第27話 俺がイザベラを飼ったワケ

 そーっと目を逸らしてゆくのは愛犬のイザベラだ。チラッとこちらを見て「あ、まだ見てら」という感じでまた目を逸らす。


 そんな様子をパジャマ姿でしげしげと眺めているのは雨ケ崎で、肩にはタオルをかけている。まだ湿った黒髪を拭きながら、ひとつずつ道具を用意している俺に話しかけてきた。


「イザベラは耳掃除が嫌いなのかしら」

「うーん、そこまで嫌がってはいないと思う。掃除しているあいだは眠そうにするし、たぶん匂いが嫌なだけじゃないかな」


 専用のクリームをつけた脱脂綿を近づけるとイザベラは床に伏せる。嫌々をするように顔を背けるけど逃げたりはしない。ぺろっと垂れ耳を持ち上げると観念したのか小さくグウと鳴いた。


 ふふっと雨ケ崎は笑う。

 あどけなさの残る年相応の表情であり、その大きな吊り目を俺に向けてからスッと無表情に戻る。なにそのお澄まし顔。


「……なにかしら?」

「いや、興味あるなら耳掃除をしてみるか?」

「え、やめておくわ。その、耳に指を入れるなんて少し怖いし、もし嫌われたりしたら死んでしまうわ」


 手と顔を小刻みに振って、雨ケ崎は全力で断った。うーん、相変わらずイザベラに関しては大げさな奴だ。

 しかし興味はあるらしく俺が耳掃除を始めると、じいっと覗きこんでくる。


 グウ、グウ、と耳を拭くたびにイザベラは小さく鳴く。雨ケ崎は意識せずに笑い、続いて黒く変色した脱脂綿を見てぎょっとした。


「けっこう汚れているのね」

「そうなんだ。垂れ耳って可愛いけど、実際は湿気がこもるから汚れやすい。だからこまめに掃除しないといけないし、梅雨時期はさらに大変だ」


 俺と雨ケ崎は先ほどお風呂を浴びたし、遠くから洗濯機の音も響いている。なら今度はイザベラの番だなと耳掃除を始めたんだけど、床に突っ伏すイザベラはちょっと不機嫌そうだった。


 雨ケ崎が頭をなでると、丸い瞳が彼女を見つめる。がんばれ、がんばれ、と声を出さずに口を動かしている様子は微笑ましいのひとことだ。


「最初、小型犬を飼う予定だったんだ」


 そう言うと雨ケ崎、そしてイザベラが俺を見つめる。

 薄暗いリビングには降りしきる雨の音と洗濯機の音が響いており、こんなときなら昔話をするのにぴったりかなと思う。


「室内飼いだと、どうしても小型犬を選ぶことが多くてさ。実際にペットショップだと小さいのしか扱っていない場合がほとんどだ」


 ざあざあという雨の音を聞きながら、一人と一匹はなにも言わずに俺を見つめる。フローリングにはひんやりとした冷気が漂っており、ひとり言のように俺は再び口を開く。


「じゃあ小型犬を飼おう。そう思って親父たちとお店に行った。でもお店から出てきたときは、イザベラを抱いていた。なんでだと思う?」

「……可愛いから?」


 ぽつりとそう言う雨ケ崎に、俺は笑いながら頷き返す。


「他の仔犬はずっとキャンキャン鳴いているか、お客を無視して寝そべっていたけど、イザベラはじっと俺の目を見ていた。まるで言葉まで分かっている風でさ。頭の良さそうな子だな、と俺は驚いた」


 犬というのは不思議な種族だ。

 万単位という長く人間と共存した歴史があり、その歴史はまだまだ先まで続くだろう。

 狩猟という役目はほとんどなくなり、盲導犬や捜査のために活用される場合も増えてきた。


「イザベラは頭がいい。すぐに物を覚えるし、こちらの気配をすぐに察する。ついでに言うと好き嫌いがはっきりしていて、甘やかしてくれる雨ケ崎のことを大好きみたいだ」


 ぱっと雨ケ崎の瞳が輝いた。

 薄暗いリビングだし気のせいだったかもしれないけど、頬には赤みが差して、床に寝そべるイザベラをじっと覗き込む。そして唇にまた笑みを浮かべた。


「私も大好きよ、イザベラ。ずっと長生きしてね」


 そういう愛情もしっかりと伝わるんだ。グウグウと文句を言うこともなくなり、イザベラもまたじっと雨ケ崎を見つめる。


 不思議だなと思うのはこんなときだ。がんこで面倒くさい女なのに、こういうときだけはとても素直になる。まるで小学生みたいだったし、たぶん幼いころとほとんど変わらない表情だろう。


 昔、雨ケ崎はずっと泣いている子だった。


 信じられないかもしれないけど、子供のころから接してきた俺はそのときのことをまだ覚えている。自分の家の周りをうろうろして、入るための勇気が足りない子だったんだ。


 だからふてぶてしい態度を見ても、そこまで腹立たしいと思えない。俺も人間だからイラッとするときもあるけどさ、あのころよりもずっといい。


 いや、待てよ。案外と笑顔を取り戻せたのはイザベラのおかげかもしれないぞ。そう思い、毛を撫でている雨ケ崎に言葉を投げかける。


「じゃあ、反対側の耳掃除は雨ケ崎がやってみようか」

「はっ!? ま、待ってくれるかしら。おほん、こういうものは段階がいるし、心の準備だって必要だわ。今日のところは誠一郎がやってくれるかしら」

「じゃあ爪切りにする? たまに血が出るけど平気?」

「もっと無理っ!!」


 わっと泣き出しそうな顔をされて、思わず吹き出してしまったよ。

 腹いせに思いっきり肩を殴られたけどさ、たまには素の顔を見れるのもいいもんだ。

 そう思い、にやりと笑いかけたら再び肩を叩かれた。あのさぁ、女の子らしく手加減をしてくれません?




 すやすや眠るイザベラを抱いているうちに、自然と眠気が伝染したらしい。くあっとあくびをひとつした雨ケ崎は、半分くらい睡魔に屈している瞳をしていた。


 読みかけの本はすでに閉じられており、だらしなくも半分くらい床に寝そべっている状態だ。


「どうする、布団を用意するか?」


 そう問いかけるとわずかに瞳が開く。しばしの間を置いて、こっくりと雨ケ崎はうなずいた。


 最近のちょっとした変化は、寝つくとき大人しくなることだ。身体を寄せると自然と抱きついてきて、ころんと肩に頭を乗せてくる。


 たぶんこのあいだ二階に運んだせいだろう。にやにやしていたし、眠っているフリまでしていた。きっとあれで味をしめたんだ。


 この無防備さが異性にとっては苦しみを生むのだが、当人はまったく気にしていないから困りものだ。いやもう、本当に勘弁してください。ただでさえ女の子の香りに包まれているんだしさ。


「髪は?」

「すいて」


 そう端的に返事をされた。命令なのか話すのもおっくうなのか。たぶん両方だなと思いつつベッドに上半身を預けさせると、ブラシを手にしてすきはじめる。


「痛くないか?」

「平気」


 言っとくけど、ここまでしてくれるのは俺くらいだからな。

 すーすーと寝息みたいな呼吸をしているけどさ、普通なら「自分でやれ」と頭にブラシを投げつけている。

 しかし、いつになくしおらしいのはちょっと気になる。大人しいし、毒のひとつも吐かないっていうのはさ。


「家の方はどうなんだ? さっき電話していたみたいだけど、外泊で怒られたりしなかったか?」

「…………」


 こちらの声が聞こえている感じはするけど、そっぽを向かれているので表情まで分からない。ただ、やっぱり元気がなさそうかな。


 さらさらの黒髪をすいていると、横から良い毛並みをしたイザベラが近寄る。そして半ば無理やり雨ケ崎の膝に寝転がると「ふふっ」と彼女は笑った。

 頭をなでながら、ぽつりと彼女はつぶやく。


「私、あなたのこと好きよ。優しいしあったかいし、気づかうのもすごく上手」


 半分くらい寝言みたいな声だな。聞いている俺まで眠くなる声で、ふっと笑ってからまたクセのない黒髪をすきはじめる。

 イザベラも安心するのか、うつらうつらと瞳を閉じつつあった。こうして邪気のない言葉を聞くと、彼女の声は綺麗なのだなと気づく。


「どうしていつも身体を張ってしまうのかしら。無理して欲しいなんて願っていないし、私なんてお礼もきちんと言えない性格だっていうのに」


 ぴたりとブラッシングの手が止まる。いまのは俺のことを言っている気がした。


「ずるいわ。嫌なことばかり言うのに、子供のころからいつも助ける気でいるだなんて。憎たらしいし、腹が立つし……それに……」


 ころんと雨ケ崎の頭はベッドに乗り、そして静かな寝息を響かせる。


 あ、寝たのか。するとさっきのは寝言に近いものだったのかもしれない。なんとなく気まずい思いをするけれど、この体勢で寝かせてやるわけにもいかない。


「別に助けたいなんて思っていないんだけどな」


 ヒーローなんかじゃないし、これっぽっちの正義感もない。ただまあ、そのほうがいいかなと思って身体が勝手に動くときもある。


 しかし反論すべき相手はすでに夢のなかだ。なら俺はもやもやした気持ちを抱えたまま、いつものように寝床を整えてやらないといけない。


 ひょいと担ぎあげた雨ケ崎はやはりとても軽くって、普段の言動とのギャップに驚かされる。こんなに軽いくせに文句ばかりいいやがって、と思わないこともない。


 おやすみ、と返事されることのない挨拶をして、かちんと照明を切った。

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