第15話 慣れてはいけないこと

 しとしと雨が降る光景というのは気が滅入るからあまり好きじゃない。いや、好きな奴なんていないかと思っているときに消毒液が口の端に塗られた。


 昔は脱脂綿でぽんぽんと塗りたくられて「痛い!」と悲鳴を上げるのが普通だったらしい。しかしいまは大して沁みないし、傷口を覆うのもガーゼから被覆材ひふくざいに変化した。


「ふうん、女の子を助けるなんて立派だけど、その顔は誇らしいわけではなさそうね」


 そう眼鏡越しに言ってくるのは保健医の先生で、ふっくらとした唇が魅力的な人だと思う。会ったのはこれが初めてだし、そもそも就任2日目だ。


 以前の保健室の先生は産休をとっており、また高校では養護教諭を置くことが義務ではない。そんな空白の期間に彼女は唐突にやってきた。オズガルド家の嫡男が転校してきたその日に。


「先生もユウリの……オズガルド家に雇われているんですか?」

「そうよ。ついでに言うと、さっき昼食の様子を見ていたわ。君のことを危ない子かなと警戒したんだけど、いまは正反対の意見かな。やり返さないし、相手のことをすぐ先生に伝えるなんて普通はできないわ」


 つんつんと被覆材ひふくざい越しに頬をつつきながら、黒髪を後ろにまとめた先生は笑みを見せる。やっぱり綺麗な人だなと思いながら俺はうつむく。


「いつものことです。慣れてますし」

「慣れてはだめ」


 きっぱりとそう言われて、うつむいていた顔を思わず上げる。先生は次の傷口を手当てしようと消毒液を片手に笑いかけてきた。


「殴られるのは良くないことよ。それに慣れたり、いつものことだと言っては駄目。これは先生というよりも大人としての忠告。そこの雨ケ崎さんも、ちゃんと分かった?」


 すぐ隣の椅子に、膝を合わせて座っていたのは雨ケ崎だ。

 なにも言わず声も立てず、目元にハンカチを押し当てながら泣いていた。大きな瞳を腫らしており、その瞳が俺に向けられる。やはりなにも言わずコクンとうなずいて、透明な涙がぽろぽろっとまとめてこぼれた。


 反対の手で俺の裾をつまんでおり、こういうところは子供のころと一緒なんだなと思う。

 それを見ていた先生が瞳を向けてきた。


「仲がいいのね。幼なじみだって聞いたけど、ずっと一緒だったの?」

「そう、ですね。割といつも一緒にいたと思います。もちろん小学生くらいのころの話で、最近はそこまでではないと思いますが」


 いや、そんなこともないのかな。態度こそ冷たくなったものの毎日のように一緒にいるのだし。

 そう思っていると、ふっと女性は優しく笑う。


「そっか、君たちの姿を見ていると、小さいころの姿も思い浮かぶわ」


 言われた言葉の意味が分からず、思わず俺と雨ケ崎は視線を向ける。すると新任の名も知らない女性は笑みを深めた。


「ユウリ君は特別だけど、とても優しい子よ。君たちが友達になってくれたら、きっとたくさんの人が喜んでくれると思う。それと同じくらいたくさんの障害があるけれど仲良くしてあげて」


 思わず雨ケ崎と見つめ合う。

 どんな障害があるのか分からなかったし、てっきり反対されると思ったんだ。もうひとつ加えるなら「障害がある」と断定したことだろう。


 会話によって雨ケ崎の涙はだいぶ引っ込んだものの、まだ鼻を赤くさせていた。

 目指せ玉の輿などという決して褒められた動機ではないが、あいつとは元から友達になるつもりだった。性格もいいし顔もいい。きっとたくさんの友人がいるだろうと思っていたけど、もしかしたら事実は真逆かもしれない。


「今日、ユウリと友達になりました」

「あら、良かったわね。きっと家でたくさん自慢話を聞かせてくれるわ」

「それと雨ケ崎を助けてくれました。上級生に呼び出されていたのを俺に教えてくれたんです。すごく勇気のある子だと驚きました」


 窓の逆光になっている先生はしばらく押し黙り、取り出したハンカチでそっと目元をぬぐう。苦しそうな息を吐き、深呼吸を数回ほどしてからようやく落ち着いた。


「ごめんなさいね、みっともないところを見せてしまって。ええ、ユウリ君は優しいのよ。それにすごく立派。君たちともきっと仲良くできるわ」


 外した眼鏡を手に、にっこりと彼女は笑う。やはり女性的な優しい人だとそのときの俺は思った。


 やがて校内に下校をうながすチャイムが鳴り響く。

 手当てしてくれた女性に礼を言い、俺と雨ケ崎は頭を下げてから保健室をあとにした。



     §



 その数分後、がらりと戸を開けて入ってきたのは体育を担当しているゴリラ先生だった。授業中と同じ緑色のジャージ姿であり、困ったように短い髪を掻く。


「うちの恥ずかしいところを見せて失礼しました」

「どこの学校もそういうものよ。でも多人数で下級生を痛めつけるのは感心できないわね」


 先ほどと同じ種類の笑みを見せて、くいっと指先で招く。すると観念したように入室をして彼は後ろ手に戸を閉じる。

 室内には雨の音だけが響いており、わずかに緊張を見せながら体育教師は椅子に腰かけた。先ほどまで群青が座っていた椅子だ。


「それで、彼らをどうするの?」

「問題を起こした生徒ですか。これから親を呼び出します。本人の話を聞いて、もしも反省の色を見せなければ停学処分です」


 きっぱりとそう言う様子に、雨模様を眺めながらくすくすと女性は笑う。よほど面白かったのか脇腹を抱えて、苦しそうに身をよじらせる。それから「はーーっ」と息を長く吐き出した。


「素行の悪い生徒にとっては優しい国だわ。学校の方針についてとやかく言うつもりはないけれど、校内の問題については学校側が全責任を負うことね」


 その迫力ある笑みを見て、体躯の優れた先生は喉をごくりと鳴らす。

 全責任を負うのは教育者として当然の責務である。しかしこの場合は責任があまりに重すぎた。そもそも富豪の息子を預かれるほど環境が整っていないのだ。


 文句も言わず会釈をして立ち去ろうとする姿に「菊池先生」と軽やかな声で呼び止める。そして白衣姿の彼女はヒールを鳴らして近づき、じっとりと脂汗を流す男に笑いかけた。


「バレーの試合、結果はどうなったの?」

「はっ? ええ、まあ、ご存じではないのですか?」

「勝敗は知っているけれど、丸刈りになったのかどうかまではさすがに知らないわ」


 変わったことに興味を持つご婦人だ。一瞬そういう表情を浮かべたあとに、彼は初めて笑い返す。


「学校で体罰は厳禁です。丸刈りなんてさせませんが、今日の勝者はあの勇気ある青年ですね」

「あら、そう、面白くないのね。でも彼は意外と面白いわ。もしかしたら私のところで預かるかもしれない」


 しばし悩み、反論の言葉をどうにか体育教師は飲みこむ。誰のことを言っているのか理解して、またこの先もどうなるか予想のついている表情だった。

 そしてうやうやしく一礼をするとこう言う。


「はい、ネイゼラ・アヌーク・オズガルド様」


 窓を背にした逆光のなかで、その女性は笑みを深めた。彼女もまた雨の似合う女性だった。

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