第29話 さようなら、また会う日まで

 いつになく俺は上の空だった。

 どんな授業を受けていたか覚えていないし、だからノートに写してさえもいない。


 何度となく隣の席にいるユウリから話しかけられた気がするけど、うまく返事できていたかは分からない。ただ、たまに教室の端っこにいる雨ケ崎の後ろ姿をじっと眺めていた。


 あいつなー、家庭が複雑なんだよなー。

 父親がいないし母親もあんな感じだし。ときどき家に帰りたくない感じになるときがある。

 それは小学生のころから続いていて、異性を泊めるのは世間的には良くない習慣だと分かっていても、俺にとっては「別にいいんじゃない?」とゆるい気持ちで見守っていたりする。


 うちは両親ともども仕事人間で家にほとんどいないのに、それでも息苦しいと思うときはあるんだしな。


「……くん、群青君……」

「うん、どうしたユウリ?」


 はっと我に返りながら答えると、いつの間にかホームルームの終わる時刻だった。教室にチャイムが響いており「あ、悪い」と言って出しっぱなしの教科書などを片づけ始める。


「いや、本当に悪い。今日はほとんど授業の内容を伝えられなかったな」

「んー。ううん、いいんだ。それよりも群青君、具合が悪かったりする? 顔色も悪いし、ほら、手も冷たい」


 ぺたんと俺の手に触れながらユウリはそう言う。

 びっくりしたけど、それと同時に安心もした。人肌の温もりに安心するなんて同性相手としてどうかなと思うけど、ふんわりとはにかむ表情にちょっとだけ身体のこわばりが抜けたのは確かだ。


「悪いな、少しだけ助かった」

「?? そう? ふふ、気づかなかったけど、手をにぎるだけで安心するなんて、群青君は少し可愛いね」


 お前の方がすごく可愛いよ。おまかわ、おまかわ、という謎の言葉が俺に頭に溢れてくる。

 ああ、クッソ言いてえ。おまかわって口にしたくてたまらないけど、もしも口にしたらあらぬ方向に俺の人生が変わってしまう気がして怖い。


 などと思っていると、女子よりもほっそりとした指がにぎにぎと俺の手を握ってくる。


「手を握って欲しいときはいつでも言って。人に触れて安心するのは恥ずかしいことなんかじゃないから」


 いや、恐らく問題山積みだと思うぞ。などというごく常識的な言葉がなぜか口から出てこない。

 気のせいなどではなくて、こいつは女子成分が強いんだ。ふんわり漂う女の子の香りと、すぐ近くでまばたきをする様子は、誰だって「俺のこと好きなの?」って思うに違いない。


 しかしあらぬ誤解をする者もなかにはいる。

 たとえばすぐそこで口元に手を当てて、頬を赤くさせた雨ケ崎だ。


「下賤な者との禁じられた恋……悪くないわね」

「悪いわボケえ! い、いや、ユウリは悪くないぞ。おまかわだし、さっきは助かったぞ、うん!」

「「おまかわ?」」


 きゃあああ、うっかり口から出てんじゃん! バカバカ、俺の馬鹿。正直者な性格がこれほど憎いと思うなんて。くそお、いつか可愛いものを可愛いと言える世界に行きたい!


「じゃなくって。雨ケ崎、俺に話しかけて大丈夫なのか?」

「下賤な者と話しても大丈夫か、という意味かしら? 精神的な苦痛を感じるかどうかという意味なら、答えはイエスね」

「誰が下賤な者やねん!」


 ひどくない? さすがにちょっとやるせないし、夜子さん、ユウリ、雨ケ崎という温度差がひどくて涙が出そうだよー、もー。


 そんな俺の様子を見かねてか「ふむ」と雨ケ崎は考えるそぶりをして、指先でちょいちょいと俺を招いた。




 がちゃん、と「開放厳禁」と書かれたドアを開く。


 目の覚めるような青空が広がっていて、さらにその下には一面の海がある。

 都会では様々なスイーツ店が並んでいるらしいけど、正直なところ俺としてはこの屋上のほうが安らげそうかな。


 スカートをはためかせる雨ケ崎を追い、フェンス際まで行く。

 黒髪を耳にかけながら振り返る雨ケ崎は、先ほどよりも表情を険しくさせている気がした。


「お母様の件、あなたには嫌な思いをさせてしまってごめんなさい」

「いや、それはぜんぜん構わないんだけど、お前もなにか言われたか?」

「…………いいえ」


 その返答は、イエスと受け取るからな。

 逸らされていた彼女の瞳が戻るのを待たずに、俺もフェンスぎわに立つ。それから今朝あったことを思い出しながら口を開いた。


「まあ、だいたい予想がつくよ。あの人に俺との交流を禁じられたんだろう?」

「……ええ。いつものことだと言いたいけれど、今回は少し事情が異なるわ。群青も気をつけなさい」

「あん? 気をつけるってなにを?」


 ごくんと雨ケ崎はつばを飲み込む。その表情を見て、やっと俺は余裕のない状況だと気づけた。もうひとつ、彼女がこう言ったことが決定的だった。

 

「あの人の邪魔をしてはだめ」


 気づかないうちに冷汗が垂れていたし、雨ケ崎もまた俺と似た表情を浮かべていた。

 まだ話せない様子の俺を見てか、雨ケ崎はゆっくりと唇を動かす。


「ここに越してくる前、母と私はもっと裕福な暮らしをしていたわ。それ以来というもの人が変わったようになって、家にもほとんど帰らなくなって……以前と同じ暮らしになれたらもしかしたら元に戻るかと思った」


 ふと思い出すのは、屋上でユウリの下校を眺めていたときの横顔だった。裕福な暮らしを夢見ているようにとても見えなかったし、そのときに感じた違和感はそれだったのか。


「母が絶縁されてからというもの実家に顔を出していないから詳しく分からないけれど、きっと私に父がいないことが関係しているでしょうね」


 いつもよりずっと感情を露わにしない表情で雨ケ崎はそう言った。

 

 唐突な告白に驚きつつも、俺はじっくりと言葉を吟味する。

 長く一緒に過ごしていたが、彼女から家のことを聞いたのは初めてだ。聞いてはいけない空気があり、ずっと俺はためらい続けていた。


 しかしなぜいまそのことを口にする?

 その疑問を解く前に、雨ケ崎は結論を口にした。


「だから今日、ユウリ君に告白をするわ」


 わずかに俺は目を見開く。

 次から次へと疑問が浮かんで、うまく情報を整理できない。ひとまず脳裏に浮かんだ素朴な疑問を投げかけた。


「受け入れられるはずがないのに?」

「受け入れられるわ。これまで過ごしてきて分かったことがいくつかあるし、彼は絶対に断らない。きっとふたつ返事で了承するわね」


 きっぱりとそう言われて、疑問はさらに膨らんだ。

 オズガルド家の嫡男が、出会って数日の女性から告白されて受け入れると思うか? ありえないと全ての者が答えるだろう。


 そしてこの疑問さえも俺は解消できない。ちらりと時計を眺めた雨竜は「時間ね」とつぶやいてから俺に背中を見せたんだ。


「彼を待たせているから行くわ。さようなら、誠一郎。いまだから言うけど、あなたのことを本当は嫌っていないわ。それと絶対にイザベラを寂しがらせないで」


 分かってるわ、それくらい。

 そんな言葉も俺の口からは出てこない。


 表情の乏しい奴だけど、俺になら分かる。ほんの少し泣きそうで、それでも絶対にうつむいたりしない気丈な性格をしているんだ。

 さようならという言葉も本物で、もう二度と一緒に遊ぶことはないと幼馴染から宣言された。


 バタンとドアが閉じられて、屋上には俺しかいなくなる。


 でもさ、やっぱり俺は部外者でいたくないと思うよ。がしがしと頭を掻いて、それから大きな声でボヤいた。


「あー、ったく、面倒くさいな。親子そろって思わせぶりなことばっかり言いやがって。分かった分かった。全部俺が解決すればいいんだろ? そのときは、キャー凄いってちゃんと言えよな、雨ケ崎!」


 お呼びじゃないのも知ってるけどさ、こんなの放っておけるわけがないだろう。

 好きな人に好きだって言うから告白なんだ。高校生なんだからそれくらい分かれよな。


 などと憤りを隠しもせずに俺は文句を言った。




 数日後、校内にとある噂が流れる。


 それはオズガルド家の嫡男であるユウリ、そして雨ケ崎との交際についての噂だ。


 ありえないと誰もが口にしたが、しかし廊下を歩く二人は手を繋いでいるのだから噂が真実であると分かるのもすぐだった。


 傍らを通り過ぎてゆく間際、ユウリはいつものようにふんわりとした笑顔で俺を見つめてくる。


 また雨ケ崎はというと正面を向いたままで、ついに視界から消えるまで俺と視線を合わせることはなかった。


 そしてこの日以降、雨ケ崎が俺の部屋に遊びに来ることはなくなった。

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