第3話 男か、それとも女か

 金網に手をかけて、しばらく俺は海を眺める。

 そしてたまたま屋上にいて、たまたま同じ景色を見ている彼女に話しかけた。


「高校って、そんなに面白くないな」

「……そういう思考回路も似ているのかしら。かといってクラスの子みたいに東京に憧れたりはしないけど。誠一郎、あなた大学はどうする気?」


 視線を合わせないまま「ああ」と俺は曖昧ににごす。

 小学校、中学校と卒業して高校生になったけど、基本的にはどこも同じだった。ただ授業が難しくなるだけで、息苦しさはどこにいても変わらない。だから大学も大して期待できないのでは、と思うんだ。


 いつまでも返事をしない俺に、雨ケ崎は業を煮やしたらしく瞳をこちらに向けてきた。陽を浴びると分かるけどほんの少し紺色混じりで、こういうときに「魔女なんじゃないか」と馬鹿げたことを俺は思う。


「そういう雨ケ崎だってどうするんだ?」

「理想で構わないなら、驚くほどのお金持ちの方とお近づきになりたいわね。働いて稼ぐという無駄な過程プロセスを踏みたくないし」


 しれっとそう言われて、俺は手にしていたオレンジジュースのパックを握りつぶしそうになった。人生を舐めているどころじゃない。労働の義務を学生のうちから放棄しようとしているんだ、この女は。


「あ、そ、そーなんだ……がんばれよ」

「どうやら私を小馬鹿にしているようね。いいわ、誠一郎。お金持ちがどうやってパートナーを決めているかを知っていて?」


 表情のひとつも変えずに雨ケ崎は変わったことを言う。

 急に問いかけられた俺はというと答えをまったく導き出せない。お金持ちがどうやって結婚相手を見つけるかなんて庶民に分かるわけねえだろ。というか大学の話はどうなった。


 いや待てよ。テレビで見かけるお金持ちセレブの婦人は、どんな特徴があった? 服? 高級車? いや違う。もっと単純で、世の男たちが共感できるものを持っている。


「そうか、おっぱいの大きさだ!」

「顔よ」

「おっぱ……」

「顔よ」


 ずいっと近づいた雨ケ崎に念押しされた。

 無表情であるものの、ズズと効果音が響いてもおかしくないほど雨ケ崎は機嫌が悪い。他の連中には分からないかもしれないが、幼なじみである俺であれば……いや、誰でも分かるか。普通におっかないし、第六感が「逃げろ」と告げているしさ。


「はっ、自分で自分のことを可愛いと言うやつが、セレブになれるとはとてもじゃないけど思えないな」


 そんな俺の反論を遮って、カシャコーッと雨ケ崎はなぜかスマホで自撮りをする。すぐに俺のスマホからペコポンと効果音が鳴って、手元を見ると彼女の撮影画像が映っており……。


「くそっ、相変わらず顔だけはいいなあー!」


 がしゃんっとフェンスを殴りながらそう言った。

 写真は毒を吐かないので、そうなると純粋な可愛さだけが残ってしまう。しかし実物はというと得意そうな顔をしており、指でピースをしているのだから当然のこと腹が立つ。


 ひどい。はっきり言ってひどい。こんなのお見合い写真で使ったら絶対に騙せるじゃないか。完全な詐欺だ。そう思い、じーっと写真を見ながら問いかける。


「これ、壁紙にしていい?」

「消しなさい」


 ひっ、背筋がゾワッとした! ひと睨みで怯えさせるなんて魔女というより妖怪だな、こいつは。

 肩にかかっていた黒髪を後ろに払い、彼女は「まあいいわ」と口にする。


「こんな話、あなたとしても仕方なかったわね。喉が渇いたし、私は先に帰るわ。誠一郎はそこでのんびり海でも眺めなさい」

「お、そっか。お疲れ」


 ぷすっとパックにストローを刺しながら答えると、わずかに雨ケ崎の動きが止まる。じいっと見つめる先には俺のジュースがあり、わずかに思案をすると彼女はこう言った。


「賭けをしましょう、誠一郎」

「は? 賭けるって、いったい何を賭けるんだ?」

「そのジュースを賭けて私と勝負なさい」


 言われた意味が分からず俺はしばし硬直する。胸の上で指を広げた姿勢の雨ケ崎は、いかにも自信たっぷりの顔つきだ。

 しかし賭けたところで俺の利点がひとつもない。ジュースを守るか奪われるかという二択しかないし、そもそもこれは俺が買ったものだ。


「私たちの使った屋上に通じるドア、あれを見なさい」

「雨ケ崎? おーい、頭がどうかしてるんじゃないか? ジュースが欲しいなら自分で金を出して買えば……」

「あそこから次に出てくる者が、男か女かを当てるゲームよ」


 はーーっ、と大きなため息を吐いた。

 下らないし、俺にメリットがなさ過ぎて本当に呆れる……などということはなく、にやりという笑みを隠すために俺はうつむいていた。


 馬鹿め、と笑ったんだ。正直なところ100円ぽっちのジュースなんてどうでもいい。ただクールぶったこの毒舌お嬢様の顔が悔しさで歪むところを見てみたい。地面にうずくまり、己の無知と無能ぶりをただただ味わって欲しいんだ。

 そのような胸に溜まった毒を気取られないよう、表情に注意しながら顔を上げた。


「いーけどさ。じゃあ負けたら今日一日、俺のことを様づけで呼べよな」

「あら、いい度胸ね、誠一郎。では、男か女かを言いなさい」

「男だ」


 悩む素振りを一切見せずそう言う俺に、ぴくんと雨ケ崎の肩は震えた。

 なぜ一瞬たりとも悩まないかって? それは簡単。答えを知っているからに他ならない。思い出して欲しい。この屋上に来たとき、先客はどちらだった? そう、雨ケ崎だ。対する俺はというと、周囲の状況を知る時間があった。


 廊下で部活の準備をする者たちもたくさんいて、そのなかで運動部の連中はユニフォームを着て集合していた。この屋上で活動をするためにな。


 ほら、耳を澄ましてほしい。

 ざっざっと規則正しい足音が近づいていないか? あの力強い足音が女性のものだと思うのか? もしそうなら、お前のおめでたい頭を悔やむべきだ。


 汗をたらりと垂らしながら雨ケ崎はドアに振り返る。そして、とっくにもう詰んでいるというのに、一歩、二歩とドアに向かって歩いていた。往生際が悪く、またそれだけに滑稽だ。俺は果汁100%のジュースを飲み、そして雨ケ崎は「さすがですわ、誠一郎様」と言ってくれるだなんて。


「最高だ、最高のゲームじゃないか!」


 はーっはっはっ、と高笑いをしたそのとき、がちゃっと雨ケ崎がドアを開けて姿を消す。そしてすぐに戻ってくるという不思議な行動を取ったあと、背後に食虫植物が生え茂りそうなほどの邪悪な笑みを浮かべた。


「誠一郎、私が男に見えて?」


 ズズという効果音を響かせる女の子を見て、俺は最初ぽかんとした。直後、たくさんの汗があとからあとから垂れてくる。梅雨の晴れ間という湿度と気温がそうさせるのか? いや違う。ぶるぶる震える指先を彼女に向け、そして俺は怒鳴りつける。


「お前もカウントに入るのは無しだろう、オイイイ!」

「あらまあ、なんて滑稽な顔かしら。その表情をしばらく私の壁紙にしてあげるわ」


 スマホ片手にニチャアという効果音が似合いそうなほどの笑みを見て、俺は心底震えた。ブルッたんだ。この卑劣な女、そして目の前で奪い去られた果汁100%のオレンジジュースというかけがえのない存在に。

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