ep.7
冷気を含んだ風が、家周りを吹き抜けていく。悲しげに響くその音は、今の季節特有の、しんとした空気感を巧みに表現している。
ここでは毎年この季節になると、冬に備えるための作業が日々を切迫する。落葉を毎日かき集め腐葉土として蓄えを作り、用土の凍結を防ぐために樹皮を敷いていき、さらには薔薇の剪定や誘引を始めていかなければならない。
例年であればやる事が山積みの時期だというのに、庭に人の影は少しも見えていない。
あれだけ賑わいを見せていた花は全て散り、かろうじて残っている花の残骸や低木や生垣は、地べたに這い蹲っているかのような、惨たらしく散々な有り様だった。
華やかな色づかいで象徴的だった広い庭が、ただ空間を持て余すだけの殺風景な場所と化していた。
この庭の持ち主の心情を代弁しているかのように、枯れ萎んだ蕾が重力に負け、地上に落ちていく。
人目を引くような色濃く彩やかな外観と、自然の中に溶け込む自然的な美しさを両立せていたこの敷地が、まるで森から弾かれ、孤立しているかのようだった。
あれからひと月が経った。一変したのは庭だけではない。中心に構える小さな家は、半分以上が真新しい木材で補強され、見る者にちぐはぐな印象を抱かせていた。象徴的なこじんまりとした小ささが、もの寂しさをより際立たせている。
そんな家の窓際で、女性がベッドから身体を起こして、外の光景を見つめていた。
扉をノックする音が聞こえて、女性が振り返る。
「エリゼさん、入ります」
「ええ」
返事が聞こえてからドアノブに手を伸ばした少年が、少し伏せ目がちに部屋へと足を踏み入れた。ベッドの傍まで近づき、両膝を床につければ、二人の目線の高さが合う。
「どうしたの」
少年の下向きに揺れ動く瞳から、ためらいが漏れている。エリゼは少し微笑んでから、言葉を待った。
「……少し話を、聞いてもらっていいですか。」
「ええ、もちろん」
「………あれからずっと、考えてて…………。
………俺はこのまま、ここに居続けるのが、あってんのかなって。
……俺、ここに居ればいつか、おじさんとかエリゼさんみたいに、得意な事とか熱中できる事、できると思ってた。村の皆んなみたいに、職に出来るくらいのものが見つかると思ってた。
……いつか、迎えが来んじゃねえのかなって、ずっと思ってた。
でも、……なんか…………なんつーか……待ってるだけじゃ、そりゃ何も分かんねえよなって。
俺、ここにいたら、自分のこと何も知らないままになる。もっと、知る努力をしたい。
なんで俺はここにいるのか、何のために生まれてきたのか、知りたい。
……ただでさえ人足りねぇのにこんな状況で、絶対今言うべきじゃないってのは分かってるんですけど、………」
次の言葉を発しようと口をはくはくとさせて、真っ直ぐな目で訴えかける。無意識にベッドのシーツを皺になるほど握り締め、擦れた音を手の中に閉じ込めていた。
「……俺、この家出て、あの塔まで自分の足で目指したい。世の中を、もっと知って、分かりたい。自分のことを。」
閉め切った部屋に、静寂が満ちる。
先に口を切ったのは、エリゼだった。
「うん。そうね…………。
…あの人と………ずっと前から決めていたことがあるの。
あなたが家を出たいと言った時は、どんな時でも送り出してあげようって。
反対なんてしないわ。あなたが自分で決めた事だもの。やりたいように、後悔のないように。好きにやっていきなさい。」
ノアを見つめていたエリゼの目線が、布団に隠れる脚へとうつろう。自分の脚元を見つめ、微笑を浮かべるエリゼに、ノアもつられてその目線の先を無意識に辿るが、視界に入った刹那、咄嗟に目を逸らした。
まるで、見ないようにしていたものが、現実という逃げられない荷物を引っ提げて、目の前に現れた時のような、そんな隠しきれない動揺がノアの揺れる瞳からこもれ出る。
「……もう、スイセンが咲く頃ね。」
雑草が伸び伸びと生えわたる庭を切り取った窓の、ずっと遠くの方を見つめながら、エリゼが語りかけた。
「スイセンは……球根を植えてからの若く青いうちは、まっすぐ育っていくけど、段々と成長して蕾をつけて、花が開く頃には重みで頭が垂れ下がってくるでしょう。
それは人も同じよ。持っている花が大きければ、自然と謙虚になる。
成長して、どれだけものを知っていても、どれだけ立派になっても、傲慢になってはいけないよ。
人は、人なしには生きていけないのだから。」
家を出ることは、こうして話を聞く日常が最後になるということ。分かりきっていたはずなのに、いざこうして最後を意識して聞けば、たまらない気持ちになる。聞いたふりして聞き流すこともよくあったノアだが、今回ばかりは、取りこぼさぬよう耳を傾けていた。
「それで……出発は、いつになるの?」
「明日の、朝にしようと思ってます。」
決めたからには、すぐに行ってしまいたかった。でないと、迷いが出そうだった。
あの日、指輪が光ったのをまだ一度も口に出せていない。過疎化が進み人口の少ないこの村で、7人もの人が亡くなった。そのうちの1人は遺体がまだ見つかっていない。過ぎ去った衝撃が残していった跡は、村に大きすぎる損害を与えた。手の付けようがなく、みな途方に暮れている。助け合いながら、その日一日を過ごすのがやっとの生活だ。
かつてない経験で被害を受けたこの惨状、家を出るのが正しい選択なはずがない。そう分かっているのに、日が過ぎていけばいくほどに、ノアの中で塔の存在が増していった。
「すぐじゃない。
荷物は纏めてあるの?それに馬は?あの被害のせいで逃げ出したって聞いたけれど。」
「歩いて行きます。馬は…いたとしても、借りらんねぇ。結局、村の人らに出ること言えなかった。なんか…悪くて。こんだけ世話になったのに、見捨てるみたいで。」
エリゼが布団の上で手を交差しているのを、ぼんやりと見つめていたノアの口から、乾いた笑いが落ちた。
「あと荷物はもう準備してあります。
て言ってもそんなに要らないんで、少ないんですけど」
目を合わせようと、ノアの目線が徐々に上がる。逆光で、少しの影がエリゼに張っている。
「………………って、あ!!」
話の続きを言いかけたノアが、エリゼ越しに見た窓外の光景に突如大きな声を上げた。
「おじさんに頼んだシーツ、干す場所間違ってんじゃん…!!!全然違ぇし!!
エリゼさんすいません、ちょっと外出てきます。」
「え、あ…!!ちょ、っと待って…!!」
ドアの方へと身体を向けかけたノアの手首を、咄嗟にエリゼが掴んだ。
「えっ、どうしたんですか」
「待って。少しだけ待って。渡したいものがあるの。」
そう言ってエリゼはベッドの脚の裏に手を伸ばすと、ごそごそと何かを探る仕草をする。
取り出したものが、ノアの手の中に渡る。
「これ……このカギで、あのチェストの一番下の引き出し開けてもらえる?」
「…はぁ」
それが何を意味するのか、ノアはいまいち掴めていないままにカギを握りしめる。シーツの件が気になる素振りを見せつつも、チェストの方へと近づいていった。
ノアがエリゼの部屋に入ることは滅多にないので、見慣れぬチェストの存在と初めて対峙することになる。
所々ささくれ立った、木製の古いチェストだった。金属の取っ手が各段に付いており、唯一鍵穴の付いた一番下の引き出しだけ、錆が少なかった。
膝を曲げ、鍵穴にカギをさせば、許しを得た証の振動が音と共に指先へと伝わってくる。取っ手に手をかけ引こうとするが、思うように開かない。立て付けが悪いようで、力加減をうまく調整しながらしばし葛藤し、ようやく開くことができた。
「……!開いた!!!……………えっ」
引き出しの中には、この場に似つかわしくない、紙幣と硬貨がいっぱいに詰め込められた袋が並んでいた。生まれて初めて目にするほどの大金だった。
「えっ、これ………」
「あなたがこれまで手伝ってくれた分。……っていっても、それじゃ全然足りないんだけどね。」
エリゼが眉を寄せながら、苦笑を浮かべた。
「いや、いやいいですってこんな……」
「ノア、こういう時はつべこべ言わず受け取るものよ。
生きるだけでどれだけお金がかかると思ってるの。
…………本当は、ケーキを焼いてあげたり、服を新調してあげたり……色々してあげたかったのよ。……こんな足じゃあ何にも出来ないけれど……何か困ったことがあればいつでも手紙をよこしなさい。
いつでもこの家で、待っているから。」
言葉にするのを、ためらいなく。でも、一音一音慎重そうに、今に最適な言葉を選ぶように、自分の気持ちを確かめるように話すその様子を、ノアは一直線に見ていた。
言葉が意味を持った途端、いつもと変わらない凛とした透き通った高い声なのに、不安と寂しさめいたものがぼやけた輪郭のまま居座っていた。言葉では表し尽くせない多くの感情が喉の奥から出ようとするのを唾と共に飲み込み、立ち上がると、頭を下げ、床に唾が飛ぶほどの声量で叫んだ。
「沢山、世話になりました
今まで…ありがとう、ございます
行ってきます」
ノアの視界の端にも映らない、ベッドの上で、エリゼが不揃いな横髪をふんわりと揺らして頷いていた。
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