第26話 あの子はいつも背後から忍び寄る

「おっと、夕方までもたなかったか」


 どうっと大粒の雨がグラウンドに落ちる音が響いており、そんな様子を薄暗い下駄箱置き場から眺める。

 俺は帰宅部だし、まっすぐ帰ってもいいんだが……。


「あいつ、傘をちゃんと持っていたかな」


 帰る前にそれだけが気がかりだ。

 別に仲良しというわけでもないので、教室を一緒に出たりなんてしない。そんなことをしたらおかしな噂が立つので、自然と時間差をつけて帰宅しているようにしている。


「先に帰ったのかな。それともまだ学校に残っているのか……」


 気にせず帰っていいと思うんだけどさ、ゲームの続きをしたいと言っていたし、となると気づかったほうがいいのかなと俺は悩む。


「とりあえず連絡するか。えーと、SNSで……」


 ぽちぽちと「雨ケ崎ー、もう帰ったー?」というメッセージを打ち込んで送信ボタンを押す。すると数秒で既読がついた。


『いいえ、まだよ。図書室に寄ってから帰ろうと思って』

『そっか。雨がすごいけど、傘はちゃんと持ってるよね?』

『まったく、なに馬鹿なことを言っているの。誠一郎が持っていたから平気に決まっているわ』


 おいおい、なんだよこいつ。傘を忘れたくせして、ごく普通に俺を小馬鹿にしやがったぞ。


『あのさ、見たい番組があるから帰っていい?』

『もちろんいいわ。そうそう、傘は私の下駄箱のあたりに置いてね』

『なんでやねんな! 俺と傘は切っても切れない仲なんですー。残念でした。あばばばばー』


 あ、ヤベ。言い過ぎた感じがする。

 しかし送信ボタンを押してしまった後だし、既読チェックもついてしまった。じっとりと嫌な汗をかいているときに、こんな一文が目に入る。


『いまそっちに行くわ。決して逃げたら駄目よ、誠一郎。許されないわ』


 おほーっ! こわっ!

 うーん、相変わらずテキスト文だけで殺意を滲ませる女だな。寒気もするし、もしかしたら風邪かもしれない。うん、無理をしたらいけないな。


「さーってと、まっすぐ帰りますか」


 帰るまでが学校なのだし、気を抜かず早足で行こう。そうしよう。

 などと思いながら傘をポンと開いたときに、背後から声をかけられた。


「群青君、もう帰るの?」

「ユウリか。お前は傘を……っと、なんでもない」


 ぬうっと後ろから現れた東堂が傘を開くのを見て、言いかけの言葉を飲みこんだ。


「群青君、勉強会の件はもうちょっと待ってね。お母様次第だけど、きっと許してくれると思うから。お弁当だって許してくれたし、最近すごく優しいんだ」

「おう、あんまり無理をしなくていいぞ。もしできるのなら一緒にするのも楽しいと思うけどさ」


 にっこりとすぐ近くで笑いかけてきて、ひと呼吸置いてからユウリはこう答える。


「うん、楽しみ」


 さらに笑みを深めてから「またね」と鈴の音のような声で挨拶された。一瞬だけ暑さを忘れるような声だったし、なんとなく頬に口づけをされたと錯覚する声だとも思う。


 なんだろ、あいつ。男なのに色気があるな。

 がしっと後ろから俺の肩を掴んできた奴と違って。


「お待たせ、誠一郎。逃げずに待っているなんて偉いわ。たっぷり褒めてあげないといけないわね」

「ああ、ちょうどいま、俺の迂闊さを呪っていたところだ。帰ろうぜ、雨ケ崎」


 一瞬だけ暑さを忘れたけど、背後から猛烈な冷気を浴びてしまい、今度こそ生きた心地がまるでしなかった。

 はー、相変わらず黒魔術でも覚えていそうだな、こいつは。


 ちなみにこのあとたくさん毒を吐かれたけど、精神的な汚染が心配されるのでここには記さない。




 ぱしゃぱしゃという2人の足音が辺りに響く。


 いくら大きめの傘でも、この土砂降りだと防ぎきれない。

 しっかりと腕に抱きついてくれるのは嬉しいといえば嬉しいが、実際のところはお互いにどれだけ濡れずに済むかという領地の奪い合いみたいな状態だった。いわば内戦だ。


 ようやく家に辿り着いたときは「ほうっ」とお互いに安堵の息を吐いたし、玄関に腰かけた雨ケ崎にタオルを渡すと「ありがとう」と割と素直に礼を言われる。


 張りついた黒髪を指ですくい、それから伏せがちの瞳を向けてきた。


「彼、いい子だけど勘が鋭そうね」

「ユウリのことか? ふわんふわんしているし、鋭さとは真逆な気がするけどな。どうする、うちで風呂を浴びていくか?」

「誠一郎は鈍いから気づけないのよ。ええ、すぐに沸かしてくれると嬉しいわ」


 ぎゅっとスカートの端を絞りながら彼女はそう答える。

 水滴をてんてんとこぼしつつ、こちらを見つめる表情にしばし俺は凍りつく。


 玄関の逆光となった彼女はどう贔屓めに見ても美人の部類だ。あざやかな唇をしており、かすかに透けた下着、そしてもうっとした湿度には官能的な気配を漂わせる。


 なんとなく貴重な光景な気がして目を離せない俺に、雨ケ崎は不思議そうに首を傾げた。


「……どうしたの?」

「いや、なんでもない。風邪ひくなよ」

「?? ええ、気をつけるわ」


 日々気づかぬうちに美しくなっていく。花が開いてゆくように雨ケ崎は自覚なく成長しているし、その気がなくとも勝手に異性の目を吸い寄せる。


 ここ最近、なにかと悩むようになったのは案外とそれが原因かもしれない。根拠もなくそう思いつつ、ジャッとバスタブに湯を張り始めた。

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