ep.9

 



 影が最も短くなる時間。日差しは眩いほどの強さを放ち、冷ややかな大気が肌を撫でていく。


 密度の低くなった森の真ん中に、少年はいた。陽光に照らされた髪は、透明度を増している。


 今はちょうどお昼時。山道から外れた斜面に腰掛け、サンドイッチを頬張っているところだった。大きな口で思いきりかぶり付けば、両指で抑えているにも関わらず、たちまち具材が飛び出していく。同時にパンくずもぽろぽろと落ちていった。宙吊り状態にあっていた具材達は、最後まで落ちることなく、器用に口に運ばれた。


 全て食べ終え、ノアはぼんやりと川の流れを見つめていた。

 目先には澄んだ水の浅瀬が流れており、辺り一帯はせせらぎの音が響く。柔らかく波打つ水は、透明な岩肌のよう。無音ではない静けさは、人の心に安寧をもたらす。


 このひと月、常に何かに追われていた。終わらぬ修復作業、村の住人の手当て、パートーナーを失った住人宅への見回り、エリゼの分までこなす家事。全てを置いて、一人になった。気がかりが少しも無いと言えば嘘になるが、背中に残っている力強い手の感覚が、後ろを振り返るなと諭すようで、心を軽くさせていた。


 下草の生えた地面に手をついて、重い息を吐く。頭の中でぐるぐると渦巻いて溜まっていたものを少し吐き出せたような、爽快感が走った。

 まだ息が白くなるには少し早い。すうっとした冷たい空気は、気持ちを新たにさせる力を持っている。


 久しぶりの心からの休息に、ノアのまぶたは段々と重くなっていく。睡眠不足が続いていたことも手伝い、意識が遠のきかける。意識を手放したい、手放せない、その駆け引きをしながら、うつらうつらとしている時だった。



 ガガガガガッッ



 突然の鼓膜を突き刺すような激しい音に、ノアの肩がビクつく。少し遅れて振り返ったその光景に、目を疑った。


 目前に馬車の荷台が襲いかかって来ていた。何かの拍子に外れたらしいその大きな荷台は、この急な坂道で助走をつけ、けたたましい音とともにノアの方へと迫って来る。おまけに重量のある輸送缶をいくつも乗せたままである。逃げる隙すら与えない出来事にノアの身体は後ろに傾き、右腕で反射的に額を覆っていた。

 荷台が小石の段差で跳ね、飛びかかる。


 来たる衝撃に身構えていたノアのその瞳に、影が映った。



 その姿は、突然現れた。



 横から凄まじい速さで現れた人物がノアの前で急停止し、傾く荷台を素早く掴んだ。その足はスピードを持て余したまま弧を描くように滑り、大量の砂ぼこりを舞い上がらせた。人ひとりでは到底支え切れない重量の荷台を、一人の少女が受け止めていた。


 重みの負荷で引き下がったその足先が、地面に荒々しい疵を付ける。少女は歯を食いしばり、つま先に角度を付けると、喉から絞り出すような低い声と共に押し上げた。浮いた荷台の車輪が、地面に着地する。


「だ、大丈夫!?!」


 荷台を支えながら、少女がそう言って振り返った。荷台の周りに次々と屈強な肉体を持った男達が集まり、その内の一人が声を荒らげて指示を出した。荷台が大柄の男数人に支えられ、安定した場所へ運ばれていく。


 尻もちをつきながら一部始終を見上げていたノアに、少女が手を伸ばす。


「お、おう」


 細く白い腕に引き上げられ、ノアは礼を言って立ち上がろうとした。が、予想していたよりも遥かに引く力が強かったのか、危うく前に転倒しかけていた。


「おうわっ」


 冷や汗が一筋額に流れたまま、ノアが少女を見上げた。


「ちょ、力強すぎないか」


「あは、ごめんごめん。加減とか分かんなくて」



 白い歯を見せて、少女がにっと笑った。


 ノアを映し出すその瞳は、まるで純度の高い蜂蜜を垂らしたような、綺麗な山吹色に染まっていた。ぱっと咲く虹彩は今にも吸い込まれそうな輝きを放っている。大きな目をふち取る睫毛は緻密に計算されたかのように美しく並び、目尻に向かうほど先の長さを伸ばしていた。


 ミルクを多めに溶かしたようなホワイトアッシュの細い髪が、さらさらとそよ風になびく。毛先がくるんと内側を向いた、艶やかでふんわりとしたミディアムロングのその髪は、色味も相まって作り物めいた印象を抱かせていた。


 存在感を放つ端麗な容姿で、屈託なく笑うその少女はまさに、太陽が味方している。そんな表現が似合う少女だった。




「え、何。」


 鼻をすんすんさせた少女が、ノアの顔前まで迫っていた。間髪入れずに腕をガシッと掴み、目を爛々と輝かせた。


「………!匂う…!」


 少女が急に距離を縮める。突然のことに呆気に取られていたノアが、一拍置いて反応した。


「………あ、俺いま汗かいて「違う違う…!この匂い、パンの匂い、だよね!?それも焼きたての…!!!つくれるの!?」


 肌に食い込むほど力強く掴んだ少女が、興奮気味にノアの腕をブンブンと上下に振る。


 話の流れがうまく掴めず、周りに疑問符を浮かべたまま頷くノアに、少女は弾けるように顔を輝かせた。


「私、パンがすっごく好きでさ…!ね、うちに作りに来てよ。うち牧場やってるんだ!」


「いやいやいや、悪いけど俺いま」


 ぼとぼとぼとぼと



 聞き馴染みのないねっとりとした音に、言葉を繋ぎかけたまま音のする方を見たノアは、硬直した。


 すぐ真横で、こちらに尻を向けた馬が尻尾を揺らしていたのだった。尻尾を辿って地面を見れば、溜まったフンによる小さな山がこんもりと出来ている。振られた尻尾から飛んでくる馬糞が、二人の衣服に染みを作る。


 少女に腕を取られたまま、ノアは意味もなく瞬きを繰り返した。


「……………え?」


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