第15話


 光が反射するような煌き。

 革を破くような鈍い音。

 少女を曳き攫んだまま倒れ込む、魔物の姿。



 カイルの僅かな動作は、その光景を前に留めつけられた。



 瞬時のことに、警戒の色合いを見せた周りの魔物達が一斉に同じ方向へと顔を向けた。


 その緩慢で無防備な数体の魔物の頭部に、おぼろな月明かりできらめく何かがまた飛来する。

 月の青い光を反射したそれが魔物どもの額へと突き刺さった時、さらに同じ方向から繰り返し煌く何かが、矢走やばしりのような鋭い音を引き連れて放たれる。

 そうしてそれらは、付近に居た別の魔物数体の頭部をも突き刺さした。


 少女を取り囲んでいたその群れは息もつかぬ内に全て仕留められ、その場にて、湿った大きな音で倒れ込んだ。


 離れた位置にいた魔物どもがいきり立つような唸り声を上げ、その木々の茂みの向こう、影を深く落とす一角へと向き直った。


 木立の向こうからは、間断なくねた粘着質の水音が響いてくる。

 何かが駆ける足音のような――それもかなりのスピードである。

 何事かと眼を見張ったままのカイルも、魔物達と同じくその暗闇が支配する一点を凝視していた。


 だがそんな中で、あの奇妙な女だけが、まるで嬉しそうな声を上げたのだ。


「あぁ、……ようやく来ましたか」


 それまで一切として感情と呼べるようなものを含ませなかった女が、まるで離れ離れの恋人と幾千夜の限りに逢えたとでも言えそうな恍惚とした声を漏らした。


 その様子にカイルはすぐさま思い至った。


 あらゆる戦場を踏み荒らし、身近に触れたもの全てに死の運命をもたらし撒く者。

 現存する伝説とまで称されたその名声と裏腹に、多くの恐怖をあまねくまで知らしめた人外の魔。

 “黒き死の風”ヴェヘイルモットのその禍々しい像がカイルの頭を過ぎった。


 すると今一度、風切り音を伴った青い光が反射する。


 布地を貫くような音に振り向いたカイルは、女の銀色のローブを貫いて胸に突き刺さったものをはっきりと見て取る。

 それはまるで槍の穂先のような、刀身のみの短剣といった所だろうか。持ち手に矢羽やばねと同じ原理をする飾り紐のついた。


 だが驚くべきことは――

 そんな物を深々と胸に生やしながら、倒れこむどころか取り乱した素振りひとつ見せない女。

 ただ一点へと、待ち望むように目を向けたその様だった。



「やはりお前も、ただの泥人形か――」


 撥ねるような足音が止んでいる。同時に、それまでこの場に居なかった者の声が聞こえる。

 落胆したような、憎憎しげな声が吐き捨てられていた。


 その新たな声の主は、かげった木々の合間の薄闇から、血に濡れた地面へと悠然とした足取りで進み出てくる。


 しかしその者の正体を、すぐに判別することが出来ない。


 その理由となったのは、その出で立ちがまるで周りの薄闇と同化するかのように漆黒の装束で身を固めているからだ。

 黒い外套の下の見慣れぬ装束もまた黒という、この暗闇を最大限に生かした迷彩色を着込んでいる。


「まるで永劫の彼方のような時間を待ちましたよ、私の愛しい『ユリスヴェリア』。今宵はいつになく時間を要したのですね」


 女が平然と言葉を紡いでいるその様子に、カイルの芯が恐怖で絞られる。

 女の胸に突き立ったその凶器は、確かに人間の生命を奪えるほどの致命傷となっている筈だろう。


 しかしその傷口からは血の一滴も漏れでずに、尚且つ女はまるで痛みを感じていない様子。


 そして同時に、女の言葉に対しても疑惑の念が湧き起こる。


「ユリス、ヴェリア? ヴェヘイルモットじゃ、ないのか……?!」


 カイルの掠れる呟きを聞いたからか、女は愕然と見張ったままのその瞳に振り向いた。


「先程申したように、あなた方にとってあの子はまるで群像のように多岐に渡るもの。しかしながら、私にとって……いえ、私達にとってのあの子は唯一無二。そう、あの子は愛しい『ユリスヴェリア』でしかないのです」


 これまで恐ろしい事柄の連続であったカイルだが、これ程までに歪んだ光景は目にした事がない。


 女は胸を深々と突き刺されたその状態で、まるで幸福の絶頂にいるかのような笑みを見せるのだ。


「――ふざけるな。どちらも、俺にとってまるで聞き慣れぬ名だ。人を好き勝手に呼ぶのも大概にしろ」


 ユリスヴェリア――あるいはヴェヘイルモットで良いのだろうか、そう名を示された本人が苛立った声色で斬り捨てるよう否定の言葉を口にした。


 木陰の先、少しだけ明りが照らされたその場所へと歩み出た漆黒。

 闇に溶けた身は、今はっきりとその姿をカイル達に晒したのだ。


 毅然とした、他を圧するかのような迫力を伴った視線が周りの魔物達をめつける。

 低い唸りと身動ぎはしたものの、怪物達は止まったまま。


 その黒色の中でただ一つ異彩を放つ深緑の瞳を含めたその者の特徴を目にした時、カイルは思わず頓狂とんきょうな声を漏らしていた。

 自身が想像していた人物と食い違っていたというのもあるが、姿を顕にしたその男の特徴は嫌でも脳内に焼きついていたからだ。


 自分と然して変わらぬ齢であろうに、それを真っ向から否定する倣岸不遜で老獪ろうかいな貌付き。

 中背でありながら、外套越しに見てわかる武骨で凶悪なまでのフォルム――その鍛え抜かれた体躯。黒色の装束から露出したその首も腕も、凶暴なまでに発達した筋肉に覆われている。均整の取れた美しい肉体などというものから掛け離れ、歪で醜いとさえ言える。

 だがそこから生まれるたった一つの成果は、ある事象を容易く凌駕することだろう。


 月明かりの下、男がカイルの反応になど構わず歩を進める。

 幼い少女が地に伏した場所まで至ると、その周りで群がるように絶命している魔物達へと一瞥いちべつをくれた。


 その頑強な魔物達を男は瞬く内に葬り去った。

 その額を根元まで貫いた槍の穂先のような形状の投擲武器は、彼の腰に幾重にも巻かれた革ベルトに数え切れぬほど装着されていた。

 それらを射出するような専用の道具を持っていないのを見ると、素手で投擲し、あの距離から魔物の頭を刺し貫く程の威力を打ち出したことになる。

 それを実現させる膂力と狙いの正確さは想像するにはかたいが、今のこの事態ならば腑にも落ちよう。


 男が無造作に転がった魔物達の一体に近づく。


 その中で唯一、圧倒的な自身の腕で仕留めたのではない一体の首元から、細緻にまで装飾が施された長剣を引き抜いた。

 そうして、未だ這いつくばったまま立ち上がれないカイルの近くにそれを放り投げてみせた。


「多数の魔物を相手に、乾坤一擲けんこんいってきを狙ったつもりだろうが――情勢をまるで覆せなぬのであればただのヤケクソだ。滑稽さもここまで極まると逆に清々しいな」


 獰猛な笑みを浮かべ、男がカイルをあざける。


 しかしそんな風を装うその顔立ちは、どこかまだ成熟し切っていない。それでもそこに表れる異様な迫力は、誰もが肝を冷やすほどに判然としたものなのだ。


「ヴェヘイルモットなのか……お前が……?」


 見覚えのある顔がこの場に突如として降り立ったという事柄に、カイルはそれまでの恐怖と焦燥が幾許か消失する。

 代わりに胸の疑念は膨れ上がるばかりだった。


「勝手に人を妙な名で呼ぶなと言ったはずだ。……まあいい。そこまで追い詰められようが、一切として腐らずに剣を放ったのは評価してやる。そこで子守でもしていろ」


 そういった男が、今度は意識を失くしたままの少女を抱え上げた。

 男はあまりに堂々と行動していた。

 それを可能とした理由というのが、未だに数がたのみの魔物たちは何もしようとはしないでいるからだ。


 身動きを取らないのでなく取れないカイルもただそれを見上げる。


 その恐ろし気な迫力を醸す男にしては意想外に丁寧な手つきで、幼いその身をこちらまで運び、カイルへと受け渡す。

 しかし、疑問を挟む余地は与えず、黒尽くめは振り返り、女の奇妙なまでに親愛の篭った視線と相対していた。


 女の表情だけを見て取ればまるで慈母のように人の心を洗うものだった。

 それに対する顔は剥き出しの敵意を宿らせた獣のそれだ。

 今ここで始めて二人を見たものならば、今まさに襲い掛からんとするこの黒尽くめの男を危険視するのは明白だろう。


 しかしこれまでの状況を知っているカイルには、女のその慈しむような笑みこそがまるでよこしまなものであって、野生の獣のように警戒心を顕にしている男の反応こそが正常と取れてしまうのだ。


「今宵もまたあなたと逢えた事を嬉しく思います。その身に変わりなく、健やかなままであるようで何よりです『ユリスヴェリア』。あなたと逢えぬ間は、いつもその身を案じていますよ」


「ほざけ、泥人形が。お前らと暢気のんきに話しこむつもりは微塵もない」


 言葉の端も鋭く、女の緩やかな言葉の流れを殴り捨てるように返した。

 しかしその様がどこか余裕のないものに見えたのは、カイルの気のせいだったろうか。

 群れをなす凶悪な魔物達を前にすらその眼光は臆することなく爛々らんらんとしていたが、この女と相対した時のその瞳はどこか逼迫ひっぱくしたものに映った。


 黒尽くめはしかし、隙のない動作で腰の後ろに差した――あの「名品」の剣を抜き放つ。

 しゃらりとした鞘鳴りを響かせて、闇夜にその白鋼色の刀身が眩いまでに輝く。

 それはどれだけ高純度の鋼を保ったまま打った業物であろうと、遠く及ばないような不自然な輝きを灯していた。


 その刀身を視て、自分の推察が間違っていなかった事をカイルは知る。

 どのような執念であるのか、複雑な波模様が浮かぶに至るまで精密に”研ぎ”を施されている。

 切れ味という意味で、これほど恐ろしい物はあるまい。


「さあ、今宵もあなたの為にとたくさんの玩具を用意しました。あなたのその腕が存分に揮えるように、この森に潜んだ多くの人間の身を拵えて造った闘争の舞台です。どうぞ心行くまで堪能してください」


 その言葉が号令だったのか、それまで低い唸りで待ち構えていた魔物達が一斉に動き出した。


 奇怪な雄叫びを上げて、我先にと群がるように男の元へと突進してくる。

 男は剣を逆手に持ちに変えると、両腕を顔の位置ほどに高く上げ、足で軽やかに地を蹴って弾むような独特な構えを取る。

 それは程よく脱力した理想的な身体の置き方だったが、カイルが今まで見てきたどの剣術のものでもない。まったく見知らぬ構えだ。


 そして、その後にカイルが捉えることが出来た男の姿は――

 ぶれたように尾を曳く残影と、まだ明らかに距離を空けていた魔物の一体へと飛び掛ったその背中だった。


 瞬きの内に数メートルの距離を一度の跳躍で飛び越した男は、中空に投げ出された身をそのまま一体の魔物へとぶつけた。


 だがカイルは辛うじて見て取ることができた。

 体が当たる直前に身を捻って体勢を整え、勢いと全体重を乗せたかかとを魔物の頭部へとのめり込ませるのを。自らの重みを面としてではなく点に集約した凶悪な一撃、それは怪物の醜悪な面をさらに醜く変形させた。

 頭の潰れた魔物の亡骸を足蹴あしげにしてさらなる跳躍を行う男は、自らその群れの中心に飛び込んだというのに、まるで余裕じみた態度で空を舞っている。


 始めから狙いを付けていたように、着地する地点には別の魔物の頭がある。

 そこに取り付いた男は、今度はその手の刃を脳天に真っ直ぐ突き立てる。

 血飛沫は引き抜いた刀身に曳かれて噴出する。

 そして男はまた、倒れ込むそれを踏み台に木々の高さと同程度の跳躍をしてみせた。


 生い茂る木々の合間であり、地面にはひしめく異形の怪物達が腕を伸ばしてくる状況であるにもかかわらず、男の動きは何の制約もなされないように悠々としていて柔靭だ。

 閃く刃の光は振るわれる度に血の尾を引かせ、魔物どもの白い肌を切り裂いていく。鈍重な魔物の動きでは、蝙蝠こうもりの如く空を飛翔する相手を捕らえることができない。


 それは男の尋常でない身のこなしの速さがあったからであろう。


 数を恃みに、その長い腕を振りし切って次々と襲いかかる魔物達。だがその腕が目標を捉えることは無い。

 本当に羽でも生えているかのように、手足の重さと体の向きとで、空中に居ながらくるくると体勢を変えてみせる。

 伸びてくる腕を軽やかになして飛び越え、物理的な法則により落下するその身を凶器に変えて魔物の頭部に重苦しい一撃を放っていく。


 さんざんと掻き乱される魔物達。


 大きいだけの図体は乱立する木々に阻害され、圧倒的な数の集団であるという戦術的な優位性を立証できていない。

 活動できる範囲は、各々の存在同士が邪魔をし合い――切りすぼめられており、そんな状態を嘲笑あざわらうように黒い影はその上を過ぎっては踊るように飛来する。


 飛び付いては顎ごと喉を貫き刺し、また別を目標に選んでは跳躍する。

 頭から逆さに落ち往く体を気にも留めず片腕で相手の肩に着地したその瞬間には、落下の勢いを殺さず速度を保ったままの膝が天高くから落とされる。

 素手による攻撃。しかしてその威力は言うに及ばず、魔物どもの頭蓋を果物のようにひしげさせていく。


 驚くべきことが多すぎて、そんな光景にただ閉口するしかない。

 誰もが想像すらできぬ戦法だった。


 飛んでは跳ね、突き刺しては切り裂いて、そこから離れ、身を捻って躱しながら、木を足場に蹴って――また飛び掛かる。


 少しでも体の操作を間違えば魔物達の腕に打ち払われるか、目標を誤って地面に突っ伏するか、もしくは周りの枝や幹にぶち当たってバランスを崩すかだろう。


 だがそんな事は起こり得ないとでも言いたそうなほど、男の動きには躊躇ちゅうちょも恐れも何もない。

 人が地面を歩くのと同じ感覚で、そんな曲芸師でも恐れてしまうような動きを高速でそして連続で行ってみせる。


 その行為に必要なのは一体どれほどの身体能力か、それとも微塵みじんの恐怖も感じない精神力か、あるいは他を寄せ付けないほどに備えられた天性の才覚だったろうか。

 少なくとも目の前の存在がそれら全てを持ち合わせていることだけは、容易に理解できたカイル。


 そして同時に、その動きがまさに吹き抜ける旋風せんぷうのように行われる様を見て、カイルは場違いにも感心していた。



 それはこの男の謂れが、まさに“黒き死の風”そのものであるという事に。



 その謂れとなる言葉の意味をカイルはただの比喩の一種だと考えていた。

 大戦時に多くの戦功を上げたその伝説の傭兵を称えて、そんなご大層な名前がついたのだと勘違いしていた。

 ヴェヘイルモットが後にした戦場はまるで疫病か何かが横行したかのように、累々るいるいとした屍の山が織り成す恐ろしい風景だという事。それを見て取って“黒き死の風”などと呼ばれるのだと。


 だが本当の所、この光景を前にすれば納得が付いたろう。


 この戦い方こそ――その常識の範疇はんちゅうを超える動きこそが、まさに一陣いちじんの風そのものであるということにだ。


 それは遠まわしな比喩などではない、あまりにも直接的すぎる表現だ。その風が吹き抜けた後に残されるのは、鮮血を吐いて崩れ落ちる屍だけである。

 そう、まさに死を内包した黒色の疾風そのものであった。


 その男は自らをヴェヘイルモットとは認めなかった。

 しかしこうまでも衝撃的な証を見せつけられれば、嫌でも信じざるを得ない。


 風であるならば、魔物たちの腕が男に届かないのも当然の話だ。

 風を掴むことなど誰にもできはしないのだから、ただ翻弄されるだけの魔物の姿はまさに風に遊ばれているといった所だろう。

 だが、その風の内に潜むのは容赦のない死の餞別せんべつである。


 斬り刻んだ数は一体どれほどに上るのか、次第に地面を無残な屍が埋めていく。


 今また鈍い音を立てながら、反対方向に曲がった頭の魔物が崩れ落ちる。

 しかしそれでもまだ魔物の数が着実に減っているという実感が湧かないのは、倒れた落ちた巨体のそのすぐ脇――血溜りの地面から新たな白い腕がぬっと生え出てくるからだったろう。


 限りがないのかと思えるような光景の中、しかし男はそんな事を気にも留めていない様子だ。

 敵をほふり続けることにしかまるで意識が向いてない体で、ただその行為を繰り返す。正確にして迅速に、対象の生命活動を停止させるその作業を続ける。


 逆手に持った剣は、自身の急激な動きを阻害しないように、ほとんど手首から肘にかけてぴったりと張り付いている。

 そうでありながら必要に応じて展開される刃は、狙い違わず相手の急所を切り裂き、刺し貫く。

 そして空いた片手で拳を打ち込み、あるいは相手の攻撃を叩き払い、臨機応変に剣による必殺の一撃を補助している。

 時には片手一本で自らの体重を支えて着地し、それを軸に重力にほだされる身体のバランスを軽々と整えてさえ見せる。

 その計り知れない跳躍力を誇る二本の足は離脱にも攻撃にも用いられ、計算され尽くした体重移動の成果と相成って標的の首を容易く蹴り曲げる。


 その徒手空拳と剣術とを合理的に融合させた動きは、ある種の洗練された美をすら感じさせる程だった。

 極めついたもののみが持つ、研磨されて無駄なものが一切として取れ落ちた――そんな類の美しさだ。


 踵がめり込んだ相手の顔をさらに片方の足で蹴り飛ばしてその場から瞬時に距離を取る。

 その動きに横手から迫っていた二体の魔物たちは滑稽なほど翻弄される。振り回した腕は仲間同士で傷つけ合い、その交差した隙間を弾むような身のこなしですり抜ける。一体の隙だらけの胸部を体ごと振りかぶった勢いで剣先を突き刺し、もう一体は剣を引き抜く逆方向の勢いに任せて喉をさばく。

 そして着地したと思いきや、両脇の魔物どもの上空へと既に身体が躍り出ている。新たな目標とした数体の固まった魔物どもへ、息も吐かせぬスピードで。飛来しながら剣を構え直して、体に加算されて宿った慣性のエネルギーを全てその刃に乗せて振り払われ、魔物の太く頑強な首が、跳ね飛ぶように体から分離される。

 近くの仲間が瞬時に倒されたことへの怒号なのかそれとも悲鳴なのか、短い雄叫びを発した周りの魔物達が腕を振り上げて掴み掛からんとするが、その掌は掠りもせずに空をまさぐり、既に懐に侵入されていることに気づかないその内の一体の背中から、血に塗りつぶされた白鋼の刃先が生えた。

 倒れ込む魔物の下から身を翻した影を辛うじて捉えたと思った時には、既にその影は別の魔物の内に迫り至って、そして尾を曳く銀光を閃かしてまた次へと向かうのだった。


 魔物達がどれだけ数をもって事に当たってみたところで、元々の動きが違い過ぎる。疾風のように地を駆け、宙を舞う黒色を相手には、たとえ大地全てを埋め尽くさん程の数を揃えようと実は何ら無意味のないことなのではと思わせる。


 激しい動作の連続であるというに、男は疲れの片鱗さえ見せずにまた数体を葬り去った。


 しかし予想外な事に、倒れ伏した魔物の頭を踏み砕いたその状態のまま、何かまるで別の感慨を抱いたかのよう夜空を仰ぎ見る“死の風”。


 男が地面に降り立ったまま棒立ちなのを唯一のチャンスだと思ったか、四方から奇怪な鳴き声を上げた怪物共がほぼ一斉に迫り来る。

 流石に無防備すぎるその姿を危ぶんだカイルが声を上げようとしたその矢先、まるで踊るようなステップを踏んだ動作から一転した鋭い膝が地面から突き上がると、手前に迫っていた魔物の顎はその膝により粉砕される。

 いったいどれ程の脚力なのか、巨体の魔物が仰け反るようにひっくり返って後ろ頭から地面に到達する。

 その直ぐ脇に至った魔物が自慢の大口を開けて低い姿勢で突っ込んでくるが、それを目で確認もせずに腰を低く落としてかわし、次にはもう風圧を伴いそうな勢いで上空へと舞い上がっている。

 だがそれは回避が目的の動作ではない。宙で体を捻って一回転すると、その浮いた体目掛けて首を伸ばすように突進してきたもう一体の魔物の脳天を肘でかち割る。

 そのまま魔物の背骨をごろりと転がり渡ると、新たに待ち構えていた一体に向けて、転がり落ちるその姿勢から垂直に剣を振り降ろす。

 顔面を縦に斬り裂かれた魔物が血飛沫を放つその真下に着地すると、さらに背中に迫った別の一体に向かって、振り向きざまの後ろ回し蹴りを喰らわす。

 顎を横から砕かれて腰を落とす魔物へ止めの一閃を放つと、次から次へと飛び掛ってくる魔物共の合い間を縫うように身を躱させたのだった。


 一瞬のことだったが、カイルが星月の明かりに照らされたその表情を目撃したとき、思わず呆気に取られるよう時間を止めてしまった。


 覗き見たその男の表情は、まるで想像してたものとは掛け離れていたのだ。


 それを喩えて言葉にするならば、はしゃぐ子供の得意気なそれだろうか。

 自らの内の興奮を抑えられず嬉々とした瞳で目の前の状況に立ち臨むような、そんな顔をしていた。

 カイルは「そうか、この状況が嬉しいんだな……」と、思わず納得の声を言葉にせず吐露した。


 あるいはそれは、男のその若気の容貌が見せた幻覚であったのか。


 しかしながら、そういう物の計り方はまさに、ヴェヘイルモットなどという伝承の悪魔の名前を――史上最強にして現存する伝説だなどという謂れを――その身上に証明足らしめるのではないか。



 やがて、一人が多数に対して暴虐の限りを尽くす宴は、次第にその幕引きを感じさせるものとなった。

 無論それは、一向に失速の色合いを見せない黒尽くめの男が、並み居る怪物共を殺戮できる限界が近付いてきているからだ。

 そう、殺戮できる頭数の限界が――数量的な限度が見えてきたのだ。


 それまで埋め尽くさんばかりだった魔物の群れ全てが、見るも無残な屍の山へ変わり果てるという結果がありありと見えてきた。


 もはや、限りがないなどと感じた膨大な数量による重圧はとうにその影を潜め、まばらに散った魔物達の生き残りは果敢にも攻め立てる。

 だが学習するという機能がついていないのだろうその頭は、鋭角な太刀筋で跳ね飛ばされるだけであった。


 横の回転を伴った身体から放たれる肘と拳によるに連撃が鮮やかに魔物の額を穿つと、その後ろに見える別の魔物に向かって仕留めたばかりのそれを蹴り飛ばす。

 思わぬ障害物に突進を邪魔された魔物が動きを鈍らせたその隙を突いて、前方から頭を跨ぎ越すように背中へと張り付く。

 背中から首にあてがった刀身を力任せに引けば、鋭い刃は首の肉を薄皮残して骨ごと持っていき、ぱっかりと開いた上下の切断面が一繋ぎの平面体になる。

 太い棒状の血液がびゅうと数本放たれ、魔物は崩れ落ちる。


 その上で男は泰然と息をついている。

 疲れを知らないように見えていたが、さすがにその呼気は荒い。

 しかしその表情には焦燥も疲労の色も映ってはいない。

 そんな男のまわりに、もはや目で確認できるほどに数を減らした最後の残党たちが集まり、取り囲むような輪をゆっくりと形成している。


 その中心で、それをまるで惜しむらくように見渡している男の胸中とは一体どのようなものなのか。


 周りの地面からも、もう新たな魔物が出現する気配はない。

 今そうやってぐるりと取り囲んだ計6体の魔物が、この場にいる全てだ。


 宴の終焉を迎えるための合図は、魔物達の上げる断末魔の悲鳴か、そんなものさえ取り払われた呆気のないものであるのか、結果はじきに判ってしまう事だろう。


 魔物たちが作り成すその六角形の中心で、男はただ不敵に笑む。

 それが引き金だったか、魔物たちの雄叫びが森中に連なってこだました。


 腕を大きく振り上げた六体の魔物が一斉に男の元へと集う。

 ほとんど抜けきる幅も持ち合わせずに魔物たちの体躯は密集している。

 それまでのように上へと飛んで逃げようにも、その怪物達の異様に長い腕は攻撃を完全に避け切れる距離へ至る前に男の体を叩き落としてしまう。


 だが、その中心で男はまるで動こうとしなかった。

 そこに立ち構え、まるでその凶悪な腕が自分の頭を叩き潰すのを待ち望むように身動ぎ一つとしない。


 そして、魔物たちの腕が確実にその男を捉える距離まで至った。


 カイルはその様を瞬き一つできず見入っていた。


 男の体がほんの僅かに揺らめいた。

 それは本当に小さな動きで、まるで小石に蹴躓けつまずいてバランスを崩したように両の脚がゆるく踏鞴たたらをうった程度。

 だが、そんな微小な動きで十分だった。襲い来る複数の歪な爪から逃れるための動きは、たったそれだけでよかった。

 あるいはそれは、この男だからできる最低限の動きだったのだろう。


 一瞬ひとときあわいに――複数の巨大な腕が振り下ろされ、土くれと酸化した血液が爆ぜるように高く広がった。


 しかし――

 折り重なるような腕が交差するその場所に、男は変わらず悠然と立っている。


 何が起こったのかを視界では捉えていたカイルだが、その情報が脳に行き渡って統合され理解を得るまで他に類をみないほどの時間を要した。


 男はその場で、魔物の攻撃により狭まるその空間の内で、振り落とされる全ての攻撃を紙一重で躱してみせたのだ。


 そんな有り得ない光景を目にしたカイルだったからこそ、その脳が現状の把握を至るまでに時間を労費した。

 体を急激に動かすこともなく、ただその場で数度身体を反転させたように流しただけ。それだけで襲い来る何本もの腕を往なして躱したのだ。


 理屈のみで話をすれば、魔物達はその圧倒的な体の面積で押し迫ったのではなく、攻撃に用いたのはそれぞれの一本の腕である。

 その空間に一本の円柱であるそれらが数回ほど往復したと考えれば、それらを避けて見せることは可能であったかもしれない。

 だがそれは所詮、理屈の上での話である。

 現実に何分の一秒の合い間に襲い来る、そんな腕々を全て完璧に避け切るなどということは無理難題と呼べるものだ。


 だと言うのにそれは、今まさに目の前で実証された。


 そして男は複雑に入り組んだ巨大な腕が交差するその場所で、身を翻すように横向きの回転をしてみせた。

 その高速の回転に伴って、銀色の閃きが美しい真円の軌跡を描く。

 その軌跡が短い螺旋らせんを形作って終わると、周りの魔物達からは、首と言わず胸と言わず腕と言わずに、あられもない量の鮮血が迸る。

 それらの血雨を全身に受けた男がゆらりと立ち上がると、天を向いて倒れ落ちる周りの巨体を押しのけて月夜に身を晒したのだった。



 その黒色で統一した格好は、あるいは、これだけの血を浴びることを前提として選んだものではないか――

 そう錯覚させるほどに、血で濡れそぼった男の様は違和感なく在った。


 そして日の光の下では純粋な黒というより混沌とした色合いだと感じさせたのは、まさに今こうして、男はこれまで幾度もその身に血雨を受け、何層もの「赤」を塗り重ねてきたからではなかろうか。

 暗褐色に近かったその黒色は、よもやそんな推察に説得力を持たせる。



 辺り一面に転がるは、気味の悪い土色の肌をした化け物たちの、その血で汚れた残骸だけである。

 月明かりだけが陰ることなくそのおぞましい地面を照らし続けている。


 その様子を見渡しながら、カイルは痛む体を鞭打って、這いずるようにうつ伏せていた上体を起こした。

 そして直ぐ傍の深く気を失ったままの少女の体をかくまうようにその身の内へとまさぐった。


「相変わらず、ただ黙して見ているだけか」


 この場に生きて残っているカイル達以外のもう一人に向かって、男は吐き捨てる。

 その女はあの魔術で男を攻撃する機会が今までいくらでもあったろうに、まるで大人しく事の成り行きを静観していたのだった。


「あなたが楽しんでいるのに、どうして水を差すようなことをしましょうか」


 女は微笑んで答える。

 だがそのどこまでも穏やかな表情とは不釣合いすぎるもの――その胸に突き立ったままの刃物の存在は、そんな和睦わぼく的な雰囲気を一切からして覆す。


 普通そんなものを生やしたままでいれば、即死は免れても大量の失血により命を落とす筈だろう。

 しかし、そこからは血の一滴でも流れ出た痕跡がなかった。


「まあいい、――それよりも答えろ。いったい今度は何を企んでいる? そこでへばっている輩は誰だ? 俺はあれとは何か関係があるのか?」


 矢継ぎ早に問いつけるその言葉の最中で、男はカイルの方に視線を移した後、またその鋭い眼差しで女の方へと向けた。

 痛みで体を動かすことさえままならない状態なのを「へばっている」などと身も蓋もないような言い方で表わされたカイル。

 だが男の言葉の支離滅裂さの方に意識は傾き、その整った眉をひそめていた。


「いずれ、あなたに説明できる日が必ず来るでしょう。しかしそれまで、私の口から何一つとしてお話することはできないのです」

「ならば、いつまでこんなふざけた事を繰り返すつもりだ? この俺がいつまでも素直にお前らの思惑に従っているなどと思うな」

「その事も、いずれの日にか……」


「詰まるところ、今度もまた何一つとして答える気はないというわけか。なら、これ以上その目障りな面を拝んでいる必要もないということだな。……その不快な顔、斬り刻んで踏み砕いてくれる」


 女が一切の質問に答える気がないと判断すると、黒色は忌々しげに毒づいて剣を構え直した。


 まるで何十年と追い求めてきた仇敵を前にしたかのように、男の眼光はより一層鋭さを増して危うげに輝く。

 その爛とした瞳からは、言葉で指し示すよりも遥かに明確な殺意が――あまりにも直接的な殺戮さつりくの意思だけが、その姿を顕にしているのだ。


 剣を目線の高さとほぼ同じにそして平行に構え、獲物に飛び掛る前の獣のように低く姿勢を保った独特な構えを取る。


 そして、男の身体は薄く微笑んだままの佇む女に向かって一直線に踊り出た。


 息を呑むカイルの視界の内で、男が立っていた血色の地面が後ろ向きに爆ぜ、固まった土砂を撒き散らす。

 そこまでの反動をもってしなければ、剛弓につがえられた矢のようなその速度は叩き出せないのだろう。

 男の体は人間に出せるとは到底思えない速さで風を割いて疾駆する。


 十数メートルは離れていたその区間をいったい幾つの歩幅で通り過ぎたのか。そんなことを正確に測れるほどの精度を人間の眼球は持ち合わせていない。

 ただカイルに捉える事ができたのは、瞬きをする暇もなく斬り飛ばされた女の半身と、それを通り越した先で地面を靴の裏で削って速度を落とした男の姿だけだった。


 唐突に繰り広げられた目の前の凶行だったが、カイルはすぐさまその違和感に気がついた。

 それは、女の体が――正確に言えば斬り飛ばされたその上半身が、支えるものも無くなったその場でまるで宙に浮かんでいるかのように止まっているからだ。


 そして森の中を微かに吹き抜けた夜風にさらわれて、その身はぼろぼろと崩れ散っていく。

 心臓に負担をかけすぎるあまりの光景だった。


 それを尻目に、振り返った男はまるで見慣れたものとでも言いたげな風情。腰の革帯から二本指で抜き放った刀身のみの小刀を平手に持ち変え、止めとばかりに投げ放つ。

 飛来する刃は光芒を閃かせて、宙にあるままの女の頭蓋に嫌な音を立てて突き刺さる。

 端整で妖艶ですらあったその顔に無数の亀裂が走ったかと思うと、やはり粘土細工が乾いて零れ落ちるようにその残骸を散らした。


「……あれは、泥……?」


 崩れ散って積もったその残骸を目にしたカイルが掠れた声で呟いた。

 かつてそれを形成していたものはしかし、今そこにあっては崩れて色を抜かれた土くれでしかなかった。 

 そういえば、初めにこの黒尽くめは女の事を指して「泥人形」などと吐き捨てていたなと覚束ない頭で思い出していた。



 しばらく、隠れることの無かった星月の明かりが、ここへ来て分厚い雲に覆われて翳った。

 辺りをしんとした静寂と暗闇が満たしていくのを僅かに感じる。



 取り敢えずの危機が去ったことに神経が緩み、カイルのその意識は耐え切れずにすっと溶けいくのだった。




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