第10話 テンパったと言わざるを得ない
夏の制服からダサいジャージに着替えるや、雨ケ崎は黒髪を後ろにまとめながらホワイトボードに近づいてゆく。
手にしたのは専用のペンであり、おいでおいでと招かれて俺と愛犬のイザベラが近づいた。片方は尻尾をふっており、もう片方は仏頂面だ。
「あのさ、なんで俺の部屋に集合するの?」
「あのまま屋上で話していたらイザベラがさみしがるからよ。前々から思っていたけど、あなたは飼い主としての自覚が足りないわ。なるべく家にいるようになさい」
きゅぽんとペンの蓋を外しながら彼女はそう言う。そしてホワイトボードに走らせると、どこかで見たような顔が描かれた。
ふわふわな雰囲気の王子様、ユウリのイラストである。
しかし狙っていた富豪の相手が、まさかふわふわのお花畑な感じの奴とは思いもしなかったな。
「……絵、うまいな」
「意外と良く描けたわね。あ、誠一郎、写真を撮っておいて頂戴」
ぱしゃこーっと数枚ほど写すことしばし。画像データを送ってから俺たちの秘密会議は再開された。
肝心の進行役である雨ケ崎が、ほっくりとした表情で画面を眺めていて役に立たないから俺がペンを手にすることになったがな。
「じゃ、始めるぞ。作戦名はユウリ陥落作戦でいいのか?」
「話が早いわね。初めて幼なじみがいて良かったと思えたわ」
へいへいと耳をかっぽじりながら聞き、まずは先ほどの作戦名をボードに記す。じゃれつくイザベラを撫でながら、雨ケ崎は俺の隣に並んだ。
「それで、どういう風に作戦を立てるんだ?」
「正解の筋道なんてないわ。この場合は目標に到達するまでのステップを決めましょう。第一歩は彼とお友達になること」
「意外だな。まともなことを言うなんて。てっきり誘拐でもするのかと思った」
「イザベラ、ご主人の首を噛み千切りなさい」
おいおい、作戦本部が早くも血の海になっちまうぞ。
イザベラは大人しい子なので、もちろん噛みついたりなんてしない。その代わり、お留守番に飽きていたぶん甘えてくる。
人の体温が好きらしく、姿が見えないときは大抵俺の足元で寝そべっていたりする。顎を乗せるのもお気に入りで、ふりふりと尻尾を振りながら俺を見上げていた。
「じゃあ第一歩は友達からだな。だけど新任の東堂とかいう男。あいつは絶対にお目付け役だぞ。おまけになぜか黒服の男もまぎれこんでいたし、ガードは硬そうだな」
「ええ、そっちは私が動くわ。最も穏便に済む方法を選ぶつもりよ」
「そのセリフと表情がもう不穏だけどな」
こいつは見た目以上に陰険で冷徹な性格だ。どんな手を打つかは知らないが、あの黒服どもは今ごろゾクッと寒気がしているんじゃないか?
しかしそんなことよりも府が落ちない点がある。俺にしては珍しく言い淀みながら口を開いた。
「雨ケ崎、男と交際したことが一度もないんだろ? もしも交際できたとして、本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫って、どういう意味かしら?」
「その、男とつき合うことの意味を分かっているのか?」
そう言うと、じっと雨ケ崎に見つめられた。いつもの無表情でありながら、俺の言葉の意味を吟味しているような感じがする。
しかし俺は大したことを言っていない。
男女の交際は自由だし、とやかく言う筋合いはない。だからこれ以上うるさく言わないつもりだけど、心配であることに違いはないんだよね。
尚もじっと見つめられても俺は目を逸らさないよ。大事なことだと思っているし、なんだかんだ言いつつも雨ケ崎のことは気に入っている。
あのときこう言っておけば良かったと後悔するよりも、真正面から向き合ったほうがずっといい。
普段よりも強気な瞳だと思う。強情なだけなのか、そうじゃないのか。紺色がかった瞳には見えぬ迫力があり、しかしけろりとした態度の俺に雨ケ崎は溜息を漏らす。
「こういうときだけは引かないのね」
「引いて欲しいならそうするけど、一応とお前の本音を聞いておいたほうがいいと思う。これでも長いつき合いだし、嫌ったりなんてしないからさ」
犬というのは人並みに空気に機敏らしく、いつの間にか俺と雨ケ崎のあいだに立って心配そうな瞳で見上げていた。
これは喧嘩じゃないよという意味で頭を撫でると、雨ケ崎の手もまたイザベラの毛並みを撫でる。ふふっと小さく彼女が笑うと、ほんの少しだけイザベラも安心してくれた。
「いいわ。あなたとは腹を割って話すことにする。こう見えて私には些細な理想があるの。そのためなら少しくらい傷ついても構わないわ」
気丈な瞳でそう言われては「そっか」としか俺は言えない。お金持ちになりたいという漠然とした憧れとは、やっぱりどこか違うなと気づいたんだ。理想というよりは野望という言葉のほうが、この表情だときっと近しい。
「仕方ない。なら協力するか。お前を放っておくよりも、そのほうがずっとマシだしさ」
「そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいのに」
「嫌々に決まってんだろ。俺なんて交際どころか女の子と手を繋いだことだってないんだぞ」
ふうん、と言って雨ケ崎は自分の手をじっと見る。
もしかしたら先ほど口にしたことが影響したのかもしれない。分からないが、ほんのちょっとだけ悩んだあと彼女は俺に手のひらを向けた。
「手、にぎってみる?」
「……は?」
「さっきは男女の交際で偉そうなことを言っていたけど、本当に免疫がないのは誠一郎よ。そのことを分からせてあげるわ」
ばっか、免疫ってお前、ばっか。それくらいあるに決まってるじゃん。いつもお前が部屋に入りびたっているし、イザベラだってれっきとした女の子だし。
しかし不敵な顔で差し出された手にはちょっとした抵抗感というか心の葛藤があり、ひくっと俺の頬が震えた。
「……い、いいけど」
「そう、なら覚悟なさい――こんな感じかしら」
ぎゅっと握られた。
すべすべの肌が触れてきて、それが指と指のあいだに収まる。
言葉で表すなら「ぎゅっ」に過ぎないけれど、ちょっと想像と違うというか手首から腕まで直に素肌が触れてくるものだから……無言になるよ、これ。
だって驚くほど手が小さいし、すっぽりと隙間に収まるんだ。力を込め過ぎたら折れてしまうんじゃないかとか、本当にこういうときって考えるんだね。
見れば雨ケ崎も思うものがあるらしく、口元を指で隠しながら「わ、わ」とか呟いていた。もちろん俺も同じ顔だ。
「こ、これ、けっこうクるわね。計算外だったわ」
「お、おお、おお……」
ごめんごめん。さっき偉そうに言ったけど、やっぱり俺は……いや、俺たちはまるで分かっていなかった。
男女の交際というのは手をつなぐなんて当たり前なことなのに早くもテンパっている。
「おいおい、雨ケ崎、これってかなりレベルが高くないか? 想像とぜんぜん違うんだけど」
「た、高いわね。私としていたことが交際というものを舐めていたみたい。腰にもクるし、脚だって震えている。これで外を歩き回るだなんてとても信じられないわ」
ひゃー、である。
その一言がもっとも俺の心境に近い。
雨ケ崎も頬どころか首元まで赤く染めているし、ちらりと見つめてきた瞳がまた印象的だった。
それが恥ずかしかったのか口元を手で隠し、そのまま彼女はそっぽを向く。しかし握り合った手はというとまるで離れることはなく、ぎゅーっと力を入れすぎて白くなっていた。
「だ、駄目だわこれ。変な感じがするし腰の力がどんどん抜ける。封印しましょう」
「だな、俺達にはまだちょっと早すぎる」
コクコクと小刻みに頷きながら、ようやく雨ケ崎は手を離した。
はーーっ、と長い長いため息を吐き出して、俺たちは近くのソファーにぐったりともたれかかった。口から魂が漏れそうな放心した姿で。
同時に大富豪陥落作戦は早くも暗礁に打ち上げたことを知る。その理由は言うまでもない。男女の駆け引きどころか恋愛に対する感性がお子様レベルだったのだ。
どうしよう、とうつむいたまま雨ケ崎はつぶやいていた。
あーあ、だから俺は言ったのに。
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