
一体どうしたというのか。血管が浮き出した自分の手を見てやや焦りつつ、ノアがローズに疑問をなげかけようと、口を開いた時だった。
「行ってきたらいい。」
ざわめく男たちの中から、通った声がした。オスカーの声だった。ここにいる者全員の視線が、一点に会する。
「えっ」
素っ頓狂なローズの声色が、一瞬にして静まり返った空気を壊した。
「一緒に行きたいんだろう?行ってきな、ローズちゃん。
その代わり、また顔見せに来るんだよ。」
ローズは口を閉じたまま、大きな目をさらに大きくして、オスカーを見つめている。
すると間もなくして、男達の方から怒気を帯びた声が続々と噴出した。
「おいおい何馬鹿げたこと言ってんだ!」
「オスカーお前頭でも打ったんじゃねえのか?」
「説明も無しに突然んなこと言われたって分かるわけねえだろ!」
「ローズも何してんだ!早く手離してやれ、仕事が遅れんだろ!?」
その荒ぶった声を抑えるように、オスカーは状況に反した呑気な声でなだめる。
「まあまあ、ローズちゃんも女の子なんだし、こんなむさ苦しい所にずっといるよりもっと新しいところにいたほうが良いでしょ?
仕事はまあ…俺たちがうんと働けばいいだけのことだし。
それに、みんな薄々分かっていたことだろう?いつまでもこうしてローズちゃんと一緒に働くのが続くわけじゃないってこと。どこかで必ず別れは来る。いつか来る別れが、今来ただけ。そう思えばいい。
悲しんだり、しんみりした別れになるのは、僕らとローズちゃんには似合わないよ。このくらい唐突で、あっさりしてるくらいが丁度いい。そう思わないかい?」
「だからってな…」「にしたって」「はぁ」「うーん…」
ため息混じりに、各々が反応する。その時だった。
「ローズはどうしたいんだ」
いかつい声が、場を鎮めた。
一日目の屋舎で、ローズに仕事しろと怒鳴っていた男だ。責任感の強さが、眉と目つきに濃く現れている。
ローズはそれを受けしばし考え込むと、やがて口を開いた。
「…ノアについてったら、まだ食べたことない色んな美味しいものが沢山食べれるんだよね?」
「いや、うーん…そうだね、ノア君の行くところにもよると思うけど」
「じゃあ行く!!行きます!!行かせてください!!お願いします!」
オスカーの応えに、ローズが食い気味で告げる。男共のいる方を、ノアの腕を強く握ったまま凛々しく見つめ返していた。
ノアは、食い物が目的かい、と若干引きつった顔になる。
「ぶはっ、お前はほんとうに変わんねぇな。こんな時まで食い物の話かい」
一人吹き出したのを皮切りに、さっきまでの張り詰めた空気とは打って変わって、笑い声が響き渡った。ノアもなんだか肩の力がぷすぷすと抜けていく。
ローズもいつものあっけらかんとした表情に戻り、にかっと笑っていた。
周囲は段々と「まったくしょうがねえ奴だ」「まあローズだしな」「許してやるか」と受け入れモードになりつつある。
それを察してか、オスカーがノアの方を向いて語りかけた。
「じゃあそういうことだから、ノア君。ローズをひとつよろしく頼むよ。」
「えっ…あ、はい」
突然オスカーに話を振られ、すっかり油断していたノアは、思っていたよりも嫌そうな低い声を出してしまい、慌てて言い直した。
てっきりローズは最初の道中だけついて来るのだと思っていたのだが、これだとまるで、ずっと一緒に行動してくれと頼まれているようじゃないか。
え…違うよな?俺の思い違いだよな…?とノアは疑心暗鬼になりながら、眉根を寄せた。
「なんだいノア君、ローズに何か不満でも?」
「いやいやいや、なんでもないです」
凄みを含んだオスカーの言い方に、ノアは咄嗟に手をブンブン降って答える。オスカーの背後から、なんだか睨みをきかせた視線がズサズサとノアに突き刺さる。さっきまであれほどやいのやいの言っていたのに、男達はもうローズの肩を持つ気だ。女扱いせず、いくら男と同じように接しているからといって、所詮は皆にとっての可愛い一人娘なのだ。手放したくないという想いも、 先を思って心配する想いも、ノアは十二分に理解出来た。どうしてそれを自分に任せるのか、という一点を除いては。
ローズが一言二言男たちの方で話しているのをよそ目に、ノアは荷台に乗り込んだ。少しして、満ち足りた表情を浮かべたローズがそのあとに続いた。
肩を並べて同じ場所に座り込めば、すぐ隣に感じる体温に急に現実味が増してきて、ノアは頭を抱えたくなった。
まじか…俺これからこいつとずっと行動すんのか……いやいやいや、そもそもなんでこんなことに?
早すぎる展開にノアはまだ状況が飲み込めていないのだが、そんなことはつゆ知らず、ローズと男たちはもうすっかり憂うさなど晴れ切ったというような表情で、別れの言葉を交わしあっている。
指示を出された馬が歩き出し、止まっていた荷台が左右に動く。
「ローズちゃん、これ、受け取りな…!」
ちょうど車輪が半回転したタイミングで、オスカーが鞄のようなものをローズに向かって思い切り振り投げた。ローズはパシッと気持ちの良い音を立て、それを確実に受け取った。
「ローズ!!必ずまた戻ってこいよ!!!」
男の低くよく通る声が、二人の耳に鮮明に届く。
「うん!!」
ローズは不安定な足場から立ち上がって、親指を突き上げた。
「ノア!!!何かあったらローズちゃんに守ってもらえよ!」
また向こうから、声が届く。
「うっせえ!余計なお世話だわ!」
ノアはジト目になって、すぐさま言い返した。
男たちの低く弾けたような笑い声が、辺り一帯に響いた。
その笑い声を聞きながら、自分はなんだかとんでもない承諾をしてしまったんじゃ、と我に返ったが、それはもう後の祭りであった。
「食費が浮くってのも、寂しいもんだなあ」
調理師の制服を着た若い男が、思わずといった様子で言葉を零した。
皆、二人の姿が見えなくなっても、ただその先を見つめ続けていた。言いようのない喪失感に、うまく気持ちが切り替えられないでいた。いつの時代も、大人は成長した子供に置いていかれる側である。無事を祈って、帰りをただ待つしかない。
一日の始まりの冷えた空気と今現在の心情が妙に合っているのがなんだかおかしく思え、オスカーは苦笑した。
「あーーー、寒いね」
オスカーが鼻をすするのを皮切りに、周りから続々と鼻をすする音が聞こえてくる。
クラークが、オスカーの側へそっと近づいた。
「…しばらくは、作り過ぎてしまいそうです。」
「……そうだねぇ」
オスカーが先を見つめながら、しんみりと、空っぽな返事をした。
出荷用の荷物に挟まれて、二人はどうすることも出来ない激しい揺れに、身を任せていた。今はちょうど砂利道を通っているのか、縦に小刻みに揺すられている。
「わ、わ、わ、わ、声が、が、ふ、ふる、え、てる」
ローズがノアの方を見ながら真面目な顔してわざと大きめの声を出す。
それを受けて、ノアも同じように乗っかった。
「あ、あああ、あ、ああ、あ、あ、あ、ふ、る、え、る、る」
「あはは、何言ってんのか分かんない」と笑うローズの声も震えていて、二人ともよく分からない状況になっている。
どんどん森の中を進む馬車は、とうとう凹凸が激しい斜面に差し掛かった。
「う、う、わ、わ、わわわ、わ、こ、ここ、す、っご、ご、ごいね」
「な、な、な、なな、な、なん、な、ん、だ、こ、こ、や、べ、べべ、べ、べえ、え、えな」
二人して自分の声に夢中になっていると、途中大きな揺れで荷物が大きく跳ねた。ノアは立ち上がって素早く押さえ付ける。
「お、お、おおお、お、おお、」
ローズがお見事、と親指を突き立てて伝えてくる。
ノアは幾分か疲れた様子で、ローズの方を見た。
「い、い、い、つ、つま、ま、で、つ、づ、く、の、こ、れ」
振動するノアの声を聞いて、ローズが幌の隙間から顔を覗かせる。
「ま、だ、だ、っ、ぽ、い」
ローズの言葉を読み取って、ノアはあからさまに脱力した様子を見せた。
森を抜けて、ようやっと平坦な道になった。今は二人して胡座をかきながら、先程ローズに投げられた鞄の中身を見ているところだった。
「お金とー、…これは宝石?」
ローズがだらんと伸びた革製の何かを手に取った。それはちょうど真ん中に飾り付けられていて、キラキラと輝きを放っていた。
「最後に渡すくらいだから、きっと本物なんじゃねえの」
「うちにもこんなのあったんだ、全然知らなかった。」
「多分オスカーさんが大事にとっておいてたんだよ。ローズがいつか出ていくときにって。」
無色透明のその大ぶりの宝石は、澄んだ青空の色を取り込んで、光り輝いている。宝石近くを握ったローズの手に、散らばった光の煌めきが映る。
「これ、どうするの?」
「ベルトだろー?腰に巻くんだよ、こうやって。」
ノアがベルトをつける振りをしてみせる。
ローズは膝で上体を起こし、同じようにおもむろに腰につけ始めた。
「こう?」
ローズが腰に手を当てて、首を傾げてみせる。肩に乗っていた髪が、さらさらと下へ滑り落ちた。
ウエストの中心にて燦めく宝石は光の加減や角度によって多彩な表情を魅せる、壮麗で精巧な造りであった。
中心で爪留めされたその表面はドーム型に盛り上がるようにカッティングが施されていて、周りには小ぶりな宝石が透明な花弁のように、一寸の狂いもなく美しく広がっていた。まさに満開に咲き誇る花弁。他のどの花とも比べられない、自分だけの色を主張する自信が溢れ出ていた。陽を受けて、その内側に秘めている眩いほどのエネルギーを雄弁に語る。
ローズが現在着用する、首元が直線的に開いたネックラインの白のトップスに、ハイウエストでつややかな黒のアンクル丈までのワイドパンツ、というモノトーンなスタイルが、宝石の美しさを何倍も引き立たせている。
他の持ち主がローズ以外に考えられないほどに似合っていた。
ノアは一瞬これを選んだオスカーの顔が過ぎり、身震いした。
「うん……凄い…」
「へへっ、ありがとう」
この場にいないオスカーに向けて漏らした言葉を、ローズは何の疑問も抱かず都合良く受け取った。
「こんな高そうなの、よくうちにあったね。」
ローズは、見るからにご機嫌なようだった。
「…食べ物に困ったらこれを売れってことかな」
「それは違うと思うぞ」
恐らく冗談では言っていないローズのその言葉に、ノアは間髪入れずに横槍を入れた。
先はまだまだ長い。
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