第16話


 空白は、ほんの少しの間だったのか。

 仰ぎ見た月の位置は、そう大きく動いているようには見えなかった。


 そして、こらえきれずに途切れたその意識の糸が再び繋がれた時、星明りは未だ辺りを隈なく照らしているというのに、カイルの頭には深い影が落ちたままだ。

 その深緑色の瞳はまるで変わらず、不遜さと自負心だけを映した――とても掴み取っておく事のできそうのない濃い色合いをしていた。


「よう……めちゃくちゃな強さだな、お前……」


 意識が戻るのを待っていたのか、相手は決然とした佇まいは変わらず、しかし視線はカイルの顔へと留め置いたままだ。 


「そういう貴様は、まるで弱いな」

「言ってくれるよ、これでも努力はしてきたんだぜ? まあ、いいさ。……にしても、お前さんがヴェヘイルモットとはね」

「――何?」

「へへへ……やーっぱ、覚えてないか、トトリアヌでのちょっとした事なんて。こっちはまだ、記憶に新しいんだがなぁ」


 カイルは光陰が深く刻まれたせいではっきりと見てとれないその顔に向かって、力無い空元気な笑みをひけらかした。


 自身が座ったままの状態で意識を失っていたのをようやくと自覚する。

 その上、何故か片方の瞼だけが痙攣して震えている。おそらく思う以上に、その身に打ち込まれたダメージの総量は看過できないのだろう。


 自分の膝の上に僅かな重みと温かさを感じて目を向ければ、あどけない顔の少女が丸くなってその規則正しい呼吸を繰り返している。

 一時は意識を取り戻してしまうかと懸念を覚えた場面もあったが、未だ目覚める予兆はなさそうだった。


 ともかくその幼い無垢な命を護り通すことができたという事実に、全身から抜けていく力の量が倍化される。


 長い溜め息のようなものをついて、カイルは姿勢をだらりとしたものに変えた。


「いろいろと……訊きたいことがあるんだが……だめだな、眠たくて仕様がないや。悪いんだが一つ頼まれてくれるか? この森から抜けて東に戻った所に、小さな集落があるんだ。そこまでこの子を無事送り届けてやってくれ……」


「そんな義理はない。手前で始末をつけろ」

「おいおい……? 助けてくれたんなら、最後まで面倒見てくれたっていいだろ」

「お前らのようなのを助けたつもりはない。俺はあの女を追ってきたに過ぎん」


「そう邪険にしなさんなって。お前さんは伝説の英雄ヴェヘイルモット様なんだろ?なら幼い子供一人助けてやるのは当たり前ってもんだ――うん」

「なんども同じことを言わせるな、愚図が。俺を妙な名前で呼ぶな。耳障りだ」

「じゃあ、本当の名前を教えてくれよ……?」


 カラカラとまた笑っては見せるカイルだったが、その声にも表情も今すぐにでも掻き消えてしまいそうな危うさがある。


 その正面で仁王立ちしながら黒尽くめは不愉快そうなに顔をしかめていたが、カイルのその問い掛けに神妙な面持ちで押し黙ってしまった。


「名などは、無い。……いや……」


 覚束無い独白を洩らす相手にカイルは疑いの表情を余儀なくされる。

 しかし、男が何かを思案している事は感じ取れた。


 ともかく相手の反応を待つ。


「シノン……ハーティア……」


 静寂だけが支配していたその場。

 その膜を破るような、微かな呟きが漏れた。


 そんな誰に向けてでもない小さな呟きであったそれ。しかし、カイルは聴き漏らさなかった。

 それを漏らした相手の何故か釈然としない表情が気に掛かったが、そこまで考える余裕はもう無い。


「シノンだな……しっかり覚えとくよ。そいじゃあシノン……改めてお願いするが……この子の事……しっかりと、頼む……」


 相手に了承も何も取らないまま、カイルはゆっくりとずれ落ちるように姿勢を傾け、仕舞いにはその瞳を閉じて地面に頭をつけてしまった。


 シノンという名前を漏らした男だけがその場に取り残されるように立っている。

 しかし何故だが、暫らくはそうして、自身が漏らしたその言葉の意味を反芻するように押し黙っていた。



 月の位置は次第と傾き落ち、やがて東の空は明るみ始めることだろう。



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