第4話 雨ケ崎は金持ちとの結婚願望がある

 ちゅーっ、と小気味良い音を立てて紙パックのオレンジジュースが吸われてゆく。

 対する俺はというと道端にあるでっぱりの上を歩いており、なんでもないような顔をしている。くやしがったら思うツボだし、これ以上あいつを頭に乗らせたくない。


「もしかして今日こそ勝てると思ったの?」

「負けてねーし。あんなのズルだし」


 おっとしまった、今のは完全にくやしがっている奴のセリフだ。小学生じゃないんだぞと反省しつつ、気を落ち着かせるために深呼吸をする。


「言うほど負けてない気もするけどな」

「あら、おめでたいのね。こうして現物が私の手にあるというのに。うーん、あなたから奪ったジュースは甘くて美味しいわ」

「うわ、今日一番の笑顔だ」


 ふふん、という得意げな顔を見ると、思わず頬っぺたをつねりたくなるな。しかし肉体的な苦痛を与えるのだけは絶対に避けたい。こいつはそういうのが大嫌いで、この俺が引くくらい不機嫌になるんだ。

 奪われたジュースは悔しいが、フイッと視線を逸らして一面に広がる海を眺める。風が強くて、半そでの制服がはためいてボボボという音を鳴らす。


 日々このような潮風を受けていても不思議と雨ケ崎の髪はなめらかで、奔放に風に揺らしながらも光沢を帯びていた。他と比べて肌が白いのも特徴的で、整った顔と相まって彼女は周囲よりもずっと目立つ。その彼女の瞳が俺に向けられた。


「もうこれきりね。登下校は別にするわ」

「だな、今朝みたいに変な噂が立っても困るだろうし」


 当たり前のようにそう返す。

 幼なじみというのは面倒で、きっと仲が良いのだろうと周囲が勝手に思う。だけど実際はすごく仲が悪いし、会うたびに悪口ばかり言い合っている。先ほど屋上で彼女が口にした大学受験を終えれば自然と離れ離れになり、幼なじみがいたことさえ忘れるだろう。


 ただ、遠回りなこの道を彼女も選んでくれて良かった。


 たまに海を見たくなる。

 苦しいときや悲しいときに。

 嬉しいときはどうでも良くて、家でゲームでもして過ごしているんだけどさ。一人ぼっちで見ずに済んで、まあそこだけは感謝しているかな。

 明日からはまた疎遠になるようだし、いまのうちに聞いておきたいことを口にした。


「さっき言っていた件のことだけど、雨ケ崎は本気で金持ちと結婚したいのか?」

「そんなことはないわ。富裕層のうちの上流にあたる人は0.15%しかいないし、それに固執するのは時間の無駄だと思っているわ。過ぎたるは及ばざるが如しね」


 うん、それを聞いて少しだけホッとしたし、不安にもなった。比率まで知っているとか、やっぱり本気じゃないのか?


 なんとなく彼女の場合、こうと決めたら実現しそうな気がするんだ。そのとき彼女は高価な宝石を身にまとい、そして俺のことを完全に忘れ去っていそうな気がする。

 お互いに存在を忘れるならそれでいい。でも一方的だと少しだけ事情が変わって、胸がチクッとするんだ。絶対にそんなこと口にできないけど。


 そっか、と返事をしたときはもう海が見えなくて、今朝と同じ広大な工事現場の光景だった。息苦しいと感じたのは、もしかしたらこの光景のせいだったかもしれないな。


 朝のときと同じように俺たちは挨拶を交わすことなく、それぞれの家のドアを引き、そして姿を消した。さようならというお決まりの言葉さえない。




 がちゃり、と玄関を堂々と開けてみせたのは雨ケ崎だ。呼び出しのチャイムさえも鳴らさずに。

 体育で着るようなジャージ姿であり、またその服装が似合わない肌の白さでもある。あんぐりと口を開けた俺を押しやり、そして目当てである動物に抱きついた。


 べろんべろんと学校で最も美しい女子を舐めるもの。それは血統書つきの大型犬であり、鎖骨のあたりに鼻を押しつけてクンクンクンとたっぷり匂いを嗅いでいた。


「くふふ、イザベラ、そこは少しくすぐったいわ。あら、少し太ったかしら。誠一郎、きちんと食事の量は守っていて? この子を肥満にさせたら絶対に許さないわ」


 ぬけぬけとそう言う女に、俺は頭を抱えたかった。いや、実際に頭を抱えていた。先ほど意味ありげな別れをしたというのに、ものの5分とかからず着替えを済ませてやって来たのだ。

 なにも言わずに別れたとき、こいつはさっさと着替えて遊びに行こうとでも考えていたのだろう。


 こんなのだれだって俺と同じ反応をするに決まっているし、なんて言っていいか分からずにぶるぶる震えるしかない。


「お散歩しましょう、イザベラ。誠一郎もはやく着替えなさい。今日は予定を変えてドッグランに行くわ」

「……あのさ、なんで俺まで?」

「あなたが飼い主だからでしょう。お財布もちゃんと持ってきて」

「そこの海岸でいいから! ドッグランなんて行ったことないからぁ!」


 わっと俺は泣きそうになった。こいつの犬好きは本物で、毎日毎日いりびたるし、そのせいで俺は強制的に帰宅部しか選べない。リビングでごろごろして過ごすし、夕飯時までゲームをして遊んでいるんだ。


「あ、あ、誠一郎、誠一郎。大変よ、この子が散歩という言葉に反応してしまったわ。急いで支度してくれるかしら」

「だからもおおおーーっ! 分かった分かった。こら、イザベラも興奮し過ぎない。座れ。クールダウンだ」


 面倒くさいなあ、と言うようにイザベラは大きな瞳を向けてきて、命令を無視して雨ケ崎に視線を戻す。甘えさせてくれそうだからだ。

 もちろん主人として愛犬の甘えは許さない。いけない。だめだ。と指示を繰り返すのだが、どうしていいか分からない雨ケ崎だけがオロオロしていた。


 はあ、と大きなため息をひとつする。なんでこのお嬢様は犬のしつけがぜんぜん分からないのかなぁ、と思ったんだ。


 それから散歩にぴったりのリードを持ち、腹黒極まりない雨ケ崎と一緒に玄関から外に出る。毛でふさふさのイザベラは、嬉しそうに尻尾を左右に振っていた。

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