第28話 雨ケ崎 夜子
はあーー、と雨ケ崎はため息を吐く。不満をありありと浮かべており、長いため息はなかなか途切れない。しかしその不満を聞く者は周囲にいない。
「遅いわね……!」
肩を叩いており、イライラした様子でそう言う。
雨ケ崎は制服に着替え終えており、とっくに出発できるけど群青がなかなか二階から降りてこない。ちらりと腕時計を見ると普段よりだいぶ遅れている時刻だった。
「あいつを待つのも馬鹿らしいわ。もう先に行こうかしら」
背後の玄関を眺めてからそうボヤく。
群青のご両親は共働きであり、また朝が早いためすでに姿は見えない。そうでなければグチを口にすることはなかっただろう。
週末であればご両親と顔を合わせてゆっくり過ごすこともあるし、お買い物まで一緒に行くこともある。
たまに自分の家のように思うが、そう口にしたことはない。母に対して罪悪感を覚えるからだ。
などと考えていても群青はまだ来ない。
「まったく、また靴下が見つからないのかしら」
女の支度は長くても許されるが男性の場合はいかがなものだろう。
しかめっ面で階段を見上げると「あった!」という声が聞こえてくる。まったくもう、と雨ケ崎は呆れの表情を再び浮かべた。
腕時計はさらに時間を進めている。これでは早足で行かなければ遅刻しかねない。噂話を避けるために途中で別れているのだから時間的な猶予はさらに乏しい。
そのとき、ムーッと携帯電話が振動する。
こんなときにいったい誰よと苛立たしげに取り出す彼女だったが、しかしその画面を見た瞬間、瞳を大きく見開いた。
§
靴を履き、けんけんしながら俺は玄関を出る。
学生服を着ている通り、いつも通りの登校だ。しかしいつになく俺は仏頂面をしている。
「信じられねえ。あいつ俺を置いて行きやがった……!」
遅れたのは確かに悪かったけど、行くなら行くでひとこと言ってくれてもいいんじゃないっすか? もしかしてトイレかなーって無駄にウロウロしちゃったじゃねーか。
しかしそんな仏頂面は歩道に出るまでしか続かなかった。
「群青君、急いでいるようね」
そこに立っていた妙齢の女性に驚いたからだ。
肩のあたりで切りそろえた黒髪と、海のある地域に住んでいるとは思えない真っ白な肌。口紅は鮮やかな色をしており、どこか幼馴染を連想させる。
「
眼鏡を外す彼女は、
どうにか感情を抑えて挨拶したが、たぶん俺の人相は悪かったと思う。ピリついた空気をまるで気にせず、惜しげもなく肩を出した服装で彼女は口元だけの笑みを作る。
やめてくれ。その毒を含んだ笑みは、あいつと似ているんだ。
「おはよう。少し話せる?」
「すみませんが遅刻しそうなんです」
「そう、大変ね。でもすぐに済むわ」
いらっしゃい、と指で招かれた。
この人を人と思っていない態度があまり好きじゃない。召使いかなにかをさせられているようで、俺を小さな存在としか思っていない表情が嫌いなんだ。
一歩ずつ近づくと、わずかに足が重くなる。
だめだな。まだ苦手意識が強いし、まともに話ができない状態だ。しかし相手はまるで気にしていない。太陽を背に受けて、陰った表情で笑みを深めていた。
「まだうちの子と仲良くしているようね」
「…………」
「だけど年頃の子を泊めるのは、母親として抵抗があるって分かる? すごく常識的な話をしているわよね、私?」
ああ、苦手だな、と思う。このべったりとした話し方と、俺のことを全部見透かしているような目が。
空は快晴で、梅雨の晴れ間ならではの湿度があるというのに、ゾクリと背筋が冷たくなるんだ。
「……決して手は出しません」
「あら、そう、それは娘を意識しているという意味ね? 群青君、あなたって綺麗な見た目にすごく簡単に騙されそう。騙されて、使われて、いいように捨てられる」
とん、とん、と指先で俺の胸を突きながら、夜子さんはひとつずつ悪口を言う。
じっとりとした汗が流れ始めて、だんだん呼吸が苦しくなる。やんわりと束縛する蛇のようだし、彼女の術中にまんまとハマりつつある気がする。
「あら、泣きそうなの? 本当は弱虫だったのね? 気を張っているだけの子供で、昔っからぜんぜん変わっていなかったの?」
泣くかよボケ。恐れたり怖がったりしたらダメだってばあちゃんに言われてんだよ。
そう思い、半ば睨みつけると夜子さんの笑みがスッと消えた。
「これは私からの言いつけ。これから二度と娘に近づかないで」
「どういう意味です? これまで一度もそんなことを言いませんでしたよね」
思わずそう尋ねると、彼女の瞳は細められる。獲物を見つめる蛇のようであり、体温が数度ほど下がった気になる。気づいたら俺の呼吸は早く浅くなっていた。
伸ばされた指が俺の襟に引っかかり、ぐいっと引っ張られた。
「とても大事な時期だからよ。お互いに受験も考え始める時期でしょう? だから無駄な時間は一秒もないわ。ねえ、そうでしょう?」
「はあ、そっスか。勉強会のおかげで雨ケ崎の成績も上がってるって知らないんで……」
無言で喉仏をグリッと押された。彼女の親指にだんだん力が込められて、だけど意地の塊みたいな俺はうめかないし一歩も引かない。
「……嫌な目。あなた昔からずっと気持ち悪いわ」
体温を感じさせない女性だなと思う。
そして雨ケ崎とは似てもつかない女性だとも思う。
あいつも毒を吐くけど、この人は根本から違うんだ。例えるなら人を操る遅効性の毒で、じっくりと時間をかけて相手を言いなりにする。だから本能的に嫌うんだと思う。
しばしぬめつけたあとに夜子さんは首から指を離す。
かつこつとヒールの音を響かせて、向かう先には一台の車がある。
後部座席には見慣れた女性の頭が見えて、思わず彼女の名を口にしかけた。だけどこの状況でかけるべき言葉が見当たらない。
いっそのこと「馬鹿野郎」とでも怒鳴れば良かったのかもしれない。なぜか分からないし、根拠なんてないけどそんな気がした。
やがて走り去ってくる車を見て、俺は小さな声で「早く大人になりたいな」とつぶやいた。
少なくともあの人と正面から向き合えるくらいには。
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