第1話 こうして朝が始まった

 いってきまー……という17歳とは思えない覇気のない声を出して、俺は玄関のドアを開ける。


 青い空と白い雲。いつもなら天気など大して気にしないが、梅雨の晴れ間とあれば話は別だ。

 過ごしやすい一日になりそうだという思いは、しかしわずか数秒しか続かない。ガチャリと開かれたドアを見て「やっぱり嫌な一日になりそうだ」と意見をひっくり返す。


 癖のない黒髪をシュシュで両サイドに束ねた女性もまた「いってきます」と消え入りそうな声で挨拶しており、ふと俺に気づいたらしく無感情な瞳を向けてくる。その冷たい瞳を見たら、先ほどの爽やかな空気なんて一瞬で消えてしまうさ。


「……あら、どういうことかしら。学校に行く意欲が急に失せるだなんて」

「だよな、俺たち気が合うみたいだし結婚する?」

「絶対に嫌」


 間髪入れず、そう冷え切った声で返事をされた。「結婚する?」の「結婚」あたりにかぶせる感じで。


 あのな、普通なら黙りこくって頬を赤らめながら「本気?」と小さな声で確認してくるのが幼馴染というものだろう。まったく、いつラブコメの定義から逸脱していると気づくんだ。


 かくいう俺もまた返事など分かり切っていたし、そもそも結婚と口にしたのはこいつへの嫌がらせに過ぎない。つまり俺と雨ケ崎は、どっこいどっこいの性悪な性格をしているわけだ。


「嫌よ嫌よも……っていうやつじゃなくて?」

「今度、もしも同じことを言ったら親御さんに伝えるわよ。悲しむでしょうね、息子がレイプ魔と同じようなセリフを口にしたと知ったら」


 おもっ! 仕返しが普通に重い! ドス黒いオーラを撒き散らして笑いかけてくる幼馴染に、正直なところゾッとするよ。

 ふと雨ケ崎は何かに気づいたのか、唇にほっそりとした指先を当てる。


「でもそうね、あなたのこれ以上ない弱みを握ったら考え直すかもしれないわ」


 こいつ、弱みを握って反抗心を完全に奪い去ってから、ようやく夫にするかどうかを考えるのか。我が幼馴染ながら恐ろしいまでにシビアなスタートラインだ。


「それ、奴隷って言わない?」

「いいえ、言わないわ。かけがいのない伴侶としては、生涯生活に困らない程度のお金くらいは事前に準備できないと。財産分与と慰謝料という形のまごころ、私は好きよ」

「なるほどね、離縁前提か。うん、ごめん。奴隷以下だったわ」

「あら、自分をそこまで卑下しなくてもいいのに。誠一郎にも良いところがきっとひとつくらいあるわ。私はひとつも気づけないけど」


 ひくっと頬がひきつった。

 な? ひどいもんだろう? 異性の幼馴染に憧れるような奴がいたりするけど、朝からワンツーパンチどころか確実に息の根を止めるくらいの締め技で入ってくる女だし。


 可愛げのかけらもない……と思っていたところで、遅れている俺を気遣ってか彼女は立ち止まり、こちらを振り向いた。

 なんだ、待ってくれるなんて優しいところもあるじゃん、なんて思ったら負けだからな。


「それで、どうなのかしら?」

「え、なにが?」

「一括で慰謝料を払えるかどうかよ。誠一郎は分割みたいな女々しいことは嫌よね」


 な? 絞め技どころかマシンガンで射殺しようとしてくる奴だろう?

 しかし理解できないのは、世間的に見るとそれなりに可愛い部類というか、黙っていても男どもがフラフラと近づいてくるらしい。


 あの子可愛いよな、という話を聞くたびに、なんて命知らずで世間知らずで馬鹿な奴だと思わざるを得ない。

 良く言って「食虫植物に誘い込まれるハエ」。悪く言って「腹黒とミステリアスを混同するくらい先天的に人を見る目がないゴミのようなハエ」だ。


 しかし正体を知り尽くしている俺から見たら、可愛いの「か」の字も出てこない。無感情で冷え切った瞳といい、いつも伏せがちのまつげといい、じっと見ているだけでHPヒットポイントが奪われてゆく気さえする。

 はあと覇気のないため息をしてから俺は再び歩き出した。


「あるわけねーだろ、そんな金。もしあってもヒヨコの養殖場に寄付したほうがまだ有意義だ。しっしっ、寄ってくんな。もしあればの話だ」

「……そう、ならもう話すことはないわ。さようなら」


すうっと瞳を細めて、冷えきった視線と共にそう言われた。まさに凍てつくような極寒だと感じたし、おっかない女だと思う。そんな背を向けてスタスタ歩いて行く雨ケ崎うがさき 茜香せりかに声をかける。


「じゃあ金が溜まったら電話するわ」

「ええ、すぐに電話をして。待っているわ」


 制服姿で振り返る姿は、俺が言うまでもなく美しい。しかし、にこりという微笑みは、やはり背後に食虫植物が咲き乱れているようなドス黒い雰囲気だった。

 黒魔術でも会得していそうだな。こいつか、こいつの婆さんが。




 さて、そんな下らなくて不毛で何も生み出さない完全に無意味な会話をしていると、遠くに学校の校舎が見えてくる。あの坂道が登校時のラストスパートであり、もしも遅刻しそうなものなら気力と体力を根こそぎ奪われる。


 ゴン、ゴン、という金属の音に気づいて、ふと顔を上げる。そこには工事中を示す囲いがあって、大型の工場でも作る予定なのかかなりの敷地を有していた。


「……何だろうな、この工事現場。冬からずっとこの調子だけど、どんな施設になるのかどこにも書いていない。雨ケ崎、お前は何か知っているか?」


 疑問をそのまま口にすると、雨ケ崎は両手で学生鞄を手にしながら立ち止まる。囲いは見上げるほど高く、しかし土台となる鉄骨などは見えない。それどころか樹木が覗いているし、公園を造るにしては囲いが大掛かりすぎる。


「誠一郎ならすぐに気づくと思っていたわ」

「え、どういう意味?」

「覗きやストーカーがあなたの得意分野でしょう?」

「俺を犯罪者にしたてあげないでくれ!」


 わっと泣きだしたかったよ。いつもいつも、ことあるごとにディスってくるし遠回しに悪口を言われるしさ。

 震えた声でそう答えると、雨ケ崎の冷たい瞳が向けられる。呆れのため息をひとつこぼし、そして再び彼女は歩き始める。


「こんな場所を再開発するようなことはないでしょうし、ショッピングモールができるほどの人口でもないわ。期待するだけ無駄よ。ただ、ここは海を眺められる良い場所だったのに、それだけがすごく残念」


 まあな、と珍しく俺も同意する。本日の会話で初めての同意だ。

 登校時間の数少ない楽しみが、海を眺められることだった。というよりも子供のころから見慣れている景色が消えてしまうのは、実際に体感すると寂しいと感じるんだ。こんな青空の広がった日ならなおさらだ。


「誠一郎、置いていくわよ。遅刻したいのなら別に構わないけれど」

「んー、そうだな。海は学校の屋上で見ればいいか」


 左右に揺れる黒髪、そして小さな背中を追いながら、俺は再び東を眺める。しかし工事現場の囲いは途切れることなく、はあと重い息を吐いた。



 そのように俺と雨ケ崎の付き合いは小学生のころから続いている。

 付き添い合うような間柄ではなく、むしろ嫌い合っている節さえあるのに、いつも気づいたら隣にいるような関係だ。


「見慣れている景色、か。これも無くなったら寂しいと思うのかね」

「置いて行くわよ、誠一郎。早くなさい」


 へいへいと頷いて後を追う。

 相変わらず真っ白な太ももだなと思いながら。

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