はんだ付けの日 後編
人の手による芸術に。
心打たれたことは幾度もある。
だが。どんな偉大な芸術家だって。
彼らの才能の前に膝を屈することだろう。
太陽と夜が振るう巨大な絵筆は。
世界の全てをキャンバスにして覇を競う。
赤みを帯びた紫。
青みを帯びた紫。
俺の色、私の色が美しいと。
雲を塗り分け、波を塗り分け。
山を塗り分け、岬を塗り分け。
そして空を。
丁度二つに分かつ境界には。
白いキャンバスが剥き出しのまま。
中空に放置されていた。
たった二色で染め上げられた壮大な世界は。
俺の視界ごときに収まり切らず。
きっと、どこまでも果てしなく。
この海の向こうまで続いているのだろう。
……そんな芸術を前にして。
砂浜に腰かけながら。
かつて、小さな凜々花を膝に乗せて。
親父がつぶやいた言葉を思い出す。
心の底、取るに足らないものばかりをしまった白い引き出し。
日に焼けた紙に刻まれた。
古い古い、たった一行の記憶。
『お日様が海に落ちてじゅぼっと消えちゃうから夜になるんだよ』
凜々花の奴。
さっき自慢げに春姫ちゃんに説明してたんだけど。
ほんと責任とれよ、親父。
――空っぽのクーラーボックスは口を開けて、獲物を待つ。
大物狙いの長い竿が、自重にしなって軋みをあげる。
かつての親父のように。
砂浜に、短パン水着一枚で腰かけて。
凜々花の代わりに竿を抱く。
「釣れますか?」
そんな俺の耳に。
鈴を転がしたような声音が届くと。
腰を上げて、竿を腹へ当てて。
黙ったまま、リールを巻き上げる。
足元のクーラーボックス。
その開いたままの蓋に飴色の髪が。
ため息交じりにさらりとかかる。
「釣果、ゼロ……、ね。……なにが釣れるの?」
そして、リールを巻き切った俺は。
エサの付いてない針を見せながら。
獲物の名前を教えてやった。
「舞浜」
そんなネタで、小さな笑みを零した。
夕焼けに真っ赤に染め上げられた美人さん。
俺がこの旅行のために準備しておいた。
唯一のネタで爆笑しやがらねえこいつは。
「…………ふふっ。釣られた……、ね?」
「だったら腹抱えて笑えっての」
ワンピースをたくし上げ。
惜しげもなく足を晒すと。
夕焼けすら弾くほど。
白く輝くその足を。
……クーラーボックスの中に突っ込んだ。
「うはははははははははははは!!!」
ちきしょう。
ほんとこのやろう。
入学してから四か月。
ずーっとこれの繰り返し。
笑いの神を、その美貌でたらしこむ。
舞浜の卑怯な手口に抗って。
俺が必死に、考えに考え抜いたネタを。
お粗末ですねと軽々一蹴する。
「ちきしょう、また負けた。……座れば?」
「うん。……夕日、すごくきれい……、ね?」
綺麗って言いながら。
こっちを見上げる舞浜の視線。
でも。
俺が? なんて野暮な事。
言えない程度には、俺もこの景色に感動してたとこ。
そんな見事な景色を釣りあげるべく。
竿を頭上に大きく構えて何歩か前に進みながら。
……ベールアームを開いて。
ラインを指に引っ掛けて。
上段に振りかぶった竿をフルスイング。
「そいっ!」
竿が頭上を越えた辺り。
ラインを指から離してやれば。
オモリが、エサの付いてない針を連れて。
遥か遥か、ずっと遥か。
赤と青の。
波間にどぼん。
「……よっこらせ」
空のクーラーボックスを挟んで。
舞浜の隣に座りながら。
ベールアームを閉じて。
リールをキリ……、キリ……。
のんびりと巻き上げる。
静かな時間が。
ゆっくり流れて心地いい。
でも、沈黙が随分続いたところで。
なんだかケツが落ち着かなくなった。
そんな、我慢大会に負けた俺が。
選んだ話題は。
「……今夜はゆっくり眠れそうか?」
「う、うん。お化け捕獲装置、セットしたから……、ね?」
「それなら安心だな」
「別荘に戻る途中の道に仕掛けてあるから、入らないでね?」
「入るわけあるか」
小学生ならすっぽり入るかもしれんが。
あるいは、凜々花ならギリ行けるかもしれんが。
「俺の場合、体の半分で限界だろ」
「そのまま扉が閉まると大変。結構バネ強いから……」
「真っ二つ? 種も仕掛けもほんとに無いイリュージョン」
「に、なっちゃう……、ね?」
くすくす笑う舞浜よ。
お前、ホラーはダメだから、あれ作ったんだろ?
スプラッターなら平気なんかい。
「そ、そうだ……。あの……、ね?」
「うん」
「お、お願いごとがあって……」
まだ諦めてなかったのか!?
頑張るなあお前!
何度目のチャレンジだよ!
どうしよう、何をお願いされようが。
面倒でしかないんだが。
昼間のチャレンジの時。
意地悪して黙らせたからな。
無下にするのもしのびねえ。
「あの……」
「……うん」
「た………………、あのね?」
「お、おお」
「えっと…………。た……、その、一緒にバイトして欲し……、い、か、な?」
なんだ、そんなことかよ。
「俺だって一人で知り合いもいないとこに飛び込む勇気ねえっての。こっちからお願いしようと思ってたとこだ」
「ほ、ほんと? 良かった……」
「旅行から帰ってすぐでいいか?」
「うん」
「じゃあ、この間のピザ屋、面接申し込んでおくから」
「あ、ありがと……、ね?」
……お互い。
人間付き合い初心者だから。
助け合わなきゃ何もできん。
舞浜も、そんなことは分かっているだろうに。
下手に出てくれて。
ちょっと助かる。
丁度そんなタイミングで。
地味に巻き続けてた仕掛けが波打ち際から顔を出した。
「……釣れてない……、ね?」
「エサが無いからな」
「もし、釣れたら?」
「そりゃあ、クーラーボックスに入れて……」
「あ。それなら釣れない方がいいかも」
なんでさ。
「我が家の飲み物、入れる方だから……、ね?」
「なるほど、そりゃすまん。うちの方持ってくりゃ良かった」
生臭いコーラはイヤだよな、そりゃ。
DHA入りのトクホマーク付き。
飲んだことねえけど、やっぱ魚臭いのか?
「ねえ、も、もひとつお願いあるんだけど……」
ほんと頑張るね。
今度は何?
「それ、やっても良い?」
「なんだ。お安い御用」
舞浜が、立ち上がりながら出してきた手に。
俺は竿を渡してやったんだが。
「投げ方知ってたのか」
「うん。さっき見たから……」
…………ん?
いやいや、そりゃ無理だろ。
いくら舞浜でも。
一度見ただけでできるもんじゃねえ。
でも、失敗するこいつを見てみたい。
そんな邪念を胸に秘め。
のけぞる体を手で支えて。
砂浜に足を投げ出しながら見上げていると。
舞浜は、竿を頭上に大きく構えて何歩か前に進みながら。
「こええよ。オモリが俺の目の前いったりきたりだっての」
ベールアームを開いて。
ラインを指に引っ掛けて。
「……おいおい。ほんとに?」
上段に振りかぶった竿をフルスイング。
「そいっ!」
相変わらず。
お前はどんだけ天才なんだ?
一度見ただけでよくマネできるな。
そして竿が頭上を越えた辺り。
ラインを指から離すタイミングも完璧で。
「うをっ!? 脱げ……っ!?」
見事な勢いで放たれて。
夕焼け空を切り裂くように飛ぶ20号のオモリと。
それを追うようにはためく。
俺の水着が。
遥か遥か、ずっと遥か。
赤と青の、波間にどぼん。
「うはははははははは!!! じゃねえよちょっとこれ丸見……、どわあああ!」
クーラーボックスで隠すしか!
てかお前、俺が隠す前にこっち見てた!?
夕焼け色に染まったワンピース。
いつの間にやらこっち向いてるけど。
そして竿を持ったまま隣に座ってからの。
とんだダブルミーニング。
「お、お粗末様でした……」
「なんなのわざとなの仕込みなの天才なのバカなの!?」
「……そ、そこからジュース取れなくなった」
「言いてえことはそれだけか!!!」
蓋開いたクーラーボックス。
逆さにかぶせる俺の横。
舞浜が、きりきり糸を巻き上げてる間。
見た? 見た? と。
何度聞いても。
こいつはニヤニヤするばかり。
興味のあることなら。
一発で覚える天才。
でもそれ以上に。
笑いの天才かよ!
こんなやつに。
勝てる日なんか来るのだろうか?
いや、きっといつの日か。
お前を無様に笑わせてやる!
諦めたらそこで終わる。
無理と出来ねえは決して口にしねえ。
そしてもう一つ。
お前のやることで。
俺は、もう二度と笑わねえ!
もう何度目になるだろう。
改めて誓いをたてながら。
握りこぶしを作る胸の内。
舞浜は、気づいているのかいないのか。
苦笑いで嘆息しながらリールを巻くと。
ようやく砂浜に上がって来た俺の海パン。
その中に。
ヒラメが一匹入ってた。
「うはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!」
無理だ。
例え何度生まれ変わっても。
お前に勝てる日なんか。
未来永劫ありゃしねえ。
~´∀`~´∀`~´∀`~
舞浜が帰ってから。
本格的に夜釣りを楽しんで。
リラックスできた幸せと。
ボウズの寂しさとを胸に。
よっこらせと腰を上げる。
でも、一匹も釣れなかったなんて。
ビギナーズラックで獲物をゲットした舞浜に。
散々笑われそうだな。
あいつ、嬉々として魚ぶら下げて。
料理してもらう、とか言いながら。
別荘に戻って行ったけど。
……さばける奴いるのかな?
竿と、空のクーラーボックス抱えて。
下草が足を薄く切りつける。
緩やかな砂の斜面を上ると。
生暖かい風が首筋を撫でていったせいで。
少し怖くなってきた。
……そう言えば、舞浜博士の発明品。
この辺にセットしたって言ってたっけ。
まさか、ほんとにお化けが入ってて。
そのせいで怖い雰囲気になってるとか?
不安な気持ちを抱いたまま足を止めて。
ふと草むらを見れば。
月明りの中、ぼうっと浮かび上がる。
鉄製のお化け捕まえ装置。
と。
……その中に詰まって。
めそめそ泣いてるお化けの姿。
「ちあきちゃあああああん!」
バカだな、面白がって入っちまったのか!?
とは言え気付いてよかったよ、大惨事になるとこだった!
「待ってろ、今開けるから!」
「あ、ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます」
うわ可哀そう。
よっぽど不安だったんだな。
慌てて蓋を開けて。
引っ張り出してあげると。
「ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます」
「もういいって。それよりどうして入ろうと思った?」
「だって、なんだか懐かしくて……」
「ちあきちゃん、牢獄に入った過去が!?」
いけねえ、つい突っ込んじまった。
でもこいつは怪我の功名。
ちあきちゃんは、ほっぺた丸く膨らませて。
いつもの調子に戻ってくれた。
「そんなのあるわけないでしょ!?」
「だよなあ」
「それより、今何時!」
「えっと……、九時ちょっと前?」
「ドラマ始まっちゃう!」
おいおい、こんな目に遭っといてドラマかよ。
呆れた俺に礼も言わずに。
ふわふわな黒髪をなびかせて駆け出したちあきちゃん。
なるほど、この装置のおかげで。
お化けはドラマ見に帰ってったぜ?
良かったな、舞浜。
今夜は高まくらだ。
……あっという間に見えなくなったちあきちゃんの背中に。
おやすみと声かけて歩き出す。
でも。
さっき感じた不穏な空気が。
未だに肌にまとわりついてやがる。
何かの気配は、別荘の左手。
林の中。
怖いもの見たさ。
いや、これは。
確認しないと安心できない。
俺の性分のせい。
荷物を置いて。
通路を外れると。
まるで死をテーマにした調香師による芸術作品。
潮風が、急に不快な臭いに変わって。
異変と警告を俺に伝える。
『引き返せ』
林の中、まばらにそそぐ月明り。
天から落ちた断罪の槍が。
誰かの胸に落ちたのか。
すねまで覆い尽くす下草が。
足に重たく絡みつく。
まるで地面から。
何本もの黒い腕が伸びて掴んでいるかのよう。
木の一本一本。
帰り道をマーキングするような気持で手を添えつつ。
四つ目の幹から。
顔を出した瞬間。
……俺は。
血の気を失った。
――高い木の枝から垂れ下がるロープ。
その先にぶら下がった。
白いワンピース。
降り注いだ槍のような月光に。
胸を貫かれた少女は。
金色の髪を。
力なく落とした肩に這わせたまま。
物言わぬ屍となって揺れていた…………。
「は…………、春姫ちゃん…………」
……第三の殺人が起きてしまった。
そしてこれは。
今までの物とは違う。
本物の事件だ。
出会ってから。
濃密な月日を一緒に過ごして。
ようやく笑ってくれるようになった。
金髪の少女。
だが、絶望的な光景は。
俺の血液すら凍り付かせ。
どうしてこんなことになったのか。
誰の仕業なのか。
まるで考えることもできず。
また。
驚いたことに。
何の感情も湧いてこない。
……からっぽになった心のまま。
よろよろと、変わり果ててしまったその姿へ。
一歩一歩。
近づくと。
俯き。
金髪に隠れていた春姫ちゃんの顔が。
少しづつ見えていって。
真下までたどり着いた時。
その、真っ白な人形のような顔が。
目を、ぐりんと見開いた。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああ」
「……騒がしい」
「ああああああああああ……、あ?」
「んしょ……、だみだハルキー! 凜々花、余計なとこで天才発動!」
「……やれやれ。なにか切るものを持って来るがいい」
「よし来たがってんちょっと待っててくれい!」
春姫ちゃんに繋がったロープの反対側。
幹にぐるぐる巻きになってるあたりから。
凜々花が飛び出すなり。
別荘へ駆けていく。
すると、いつの間にやら地べたにへたり込んでた俺の耳に。
弱々しいため息が降って来た。
「……みっともない遊びだと思って、立哉さんには見られたくなかったのだが」
「あ、ああ。……遊び?」
「……人間、浅はかなものだ。すでに発見されたことは明白なのに、目を閉じて押し黙る自己防衛。無かったことになるとでも思うのだろうか」
首に巻かれていたと思ったロープは。
よく見れば彼女の脇の下を通っていて。
そこにぶら下がっていただけみたいなんだけど……。
「遊びって……、何をしてるんだ?」
「……明日の天気、予報士が随分曖昧なことを言っていたから心配になって」
「等身大テルテル坊主っ!?」
「……等身大って。実在する人物だったのか? テルテル君」
「何やってんだよあぶねえだろ! 凜々花に無理やり吊られたのか!?」
「……それが。ちょっと……、やってみたくて……」
呆れたっ!
春姫ちゃんともあろう者が、羽目外し過ぎだっての!
でも、ほんと良かったよ。
ただの勘違いに終わってさ。
「しかし、遊びにしたって。その高さから落ちたら危ないぞ?」
俺が手を伸ばせばぎりぎり春姫ちゃんの足が乗るだろうか。
そんな高さから見下ろしていた彼女が、急にジタバタし始める。
「……い、今更気付いた。こっちを見るな、変態の立哉さんの方」
ああ、はいはい。
そうだね、こりゃ失礼。
でも、俺も動揺してたから。
黄色いフリル付きなんて見てねえから安心しろ。
ようやく安心。
肩から力抜いて。
苦笑いしながら逸らした目を。
ロープが巻かれた幹に向けると。
その陰で。
何かが動いたように見えた。
……………………まさか。
危機管理。
弾かれるように、春姫ちゃんへ振り返った俺の耳に。
背後から。
繊維が瞬間的に断裂した鈍い音が響く。
「ひあっ……!」
これから起きることを察知したからできた芸当。
ロープが切れて、足から落下する春姫ちゃんの太ももに反射的に抱き着くと。
なんとかお尻のあたりで停止した落下物から。
頭を、全力で抱きしめられた。
「……あ、ありがとう。まさかロープが切れるなんて……」
「ああ。……下ろすぞ?」
「……う、うん……」
地面に下ろしてあげても。
よっぽど怖かったんだろう。
春姫ちゃんは、いつまでも俺の首にしがみついたままで。
すぐ目の前にある、フランス人形のような顔。
普段から表情のない春姫ちゃんの顔が。
冷たく強張っている。
……彼女が言ったように。
ロープが切れた。
だが。
正確に表現するなら。
『切られた』
その怪人を確認するため。
首を幹へ向けると。
暗闇の中。
微かに、何かが逃げる背中を見止めることが出来た。
……そうか。
また今夜も。
俺と舞浜は。
睡眠不足に悩まされることになりそうだな。
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