第17話 ふたりきりのお泊り会
きっかけは親からの連絡だった。
今夜は遅くなると両親から連絡があり、また雨ケ崎のご家庭はというと、そもそも家にいること自体が珍しい。
そのような状況を伝えると、寝転がって漫画を読んでいた彼女は「ふうん」と気のない返事をした。
もうひとつのきっかけは「なにか作るか?」と尋ねたことだ。
彼女は「なにが作れるの?」と聞いてきたので一緒にキッチンの冷蔵庫を開けに行くと、ふっと家中の明かりが一斉に消えた。
愛犬のイザベラは大人しくて滅多なことでは吠えないけど「オウッ」と小さく鳴く。
大して電気を使っていなかったので停電だろうと思い、いつもの場所の懐中電灯を手にして点ける。これが3つめのきっかけだ。
ごく平然と「カレーでいいか?」と俺は言ったところ、辺りをきょろきょろ眺めていた雨ケ崎が「どうして誠一郎は動じないのよ」と意味の分からない文句を言う。
「男子たるものそう簡単に不安の表情を見せてはいけない。ばあちゃんの口癖でさ、不安の表情って嫌なことばっかり招くんだって。本当かどうかは知らないけど……んー、ハンバーグもできるな。どっちがいい?」
「悔しいけれどハンバーグと答えざるを得ないわね」
「ン、じゃあ決まり。問題は白米だなぁ。炊飯器が使えないとなると……そうだ、冷凍していたやつを処分しよう」
むんずとつかんだ食材をまな板に並べて、雨ケ崎は明かりを照らし、俺が調理するという幼馴染っぽい連携が始まる。
このときふと日中のことを思い出したのが運命を決定的なまでにねじ曲げた。そう思う。
「あのさ、これに懲りたらもう変な誘いに応じないでくれないか。心配だし、そもそも雨ケ崎は男というものが分かっていないと思うしさ」
数秒ほど彼女は返事をせず黙っていた。少し言い過ぎたかなと不安になり、振り返ると――予想とまったくの正反対、三角の瞳で俺を睨んでいた。
「馬鹿ね、それくらい知っているわ。誠一郎こそ手を握っただけで真っ赤になって。ああいうときは『雑魚』と呼ぶのが正しいらしいわ。ざぁーーこ」
「お、おいおいおい、なに言ってんの!? そっちだって無言でうつむいてたじゃん。え、まさかあれが君の言う普通なの? ぎゅーって握ってきて痛いくらいだったよ?」
ごすっと尻を膝で蹴られて……俺の尻があああーーっ! ママーッ!
玉ねぎを刻んでいるというのにこの仕打ち。信じられないよ。馬鹿なの、この女!? ちょっと美人だからって己惚れてない?
「う、ウガちゃん? やっていいことと悪いことが……いっでえっ!」
「その呼び方、やめてと言ったわよね。これは教育であって暴力ではないと知りなさい」
教育の定義を崩壊させる気か、この女は!
しかもまったく同じ場所を蹴ってくるし、尻の部位破壊でも狙ってんの!? お願いします、物理的な教育はもうやめてください!
くそったれめと思うけどお夕飯の用意を進めねばならない。わなわなと肩を怒りで震わせながらも俺は口を開く。
「警戒心がぜんっぜん足りてないよね」
そう言うと、雨ケ崎の眉がさらに吊り上がる。またお尻を狙うんじゃないだろうなと警戒しつつ、言いたかったことを口にした。
「でも怖いと思ってくれたなら次からちゃんとできるだろ。大きな声で助けを求めたり、そもそも危ないところに近づかないとかさ。いつだって俺が駆けつけられるか分からないんだから」
言いたいことを言い終えて「それだけ」と最後につけ足す。
窓の外から雨の音が響いており、だから背後からの邪気に気づけなかったのだと思う。普段よりもトーンの低い雨ケ崎の声が聞こえた。
「あなた、まるで私が子供だと思っているような口ぶりね。助けることを義務のように考えているようだし、いい加減腹が立つわ。ねえ、ここではっきりさせていい?」
ぎしりと身体が凍りつく。
うあ、出た。広範囲毒攻撃の予兆だ。
疑問形で訊ねてくるときはいわゆる溜め攻撃であり、こちらの反論ごと打ち砕く一撃を準備している。しかし黙っていても次のフェーズに勝手に進んでしまうので、無言でいることだけは選択肢として絶対にあり得ない。
「悪いけど、ご飯を作ってからでいい? その後ならちゃんと聞くからさ」
「…………仕方ないわね」
ごめんねと謝ってから料理を再開する。それと同時にひっそりとほくそ笑む俺。
これだよ、これ。この選択肢はベストだったね。
はっきり言うけど、いまの返事以外だったら即死していたと思う。そんなバカなと笑う奴に限って、このあと漫画みたいに「ギャッ!」と悲鳴を上げて砕け散っていたよ。
ご飯を作ってもらう負い目があり、またお腹が減っている時間でもある。そうなると「そんなのいいから話を聞きなさい」とは言いづらい。
ちなみにこれは完全な余談だが、女性というのは溜め攻撃の使い手が多い。
嫌な目に遭わせたとき「ううん、ぜんぜん気にしてないよ」と言ったときこそ要注意だ。なぜなら負の感情はいつまで経っても消えることなく蓄積されており、もしもぼけっとしていたらいつか必ず大爆発する。
これこそが「そんな小さなことで怒らなくても」という有名なセリフを生むゆえんである。
「要はその前のガス抜きが……っと、なんでもない。そろそろ焼き始めるからご飯も蒸しておくか。ガスしか使えないからだけど、蒸したほうが絶対に美味しいよ」
「あなた、そういうところだけ細かいわね。主夫にでもなるつもり?」
「あのな、そんな物好きな相手いるわけないだろ」
「それもそうね。男なら別だけど」
「まずその同性愛思考を捨ててくれ」
こいつ、前々から思っていたけど男同士の恋愛には妙に寛容すぎない? もしかしなくても部屋に何冊か怪しい本を隠しているんじゃないの?
ひき肉をペッタンコとコネながら、どうせなら野菜も一緒に蒸すかと思い直す。せいろなので上は温野菜、下はお米解凍という分担にできるしな。
別に料理好きじゃないけど親が不在がちだし、そのためにお買い物につきあっていたりする。要は自分で食うものを確保しろという親からの教育だ。
ちょっとは役に立つんだぜ。ひもじい思いをしないで済むし、家庭科で披露したり、じょわっと焼き上がりの美味しいハンバーグをこうして作れたりとかさ。
「ん、停電がずいぶんと長いな。雷の音とかした?」
「地方は停電が多いものよ。むしろ東京だと復旧の早さに驚くわ」
配膳を済ますとテーブルに蝋燭を灯して、俺と雨ケ崎は向かい合って座る。停電は思いのほか長く、今夜の食事は雨の音しか響かない。
いただきますと言い合って、それぞれ箸を伸ばした。ハンバーグ、ほっくりと蒸した温野菜、そして蒸した白米とお味噌汁。ごくごく普通な夕飯だけど、このとろりとした舌触りはなかなかだ。
気をつけるのは白くなるくらいしっかりコネることで、あとは放っておいても美味しくなる。
お子様の好きそうなソースと絡めて食べると旨味と一緒に油が溢れてきて、単なるひき肉とは思えない味わいに変わっていた。
「うん、美味しいわね。誠一郎が作ったと思わなければ」
「文句を言うなら食べないでくれますー?」
「言ったでしょう。そう思わないように全力を尽くしていると」
「じゃあ俺が作ったと思ったら?」
「食べたことないけれど、ゾウリムシがきっとこんな味ね」
「世界中のゾウリムシさんに謝れ」
などと言い合いはするが基本的に俺は食事中にあまり会話をしない。視界の端っこにいるイザベラが、てうーっとよだれを垂らして待っているからだ。
専用の餌入れの前にきちんと座り、早く食べたそうにしているのだから無駄な会話は減るだろう。
ソースと絡めた温野菜もまずまずで、素朴な甘みが口に広がる。雨ケ崎もお気に召したらしく、ほんのちょっとだけ嬉しそうな顔をして白米をパクリと食す。
そのとき大きな瞳を向けられた。
「さっきの話の続きだけど、もしも私を子供扱いしているのなら怒るわよ」
「まさか、俺のほうがどう見たってガキだろ」
それはそうよね、という表情で雨ケ崎は何度かうなずいてからまた食事に戻る。しめしめとしか言えんよ。
な、こうやっと問題を後回しにしたほうが正解だったろう?
カッとした感情は時間が経つと収まり、また美味しい食事は言うまでもなくストレスを軽減する。すぐに俺も謝ったし、それらを合わせるとガス抜きとして十分な効果があるのだ。
ただしそんな思惑は、あくまで「常識の範囲」であって相手が雨ケ崎だとミスる場合がある。やはりこのときも俺の常識では測れないことを口にされた。
「だけど守ってもらう必要はないわ。男性のことはきちんと理解しているし、どうすべきかも私は分かっている」
「本当に?」
いまのはついポロッと口から出た言葉だし俺の本心でもある。言わないほうが良かったのは分かるけど、言っちゃったものは仕方ない。
もぐりとハンバーグを食べながら視線を向けると、やはり先ほどの怒りがぶり返している表情だった。
せっかくの食事の席だけど、俺にだって言いたいことはある。さっき口にしたこととは異なる、もっと具体的なことを俺は言う。
「じゃあ、試しに今夜はここに泊まってみたら? いつもと違って親がいないけど、俺のことならみんな分かっているだろうし、何度も泊まっているから怖くないだろう?」
「怖い? なにを言っているのか分からないわ。ここに泊まってなにが分かるというのかしら?」
「男と女は違うってことかな」
うろんな瞳を向けられる。唐突に変な提案をされて、意味を探ろうとする瞳だ。しかしいくら考えたところで理由はごく単純なことだよ。
両親のいない状況で男性と女性がひとつ屋根の下で寝泊りしたら、さすがに警戒したり怖がったり、そういう普通の反応をするだろうと思ったんだ。
それと彼女はきっと断る。こんな挑発じみた誘いに乗る性格ではないし、そもそもメリットがひとつもない。
「いいわ、別にそれくらい」
「だろ? そういう風に警戒して欲しいってことを言いたかっ……なんだって??」
「あらあら、その顔はどうしたのかしら。誠一郎の部屋に泊まるくらい私にとってわけないわ。どうせゲームして漫画を読んで寝るだけだし、朝に弱いから起こしてもらえそうで良かったわ。ね、誠一郎?」
ニヤァーという笑みをそのとき彼女は浮かべた。性格の悪さを示す顔であり、また断ると踏んでいた俺を嘲笑う表情でもある。
こいつ、信じられねえ。メリットがひとつもないのに俺への嫌がらせというだけで応じやがった。
「さて、見ものだわ。いったいどちらが先にボロを出すのかしら。まさかと思うけど、ドキドキして眠れないなんてことにならないでしょうね」
「はっ、なにを言っているんだ、この性悪お嬢様は。謝るのならいまのうちだぞ。俺だって……」
「最近、雨続きで蒸すからいつの間にかパジャマを脱いでいるときがあるの。今夜は一緒のベッドで寝るけれど、恥ずかしいから見ちゃだめよ、誠一郎」
演技だと分かりきっているけど、顔を赤らめてそう言われると……おっきした。なにがとは言わないけど、おっきくらいするわボケナス。
弱った相手を追い詰めるのが大好きな女性でもある。がたりと椅子から立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる様は毒蛇のようだった。あくまでの俺の目から見たら、だけど。
「最近、男子の目がすごく気になるわ。女性ってそういう目にとても敏感なの」
「あ、そ、そうなの。大変っスね」
ほどいた黒髪を指先でくるくると巻きながら、テーブルの端にお尻を乗せる。
くそっ、相変わらずいい尻をしやがって、などと胸中で文句を言っているときに大きな瞳を向けてきた。胸元のボタンをひとつ外したまま。
じいっと見られている。
誘っているんだ。彼女が無言になったのは俺の意識を誘導したに過ぎない。雨ケ崎の胸元を見るように仕向けられている。
対する俺はボロを出したくないのでうつむいたままだ。
「さっき、ちらりと見たわよね。お風呂に入る前に」
「あれってわざと見せたんじゃなかったの? そっか、ごめんね視界にたまたま入っちゃって。それで、おっぱいがどうかした? 見たところ標準よりちょっと下じゃない?」
顔を上げて俺はそう言う。
腕組みをしたまま雨ケ崎は眉をピクッとさせたし、背後に負のオーラが漂いつつある。そのイライラした表情に「こいつ昼間のショックがすっかり消えているな」といまさらながらに気づいて俺は焦った。
ヤバいじゃん。理不尽なまでの毒攻撃が復活しちゃったじゃん。
でもさ、不可抗力のことで怒られるのって嫌じゃない? おっぱいの谷間をちらっと見ただけだし、やましい気持ちもちょっとしかなかったし。ほら、ノーカンじゃん。
「あら、そう、あなたってすごく面白いのね」
蝋燭の明かりに照らされた顔が迫り、その冷たい瞳にゾッとした。
こいつ、今夜ついに俺を殺る気だ。これまでに何人葬ったかは知らないが、そこにもう一人加えられる。それだけは分かった。
こうして両親のいないなか、女性と同じベッドで眠ることになった。
しかも女子高生となり色気を増した雨ケ崎を相手に。
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