ep.8
朝が来た。外に出て、大きく背伸びをする。
ひんやりとした、純な空気が鼻の奥を通り抜ける。雲の隙間から差し込む柔らかい陽光に包まれて、目に飛び込んでくる緑に思わず目を細めた。
どこかで朝の知らせを伝える鳥の鳴き声も、朝露が葉の表面で弾かれ滑り落ちる音も、自然の色を鮮やかに色濃く照らす朝日も、みんなこれで最後だ。漂う、澄み切った空気を身体中に染み渡らせるように思い切り吸い込んで、草が生い茂る地面を、さくさくという音を立てながら歩いていった。
家前の手押しポンプから生活水を汲み上げ、木製の水桶に溜めていく。勢い余る水圧で、側板に叩き付けられた水が弾かれ、水飛沫を上げる。粒状に飛び散る水が日光に照らされて、目を凝らしてようやく見える程のうっすらとした七色の光彩を放つ。
ある程度水が溜まれば、順番待ちしているかのように並ぶ空の水桶の列に、対称的になるように置いていく。持ち上げて、雑に降ろせば、中の水がたぷんと音を立てて波立つ。
毎日繰り返したこの作業も、終わりがきたと思えば寂しさを感じてしまう。水の入った水桶が空の水桶の数を追い越したのを見つめながら、ノアは淡々と作業をこなしていった。
ひと月前までは、この作業を日に幾度となく繰り返していた。それは、庭があったから。でも今はそれがない。
日課の水やりが身体に染み付き過ぎていたのか、ひと月経った今でも変な感じがする。頭でちゃんと理解しているのに、何かをずっと忘れているような心地がまとわりつく。与えられた役割の存在というのは、自分の中で勝手に肥大化して、いつの間にか自分を形作るひとつになっていく。そう村の誰かが雑談の一場面で言っていたのを思い出しながら、両手に水桶を持ち家の中へと向かって行った。
水が必要になる各場所に水桶を運んでいき、一番最後はキッチンの空いたスペースに置いた。袖を捲り、さっそく手を洗うのに水を使う。爪の中まで念入りに洗ってから、作業台の上に散らかったままのものを手際良く片付けていく。ある程度のスペースが確保されれば、背後に目を向ける。
腰までの高さの戸棚の上に、陶器のミキシングボウルが三つ並んでいる。厚く畳んだ布で蓋され、中身は濃い影の中に隠されていた。
そのうちの一つが、日の当たらない部屋の隅から作業台の中央へと移動する。ボウルは口縁が広く作られており、外側には飴色の釉薬が掛かっている。浮かび上がる単調で大胆なデザインは、どこか懐かしさを感じさせる。
ノアが手をかけると、布に付くすれすれまで膨らんだパン生地が、窓からの陽光を浴びた。一晩かけて発酵された生地は、気泡が目立ちぼこぼことしている。
強力粉が降りかかったまな板の上で、生地の入ったボウルを逆さまにする。粘着力の譲らない抵抗を、重力が辛抱強く引っ張り、鈍い音を立てた。落ちた生地の小さな衝撃で粉が舞う。
ふわふわとした弾力のある生地を正方形に広げ、三つ折りにして生地を押さえる。そうして纏めたのを薄く広げ、また折りたたむ…といった同じ作業を繰り返していく。何工程も繰り返していくうちに気泡が細かく分散し、表面が滑らかになってくる。すると手を止め、今度はまるまるとした生地を持ち上げて、強力粉を散らしてあるバヌトンにそっと入れた。その上にまた布を被せ、背後で待っている二つ目のミキシングボウルを作業台の上に置き、また同じことを繰り返していく。
ふたつ目の生地にもまとまりが出れば、二次発酵を終えたひとつ目の生地を取り出して、表面にナイフでクープを入れる。ナイフの刃先に、粉がまとわりつく。
それを予め予熱しておいた小さな石窯で焼いていく。側に積まれた薪を火元に投げ込むと、パチパチとした音をはためかせた。石窯の中で高温にさらされた生地は、徐々に膨らみを増していく。
部屋中にふんわりと立ち込めるパンの香りが、窓の外を飛び出して、その幸せな匂いを遠くまで運ぶ。
色はないのに、ぬくもりと多幸感と甘く包み込むようなその安心感が、漂う空気に乳白色を思わせる。
三つの作業を並行で進めていた手がようやく休まったのは、短針が午前9時を指そうとしていた頃だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ドアを開けて、一歩踏み出せば、どこまでも続く壮大な青空が先の道を照らす。早朝より強まった陽射しが、露を含んだ葉を輝かせている。人間よりも遥かにながく逞しい自然のその寿命は、刹那的に生きる人間には出せない堂々とした佇まいを漂わす。
見渡す限りの緑に見守られ、ノアは門の近くまで真っ直ぐに進んだ。ふと、足が止まる。
目線の先に、見慣れた背中があった。
門の手前で、筋肉質な男──メイソンが筋肉をほぐすように、ストレッチを入念に行っているところだった。相変わらず作り込まれている。
背後の気配にとっくに気付いているだろうに、ノアが足を止めたタイミングで丁度よく振り返った。
「最後、」
空気を裂くようなすっとした声が通った。ノアの言葉の行方をメイソンはじっと見つめる。
「最後まで、結局一回も勝てなかった。
…だから、期待して待っててよ。もっといい勝負が出来るくらい、強くなって戻ってくるから。
次会った時は、絶対負かしてやるから。
…………俺、毎日手合わせすんの、すっげえ楽しかった。
ここで育ってよかったよ。」
「……………ああ。」
鼻で笑って、重く瞬きをした。
口角を少し上げながら、ノアを見据える。
「ノアお前、どっかで野垂れ死んだりすんじゃねえぞ。骨の無い葬式は御免だからな。」
「…っ、最後になんてこと言うんだよ!
………おじさんだって、あんま無茶なことすんなよ!看てくれるやつ居ないんだからさ!
あ、あと、パン作っといたから、いつものやつ。
テーブルの上置いてあるから、あとで食って。久しぶりにやったから配合ミスってるかもしんねぇけど!」
「…ああ。」
「んで……」
言いたい事は山ほどあるのに、言葉にするのは違う気がして押し留める。男同士のこういう空気は、照れくさいを通り越して気まず過ぎる。発した言葉の続きを早く見つけなければ、地獄の空気がやって来るのを瞬時に察して、ノアは頭をフル回転させた。
そして落ち着かない空気感の中、じゃあ、と言いかけたのを、突然高い声が遮った。
「おはようさん、今日もいい天気ね」
声の主は、村の住民であるご婦人だった。後に続けて、これまたもう一人のご婦人が「おはよう」と挨拶をした。ふたりは歳が近く、仲が良いことで知られている。
「朝早くからごめんさいね、ちょっと急ぎで頼みたいことがあって来たのよ。
この間おふたりさんに修理してもらったところがあるでしょう?その板がちょっと外れかけてるの。出来れば今日中に直して欲しいんだけど、お願いできるかしら」
二人の視線が同時に、荷物を背負ったノアの方へと突き刺さっていた。
「あらやだ、どこか出掛ける用事でもあった?それなら帰ってきてからでも全然いいんだけど。」
「あ……いや俺、」
声の続きを、大きい背中が遮った。
「言ってなかったが、こいつは今日、村を出る。用があるなら俺に言え。」
メイソンから告げられたその言葉に、一拍置いてから、つんざくような甲高い声が重なった。空にまで響いたその声に、近くの鳥が驚いて一斉に飛び立った。
動揺で、一人は目を見開きながら大きく開いた口を手で隠し、もう一人の女性は血相を変え、すぐさまノアの前に立ち塞がると、ノアの両腕をがっしりと掴んで捲し立てた。
「ちょっとまってよノアちゃん。どういうつもり。これからでしょう?これから全員で協力し合って、元の生活に戻れるように頑張って行くんじゃない。これだけ被害を受けて、何の支援もない、名の知られてない小さな村には、あなたのような若い力が必要なのよ。今が、大事な時なの。だから出ていくなんて言わないで…!せめて、せめてもう少しだけここに居てちょうだい。あなたがいないと、村は成り立たなくなる。」
勢いに気圧され、ノアの足が後ろへ引き下がる。
必死に訴えかけるその姿を正面から受け止め、ノアは、間違えた、と思った。
…言えなかったのは、村の人らに悪いから?申し訳ないから?そんなの、ただの建前だ。
こうやって人に言われて自分の意思がぐらつくのが嫌だった。縋り付くように頼まれれば、きっと流される。人に言わせなくなくて、聞きたくなくて、言えなかった。
俺は……間違った選択をしたのかもしれない。重さを、測り間違えていた。
失ったものを取り返す事はできない。突然奪われた日常は、もう戻ってこない。
俺が塔に行くことは、悲しみに暮れる人たちを見捨ててまで、本当にやりたいことなのか?
この人の言うように、今すぐじゃなくても別にいいじゃないか。
ノアがこぶしを力強く握り締め、決意を言葉にしようとした、その時。
メイソンが、ノアの腕を掴む女性の手を引き剥がした。
「こいつにも、こいつの未来がある。それを年寄りが潰してどうする。」
「っ、年寄りって………。じゃあ、このまま行かせていいの?
私だってこんなこと言いたくないわ。でも村の現状をよく見てみなさいよ。分かるでしょう?若い労力が一人減って、村がどうなるか。この子はまだ判断力が足りてない子供よ。そこにきちんと正解を示してあげることが、大人の役目なんじゃないの?」
「…こんなガキひとりいなくなったところで村が機能しないんじゃあ、とっくの昔に廃れとるわ。何をごちゃごちゃと。自分らがこいつの分まで働けばいいだけの話だろ。」
メイソンはそう切り捨てると、狼狽える女性を尻目にノアの方まで近づき、ノアの背中を力の限り押し出した。
「行ってこい」
止まっていたノアの足が、前へと一歩、力強く踏み込んだ。
自分の中にずっとあった重たい岩が、動いた気がした。
◇◆◇◆◇◆◇◆
家の外の窓際で、メイソンが腕を組んで壁にもたれ掛かっていた。強い体幹がその姿を様にしている。その目線はやや下向きだが、憂いはない、力のある眼差しだった。
開けた窓から、家の内側に光が差し込んでいる。ベッドの上で、身体を起こしたエリゼが話しかけた。
「行ってしまったね。」
「………」
「……結局最後まで、私達に涙を見せなかったわね。
…………赤ちゃんの頃から泣かないなんて、聞いたことがない。
…きっと、神様からの贈り物だったんだわ。」
「…あいつは……ただの人間だ。」
「……ふふ。それもそうね。
はーあ、しばらくは慣れない日が続きそうだわ。」
失った右足を見つめながら、エリゼがそっと呟いた。
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