肩を組んだあの日々を

きさらぎみやび

肩を組んだあの日々を

 キィン、と小気味よい音を立てて白球が空に吸い込まれていく。

 俺はマウンドに突っ立ったまま遥か頭上を飛び越えていくそれを額に手をかざして眺めていた。




「いやあ、無理っしょあれは」


 俺はベンチに戻るなりぐびぐびとビールを喉に流し込み、少しでも涼になればと帽子をうちわ代わりにぱたぱたと仰ぎながら誰にともなくぼやいてみる。業務提携先との交流を兼ねた草野球。トップ同士が野球の話で盛り上がり、鶴の一声で試合が決定された。

 経験者として無理やり呼び出されたはいいものの、メンバーの大半が運動不足で動きは鈍く、すでに試合はぐだぐだだった。


「だいたいこっちはまともな野球歴中学までなんすよ。キャッチャーミットにボールが届くだけで褒めてほしいくらいですよ」

「いやいや、ストライクゾーンぎりぎりのかなりいい球でしたよ。びっくりしました」


 弁護の声は意外な方から聞こえてきた。

 この野球場、日陰のあるベンチがなぜか片方だけなので必然的に両チームとも同じ側に集まっているのだが、先ほどの声は先ほど俺の球を青空に放りあげた当の本人のものである。

 短めに髪を刈り上げて、いかにも好印象な涼しげな見た目の野球青年といった風情で、見るからに経験者とわかる。ベンチに戻るなり缶ビールのプルトップを開けだす俺とはだいぶ印象が違う。


「お、佐藤さん分かってますね。結構いい球放るでしょ、自分」

「田中、お前さっきと言ってることが違わないか?」


 チームメイトとして参加している課長が呆れて言ってくるが、しれっと無視して佐藤さんに話しかける。


「佐藤さんは野球歴どれくらいなんですか」

「高校2年まではやってましたよ。3年に上がる前に怪我でやめちゃったんですけどね」

「…すいません、悪いこと聞いちゃいました?」

「気にしないでください。昔のことなんで」


 そういう割には随分と寂しそうに笑うじゃないですか。

 気にはなったものの、その場ではそれ以上深く踏み込めずに試合に戻らざるを得なかった。


 結局試合は13対15の結果で我がチームの勝利となったが、途中経過はなかなかのぐだぐだっぷりだった。試合はともかく佐藤さんの打席の時だけは俺は全力で投げ込んだのだが、すべて奇麗に打ち返された。



 そのあとは当然打ち上げという流れとなった。せっかくなのでビールジョッキを片手に佐藤さんの隣に座って声をかけてみる。


「どーも、お疲れさまでした」

「いえいえそちらこそお疲れ様です」


 取りあえず二人で乾杯する。昼間から飲んでいるうえに、疲れもあって実はすでに結構酔いが回ってきているのだが、昼間の分は汗で全部流れてしまったということにしてある。


「いやあぐだぐだな試合でしたね」

「まあ確かにそうですね」


 お互いに苦笑い。それでも試合の体を保てたのは佐藤さんの功績が大きいだろう。彼の打席の時だけは、こちらも遠慮なく全力で投球ができた。


「高校まで野球をやられてたんでしたっけ。あ、聞いてもいいです?」

「構いませんよ」

「あのスイングにはビビりましたよ。全然レベルが違うじゃないですか」

「まあこれでもいちおう甲子園経験者なんで」

「甲子園!凄いじゃないですか」

「いや、甲子園っていっても一回戦敗退ですよ。試合後の校歌は歌えずじまいでしたね」


 そう言ってまたもや寂しそうに笑う。こちらとしてはなんとも複雑な気分だった。思わずぽつりと話し出す。


「実はですね、自分の行っていた高校も、甲子園常連校だったんですよ」


 ビールジョッキを傾けながら、佐藤さんが驚いたようにこちらを見て聞いてきた。


「どちらなんですか」

「〇〇高校です」


 こちらもジョッキの残りを飲み干して喉を滑らせ、勢いのままに続ける。


「すぐについていけなくなってやめてしまったクチなんですけどね。だからチームが試合に勝って校歌を歌っているとき、俺なにやってるんだろう、って思ってどうしても歌えませんでした。だから佐藤さん、もっと胸張ってくださいよ。あなたは甲子園のグラウンドに立ったんですから」


 一気に言って、空になったジョッキをテーブルに置く。

 空になったジョッキの代わりに近くにあった別のジョッキを佐藤さんが無言で差し出してくれた。すいません、と言って受け取る。彼も手持ちのジョッキを空にして、新しいものを注文する。

 佐藤さんは黙して語らず、なにか考え込んでいるようだった。


 酒の勢いとはいえ余計なことを言ってしまっただろうか。

 しかしどうしても言わずにはいられなかった。

 自分がたどり着けなかったあのグラウンドに立った人間には、今がどんな形であれ胸を張っていてほしかったのだ。


 結局のところ、どうあがいても俺は野球が好きなことには変わりはないのだ。不真面目を装ってごまかしていたけれど、やめた後もずっと投げ込みしていたからこそ、今日の試合でもまともなピッチングができていたのだと思う。


 店員が新しいジョッキを持ってきた。佐藤さんはそれを受け取って、ごくごくと勢いよく飲んでから口を開いた。


「甲子園の相手校、田中さんの母校でしたよ。年度は違うと思いますけど」

「は?」


 ぽかんと口を開けた俺をみて、佐藤さんがにやりと笑う。


「だからね、くやしくて〇〇高校の校歌覚えてるんですよ、僕。相手校の校歌なのに」

「ええええ!マジですかそれ」

「マジです」


 あまりに悔しかったんでしょうね、大泣きしているさなかに聞こえてきた歌が、今でも耳から離れないんですといって佐藤さんはいかにもおかしそうに笑った。笑っていいのか悪いのか、全くわからなかったけれども、つられて俺もぶはっと噴き出してしまい、さきほど一気にジョッキを空けたせいでいよいよ回ってきた酔いも手伝って、二人して顔を真っ赤にしてくっくっく、と笑いあう。


 ひとしきり笑った後、佐藤さんは俺に提案してきた。


「せっかくですから今から二人で歌いましょうよ、校歌。今日勝ったのは田中さんのチームなんですから」


 こちらの返事も聞かずに佐藤さんは上機嫌で歌いだした。確かに母校の校歌だった。俺も遅れて歌いだす。だんだん楽しくなってきて、途中で俺たちは肩を組んで歌い続けた。


 周りも最初のうちはなんだなんだとざわついていたが、いつの間にか手拍子が始まっていた。



 そうだよ、この感じだ。勝っても負けても全力で白球を追いかけて、肩を組んで喜怒哀楽を共にしたあの日々。


 久しぶりに全力で投げた球を今日は気持ちいいほどに奇麗に打ち返された。試合に勝って、勝負に負けた。


 歯噛みするほどの悔しさと、少しの爽快さが混じったあの感覚。


 今更ながらまた白球を追いかけてもいいかもな、肩を組んで懐かしい歌を歌いながら、そう俺は思っていた。

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