第四話 帝国、あるいは幻想
扉をノックする音。私はハッとして、驚いた。誰だろう。けれど、蛮族だったらノックなどしないだろうし、祖母はまだ外にいる。都から逃げてきた人がやってきたのかしら。私はドアを用心深く開けた。そこにいたのは、老人だった。
「すみませんが、お嬢さん、水をくれませんか。都から急いで来たのですが、荷物も多く、馬がすっかり疲れてしまって」
確かに、馬車を見ると、山のような荷物が積まれていた。
私は言った。裏手に井戸があるので、どうぞご自由にお使いくださいと。老人は「ありがとうございます」と言って、馬を馬車から外して、連れて行った。
老人の印象には不思議な感じがした。前に会ったことがある。そう思った。
まさか。あの時の。
私は荷物の山の中から、あの時のおじさんに貰った、銅貨を取り出した。今は貨幣が新しくなったから、一つ前の古い銅貨。
戻ってきた老人に、それを見せて、「ひょっとして貴方は」と言った。
老人はしばし怪訝な顔をして、銅貨と私の顔を交互に見合わせた。うーんと唸って、ハッとした様子で叫んだ。
「あの時の嬢ちゃんかい!大きくなって、すっかり綺麗になったもんだなあ!こんな奇遇なことがあるなんて、本当に驚いた!」
老人は、あの時のおじさんだった。十五年経って、すっかり老け込んだ様子だったが、元気そうだった。けれどもやはり疲れ切っている様子だったので、椅子に座るよう促した。
老人は、色々な事を伝えた。都の蛮族はまだ、略奪に明け暮れていて、しばらくは留まっているだろうということ、都の有様は酷い地獄のようで、何もかもが燃えていて、自分もなんとか逃げ出してきたということ。
私も椅子に腰掛け、老人に言った。私は、どうすれば良いのかわからなくなって、ずっと思い出に浸っていたこと。思い出の中で、記憶の隅に追いやっていた、この国の退廃のこと。そして、私が気になっていた、かつて路地裏であった時に、歌っていた詩のことを聞いた。
「国国国とみな言うが、国はいずこに在りしものや…
栄えた国も衰え滅び、しばし経ったら思い出話…
思い出話の国の詩、詩だけ残って国は残らぬ…
幻想幻想、惑わしだ。どこにも国などありゃしない…」
老人は言った。
「その詩も、「千年帝国」の詩を歌った詩人のものだな。けれども、あまり有名な詩ではないね。詩人が、燃え落ちる千年帝国の姿を見て、嘆いて歌ったものらしいが・・・、どこにも国などありゃあしない、そんな詩は、ちょいと評判も悪くてね。殆どみんな知らない詩なのさ」
私はふと、疑問を口にした。随分お詳しいのですねと。
「ああ、実は私は歴史家の家に生まれてね。だけれど落第生で、本物の宮廷仕えの歴史家にはなれず、結局自分で商売をして、店を建てたのだけれど、その後も趣味で歴史を学んでいたんだ。店の裏には、いろいろな文献を集めていて、特に「詩人伝説」に興味があったんだ」
老人は、少し神妙な様子で言った。
「だけれども、考えてみれば、確かにそうじゃないかと、私は思う。国ってのは一体何処にあるのかと。あの立派な凱旋門や都の宮殿が国か。違う。王様が国か。それも違う。結局今になって、王様も殺され、都も宮殿も燃えて消えつつある。じゃあ、帝国は、何処にあるのか。思うにそれは、人々の心の中だ。国があると思うから、国がある。幻想みたいなもんじゃあないのかね、と」
老人は続けた。
「千年帝国も、たった一人の詩人が伝えなければ、皆忘れて、誰も知りはしなかっただろう。滅んだ国、歴史というのは、思い出だ。形あるものが何もかも消えたら、人々が覚えて伝える他にない。だから、歴史を紡ぐことは大事なんだ」
今の私には、何となくそれが分かるような気がした。ついこの前まで、帝国はあった。今日には消えようとしている。国があって、国が消える。帝国とは一体なんだったのかと。
私はふと、素直な問を発した。どうして国は滅びるのでしょうと。
老人はしばし考え込み、やがて答えた。
「攻めれて滅ぼされる。内乱で滅ぶ。いろいろな国があったが、思うにそれは最後の「とどめ」でしかないんじゃないかね。滅びる国は、ずっと前から滅びると決まっている。人心はいずれ荒廃する。栄えればいずれ、国は退廃する。そうすれば、人々の心の中の「国」も、曖昧になる。国そのものが、曖昧になる。曖昧になれば、幻想はますます幻想になって、綻んでいく。そんな風に私は思うよ」
老人は、目をつぶって、歌った。
「終わってみれば、一夜一時
千年あっても、夢の中
夢か現か幻か
千夜一夜の物語」
「あの詩人が、亡くなる最期に歌ったという詩さ」
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