第36話 夜道でたたずむ雨ケ崎

 長かった梅雨はじきに明けるだろう。

 アスファルトにのぼる陽炎は夏の到来を予感させて、歩いて行く二人もそんな季節に合った言葉を交わす。


 背の高さがほとんど変わらない二人であり、片方は長い黒髪、そしてもう片方は海に似た色彩の髪を揺らす。

 

 雨が嫌いだとか、暑いのは嫌だとか、そんな会話を手をつないで交わす様子はまるで仲の良い友達同士のようだったし、また単なる傍観者でしかない俺の胸に鈍痛を響かせる。


 あいつ、あんなに嫌がっていたのにユウリとは手をつなぐんだな。口にはできないけど俺はそんな顔をしていたし、また同時に異なる相手に対して険しい目を向けている。


 あそこにはいつも俺がいるはずだった。

 いつか失ってしまう仲だとしても、高校生のあいだはきっと大丈夫だろうと思っていた。

 でも現実は違っていて、すごくあっさりと変わってしまう。それがとても不思議だったし、うまく言葉にできないけど嫌だった。


 そのとき、ぽんと肩を叩かれる。

 振り返る先には東堂がいた。


「ご苦労だったな。今日の仕事は終わりだ」


 もしかしたら顔がこわばっていたのかもしれない。怪訝な表情を見せたあとに「どうした」と言い、また肩を叩いてくる。


「群青、雨ケ崎を家に送り届けてやれ」

「え、だって気づかれるわけには……」

「ははっ、お前はそんな細かいことを気にする奴じゃないだろう。偶然だとか適当なことを言って、ごく平然としていればいい」


 視界の先には、バイバイと手を振りあってユウリと雨ケ崎が別れる姿があった。また明日ね、と声をかけあう様子は仲の良い友達のようで、普段のように毒を吐く様子はない。


 どんどん遠くなってゆく雨ケ崎の背中を見ていると、再び東堂の声が響き始める。


「これは俺の経験則だが、喧嘩になるかどうかはいつも女性が決める」

「え、どういう意味です?」

「後ろめたいことがあってそれがバレたとしても、怒られるかどうかは相手によるということだ。簡単だろう。雨ケ崎が許せばお前は怒られない」


 半分くらい意味が分からなかった。しかし文句を言おうにも先生は堂々としており「はやく行け」と言わん顔をしている。

 これ以上うるさくされたくなかったので歩き出すと「がんばれよ」とまたもウザいことを言われた。


 あいつ本気でウザいな。グゼンさんから嫌われるのも良く分かったよ。

 ただ「先生」と呼ぶのもだいぶ慣れてきたかな、とは思った。



     §



 ゆっくりと日が暮れてゆく時刻、雨ケ崎は海岸線沿いの道を一人で歩いていた。

 たまに追い越していく車は観光客だろうか。

 人が去り、瞬く星がひとつふたつと増えてゆき、どんどん空気が落ち着いてゆくこの時間を雨ケ崎は好きだった。


 誰にも聞かれていないのをいいことに、子供のころに聞いた童謡を口ずさむ。海にちなんだものであり、亀を助けることで始まる冒険譚だ。小さな声で歌うと周囲の壁に反響して、なんとなく自分の声が綺麗に聞こえて面白い。


 あまり覚えていない歌詞は鼻歌でごまかして、潮騒が耳をくすぐるまま道沿いを歩く。

 しかし鼻歌はやがて小さくなり、消えてしまう。楽しかった一日は終わり、もう自分の家に帰らないといけないことに気づいたからだ。


「さようなら、か……」


 ふと口から出てきたのは、幼馴染と屋上で交わした最後の言葉だった。あれからずっと話しておらず、こんなに離れて過ごすのは初めてかもしれないわと思う。


 でも、いつかはいなくなる。

 血のつながっていないただの幼馴染なのだから。

 これ以上、互いの関係は変わらない。交際や結婚になど発展しない。いつしか自然と消えるのが幼馴染であり、ただ別れを自分から切り出したに過ぎなかった。


 それは分かっているけど、なぜかイライラする。

 あいつじゃないけど、わーっと海を見て叫びたくなる。

 暮れてゆく海を眺めながら、ふとあの男のようなことがしたくなった。どしゃぶりの日に傘を閉じたように、意味もなく子供っぽいことをしたくなった。


 だから雨ケ崎はコンクリートの塀に手をついて上り、そして海に向かって腰かける。まるで小学生みたいだったけど、景色を独占したようで気持ち良かったし、頬を撫でる風もまずまず良かった。

 シュシュを外すと束ねていた黒髪がほどけて風に流される。


 落ちたら怪我をしそうな高さだし、もしも幼馴染がこんなことをしたら「危ないわよ」と声をかけていたところだ。でも、いまはあんまり気にならない。ただ風に吹かれるまま佇むのが気持ち良かった。


「なーに子供っぽいことをしてんだ?」


 唐突に横から話しかけてられてびっくりする。

 当たり前のように群青がそこにおり、呆れた表情を浮かべながら缶コーヒーを2つ置くところだった。


「よっ」


 かけごえと共に彼も塀に上ると、なにも言わず隣に座った。

 そのふてぶてしい態度を見てか雨ケ崎にしては珍しく笑みを浮かべて、置かれた缶コーヒーに手を伸ばしながらこう口にする。


「ストーカー」

「秘密主義」


 久方ぶりの悪口だ。胸がスッとして、すぐ悪口を言い返されたというのになぜが笑みが深まる。こういうのもいいな、と思ったのだ。


「笑うなよな。俺だって大変だったんだぞ」

「へえ、どう大変だったの? その口で言ってみなさい」


 ちょっとだけ嬉しい。絶交を口にしたのに、さようならと言ったのに、前とまったく同じように話せていることが。

 彼の指がすぐそばにあり、でも決して触れ合いなどしない。そういえば一度だけ手を握り合ったっけ、などと思いながら冷たい缶コーヒーをひとくち飲む。微糖だった。


 見上げる空は群青色のグラデーションがかかっていて、先ほどより星がたくさん瞬いている。きれいだなと思って足をブラブラしたとき、彼の声が響いた。


「……俺なりに調べたけどさ、まだ答えがぜんぜん出ない。オズガルド家と交際しろと命じるなんて、夜子さんはなにを考えてんだ?」

「人間って、いい暮らしから戻れないんですって。私の母もきっとそう」


 きっと気持ち良い光景を眺めているせいだ。口から出てきた声には嫌味などまったく含まれておらず、耳にした群青も驚いていた。


「え、ユウリみたいな暮らしをしていたってことか? お前も?」

「いいえ、私は知らないわ」


 こうして過去を話すのは母の言いつけに背いているけど、これはコーヒーのお礼なのだからおかしくはないわ。そう言いわけのようなことを考えて、それからこう言う。


「だって、母が変わった原因は私が生まれたことだから」


 彼は息をのみ、私を見つめてくる。

 ずっと口にしなかったことだけど、なぜかいまだけは自然と口から出てくる。逆らわず、意地を張らず、私はただ話し続ける。

 

「私が生まれて、不貞だとののしられて、それから家を追い出されたそうよ。母は身に覚えがないと言い張り、だから私は父のことをまるで知らない。この世にいるのかさえも」


 ただ事実を伝えるだけだし、平気と思っていた。なのに喉がかすかに震えてしまい、鈍いのか鋭いのか分からない群青がごく自然と私の手を握ってきた。

 びっくりしたし、ブンブン手を振っても離さないのは群青らしい。だけどその次に出てきた提案は私をとても困らせた。


「大丈夫だ……なんて、俺が言っても仕方ないか。やっぱりまだ事情が分からないけどさ、嫌だったらいっそのことうちに住んじまえよ。そうしたらもうあの人にとやかく言われないだろ」

「はい?」


 あれ、おかしい、だんだん熱が出てきた。

 そういう意味じゃないのは分かるし、考えなしの思いつきを口にしただけだろうけど、その提案はあまりにも語弊があり過ぎる。

 ちらりと横目で彼を見ると、やはり自分で言ったことをまるで分かっていない風だった。


「嫌だったらさ、そう言っていいと思う。でないとなんか嫌だ。知っているかもしれないけど、俺はそんなに雨ケ崎のことが嫌いじゃないし」


 少し恥ずかしそうに言うのだけはやめて欲しい。こんなのはもう愛の告白に近しいし、胸の鼓動も少しおかしい。どっどっと鳴る胸はまるでイエスと言いたがっているようだし、こんな自分もいるのだなと驚く。


 まさか、まさか、と驚きながらも平常心を取り戻したくて私はいつものように悪口を言う。


「奇遇ね、私もそう嫌いじゃないわ」

「ああ、俺もそんなに嫌いじゃない」


 なぜかその悪口にも語弊がある気がした。

 そのまんまの意味なのに、まったく異なる意味が混じっている気がしたのだ。特にこうして真正面からじっと見つめ合いながらだと。


 本格的に顔が熱くなってきて、あれ、おかしい、と私は戸惑う。あの夜のように指が絡んできたせいだろうか。腰の力が抜けるから封印しようとお互いに決めたというのに。

 そう戸惑っている私に、群青は不機嫌そうな顔を見せる。


「で、そろそろ教えろよ。どうやってユウリに告白を受け入れさせたんだ」


 ぱちくりと瞳をまばたきして、そして私は苦笑した。

 小学生でも気づけるくらい簡単なことなのにまるで気づけず、また答えを知りたくて仕方ないという表情がおかしかったのだ。するとこの手は慰めるためでなく、単に私を逃さないつもりだったのか。


 くつくつと腹を抱えて笑っていると、先ほどの戸惑いもだいぶ薄れてくれた。


「ふうん、なら特別に答えを教えてあげ……」



――キィィィィッ!



 しかし答えようと思っていた言葉は、唐突な車のブレーキ音に掻き消される。

 タイヤに白煙を漂わせてバックしてくる様子にまた驚く。群青も「なんだぁ」と言いながら立ち上がり、その大型のバンをじっと見ていた。


 目の前でガラアッとドアをスライドさせて、現れたのは不自然なまでに日焼けをした男だった。


「おっ、雨ケ崎ちゃーん。奇遇じゃん。こんなところで会うなんて、運命をビンビンに感じちゃうな」


 誰だっけ、と群青と見つめることしばし。私の代わりに群青が口を開いた。


「野崎先輩? あの、大丈夫です? 停学中じゃありませんでした?」

「ああ、お前がチクったせいでもらった課題は、いまも別の奴が真面目にやっているぞ。こういうときは俺をリスペクトする奴がいてマジ助かるわ」


 すると手下の連中に課題をさせているのだろうか。しかし群青も軽口を言わず言葉を飲みこんでいた。


 車からもう一人が降りてきて「こいつ?」と問いかけてきたこと。

 そして運転席の男が携帯電話を取り出して、だれかに連絡をしている様子が見える。すごく不安で、心臓が痛いくらい鳴り始める。


 嫌な予感がどんどん膨れ上がっていくなかで――ふっと群青の姿が消えた。


「えっ?」


 振り返った先は真っ暗で、バキバキと枝の鳴る音が響く。

 頭が真っ白になるまで呆けたのは「まさか」と思うからだ。野崎が宙に足を伸ばしている場所に、先ほどまで群青がいた。まさか、まさか、という思いがもっと強くなって、塀の向こうの真っ暗な雑木林を見下ろして、思わずなにかを叫んでいた。


「はーい、雨ケ崎ちゃんゲットー。コラ、暴れるんじゃねえよボケッ! 殴んぞ!」


 ふわりと宙に持ち上げられて、もがいているあいだにスライド式のドアは閉まる。先ほどよりもずっと暗い場所に閉じ込められたと気づいて、煙草のヤニ混じりの嫌な匂いに包まれて……ドウッと勢いよく車が走り出す。


 うまく呼吸ができないほど、雨ケ崎の思考は混乱しきった。

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