第14話


 不可解な血の池から噴出するモノ。

 人間のものと同じ形をした奇妙な白い腕。鱗のようなものがびっしりと覆った光沢のあるそれら。

 そして、次いで出てくるは肩、胸、首。さらに見せたは、巨大な頭蓋骨そのままの顔面。


 ――取り分け、カイルはそれに強烈な憶えがあった。


 その光景を見開いた瞳孔で凝視していた数秒の内に、それらは血溜りの中から這い出て血に濡れたその全身を月影に晒す。


 異様なまでに長い手足と、鱗で覆われた青白く巨大な肉体。

 その上に乗っかるように取り付けられた大きな髑髏のような顔。


 それを前に、カイルは虚空に放り出された様な体で力なく座り込んでいた。


 その下から何事もないような顔をした女がするりと抜け出ると、次々と姿を現す怪物たちの群れへと歩み寄った。

 すると呼応するかのように、不気味な怪物たちもがその女の元へと動いた。 

 そして、血に濡れた銀色を纏ったその女の後ろに、怪物たちはまるで控えるかのように立ち並んだ。


「……なん、で……コイツらが……」


 引き攣るように強張ったまま、小さく途切れ途切れの言葉を発する。


 10年前にカイルを襲った惨事――

 かけがえの無い仲間達の命を奪った存在が、今こうしてまたその目前に姿を見せている。


 その事実に、ただカイルは震えおののいた。



 あの事件があってから、憎しみの感情と共に剣を取り、激しい修練の元にただ魔物という存在を打ち滅ぼすことに時を費やしてきた。

 だがいつしかそこに疑問は生じ始め、遂には剣を収めるに至った。


 その現在のカイルの前に、元凶たるものが現れているのだ。


 カイルの胸裏に甦ったもの、それはあの日の激情である。


 心の内に仕舞い込もうとしていた哀しみが――

 もう慣れた筈だと思っていた痛みが――

 そしてとうに捨て去ったつもりでいた憎しみが――


 カイルを内側からくすぶらせる。


 眼球の後ろから圧迫されるかのような感覚が奔り、手足の先がちりちりと焼き焦がされるように痺れた。


 あの日以来、この魔物達の姿を見た事はなかった。

 魔物討伐の遠征で僻地にまで足を運び、それこそ百種以上の魔物達を仕留めてきた。

 古今の様々な文献を読み漁り、その正体を掴もうと躍起になった。


 だと言うのに、ついぞ出喰わすこともなく――

 そしてその存在の片鱗すら霞みの如く掴めず、カイルの心は次第に冷め、ただただ虚しさだけを積もらせていった。

 それがカイルに剣を降ろさせた大きな要因でもあった。



 だが、今こうしてそれを前にした時、カイルははっきりとその胸にわだかまった感情を自覚した。


 拭い去れぬ憎悪の炎。


 それが、あの日の光景――この化け物共が大切な仲間達を食い殺していったその場面を彩るように燃えさかった。


 愕然と身を投げ出していたカイルのその全身がこの上なく力む。

 持った剣の柄から引き絞るような音が聞こえる。それは皮膚を巻き込む程に強く握り込んだ証だった。


 筋肉を引き締めるような足取りで立ち上がると、不気味な化け物と女が立ち並ぶその一点をどこまでも据えた眼で捉えた。


 未だ次々に血溜りの中から這い出てくる魔物達は、違わずに女の後ろへと控えていく。まるでこの女が怪物達を使役しているかのようだ。


 どんな理由であるのか、如何なる背景であるのか、わからない事は山のようにあった。

 だがそれらに拘泥こうでいはされない。

 ただ、激しい感情だけが今のカイルを後押ししていた。


「本当はあの子の為にと用意したものなのですが、どうやら、あなたもこれに対して強い思い入れが在る様子。ならば良き按排あんばいと言えるかもしれません」


 女はまた何かを知ったような風でいて、取り留めのない言葉を投げ放った。

 だがカイルの意識はもう、そのような事には向いていない。

 女が合図するかのように腕を高々と挙げたその瞬間、それまで棒立ちだった怪物たちが身を屈めるように構え出した。

 その様だけに、カイルの意識は集中していたからだった。



 星月夜の下、森にひしめく歪な影達は、その緩慢な動きのままで足踏みを開始した。



 剣を構えるカイルは、女の両脇を過ぎって相変わらずの鈍重な動きでこちらににじり寄ってくる怪物どもに対峙する。


 自分の力量を過信するわけではないが、今のカイルは昔とは違う。それこそ、人並み以上の研鑽けんさんをこれまで積んできたのである。

 カイルは他を凌駕するほどの才能を持ち合わせていた訳ではない。

 それでもその若さでルバルディア突撃騎馬兵団の分隊、小隊を率い、最終的には中隊の副長にまで上り詰められたのは、正真正銘カイルの実力に拠るところだ。

 それだけの努力を以って磨いてきた己の腕ならば昔のような失態を冒さない。

 目前の敵と充分にわたり合えるだけの自負が、少なからず形成されていた。



 だが――

 カイルは間近に迫ろうとする魔物の群れに単身斬り込むような真似はしなかった。


 それは勿論、勝算云々の話でもあったが、カイルは直ぐにでも思い至っていたからだ。

 この魔物達とそして女の狙いは自分一人の命ではないという事を。


 そう、カイルは草一つない土の上で未だ意識を取り戻すことなく伏せっている少女の存在に意識を傾けさせていた。


 まるで危うく、あの時と同じような結末を迎えさせるところだったとカイルは自戒する。

 自分の剣を仇討ちのためにと振るっていた時期もあった。しかし、あの旅立ちの日に誓ったのだ。もう二度と自らの前で理不尽を繰り返させない為にこそ、その剣が役目を持つと。


 逆上のぼせていた頭が少しずつ明瞭になり始める。


 己に誓った信義をげさせないために、取るべき行動は復讐と称した玉砕戦法ではない。

 これまで培ってきた腕は、今そこにいる無垢な少女を救うべくあるはず。

 あの時の弱く惨めだった自分と決別する為に、本当の意味での強さというものを自信が身につけたと証明するために、今取るべき行動は――


 その時、奇怪な雄叫びを上げた二体の魔物が、その腕をカイルへと伸ばそうと同時に襲い来る。


 だがその魔物の歪な爪がそこへと至る直前、全身をひるがえして作った遠心力という重さを乗せたカイルの一刀により叩き折られる。

 そのままの流れで身をねじったカイルは、次いで襲い掛かってきたもう一体の腕をも叩き伏せる。

 無意味に長い腕の中程まで食い込んだ剣をじって引き抜くと、骨がひしげる音と赤い飛沫が放たれる。


 魔物たちは呻きを上げ、勢い余ってその場に倒れ伏す。

 そんな二体を横脇へと流し捨てると、カイルは続々と襲い掛からんとする魔物達をまるで相手にしようとせず転進する。


 素早く後ろへと走った。

 相手の弱点であるその鈍足を突いて、この場から逃げ延びるために少女の元へと駆け寄ったのだ。


 追い縋るような複数の雄叫びがカイルの背中から聞こえる。

 しかしまるで構わず、気を失ったままの少女を抱きかかえると、その草木のない空けた地面から一転した木立が連続する方へと身を投げ出すように向かった。


 血溜りのぬめった感触から、乾いた地面へと至れば、その足どりも幾分ましなものとなる。


 だが小さな子供とはいえ、その身を抱えて全力疾走など続ければ、いつ息が上がって身動きが取れなくなるか分からない。

 それでも無防備な少女を庇いながら、あの数の魔物達を相手にするほどに危うい策は取れなかった。

 ならば最も堅実な手段は、こうして少しでもやつ等との距離を稼いで逃げ切ることだったろう。


 幸いにして、あの魔物どもの動きは相変わらずの鈍さだった。



 カイルは生い茂る木々により、月明かりが遮られるようになったその森をひたすらに奔った。

 張り出した木の根に足を取られないように気を回しながら、それでもできる限りの速度を維持してこの森を抜けるつもりでいた。


 しかし、そんなカイルの身を既知感のある凍えが襲う。


 はっとした次の瞬間には、切り裂くような冷気が自分の周りを取り囲んでいることを知った。

 瞬時に身を屈めるようにして前方へと転がり逃げた。

 その後ろで、何かが擦れ合うような耳障りな音を響かせて、人間大の氷塊が突如姿を見せる。


 予期しない突然のそれの襲来にカイルは焦った様子で辺りを振り仰ぐ。

 しかしあの女の姿どころか、魔物達の影さえ見て取れない。


 その様子に、少女を抱えたまま、しばらく呆然とした体をなしてしまっていた。

 そしてその行為がとてつもなく危険なものであったと知れたのは、今一度肌を刺すような冷気がカイルの周りを取り巻いてからのことだった。


 それに反応できたカイルも捨てたものではなかったが、しかし意識が他に向いていたのが災いとなった。

 さっきまでとは比べ物にならない大きな冷気の奔流が辺りを包み込み、今度は天をくかのような氷柱がその空間を突き刺した。


 辛うじてそれの直撃は避けきることが出来たカイルだったが、その反動のように抱えていた少女の体を手放してしまう。

 着地することは考えずひたすらその場からの離脱だけを思って跳躍をしたカイルから、少女の身は離れ草の生い茂る軟らかい地面にどさっと音を立てて落ちた。


 草に埋もれた少女が小さな呻きのようなものを上げる。どうやら、今の衝撃で意識を取り戻しかけているようだ。

 しかし、こんな状況だ。できることならまだ気を失ったままで居てくれた方が良い。

 目を覚ましたとて、少女の足ではこの場からは逃げ切れはしないだろう。ならば、化け物が蔓延るこのような光景などは目にしないでいてくれた方がいい。


「くそっ――どうなってるんだ?! あっちは俺達の姿を捉えているとでも……」


 そう吐き捨てるよう口にして、身体は地面に伏せったままカイルは辺りの様子を隙なく窺う。

 やはりそこには追っ手の影さえ見えない。


 しかし、この攻撃は間違いなくあの女の術であった。

 方法は分からぬが、相手には今こうしているカイル達の姿が見えていると考えるしかなかった。


「……うん……」


 微かな呻きがまたカイルの耳に届く。

 見遣れば、幼い少女はともすれば目覚めてしまいそうな気配。


 ともかくそのままの状態で止まっていることが危険だと判断したカイルは、すぐさまにも少女の元へと駆け寄ろうと身を起こした。


 そうして一歩駆け出したところで、その足に拭いようの無い違和感を覚える。


 ぬちゃりとした湿った音と感触がその足を通して伝わる。

 下を見れば地面が何やら濡れているのだ。


 始めは泥地か水溜りでもあるのかと思った。

 だが、おぼろな月の光が射しては辺りを映し出したその瞬間――

 顕になった光景に肝が冷たく染みる。


 自分達の周りの地面がいつのまにか血にまみれていた。


 それはまさに先程までの血の池の光景にたがわず。――いや、よくよく注視すれば、自分の周りだけでなくこの一帯全てがそうであると知れた。



 カイルの脳裏に恐ろしげな予感が舞い戻る。



 そしてその予感が見事に的中した事を示そうとするかのように、血溜りの地面が揺らいだ。


 小さな波紋は大きなそれへと姿を変え、遂には血の柱が噴きあがる。

 そしてその中から出てくるのはやはり白い歪な腕であった。

 それが何本も、まるで殻を破って産声を上げる雛鳥のくちばしのように地面から突き出てくる。


「しまった――!!」


 カイルがそう悪態をついた矢先、その直ぐ真下の地面から生え出た腕が踏み出そうとした足を掴む。

 体勢を崩しそうになるのをすんでの所で持ち堪える。

 次いで現れたその不気味な髑髏顔が、今まさに喰らいつこうと大きく開いたその口蓋こうがいに剣を突き刺した。

 歯の間を貫通して喉の奥にまで至ったその刃は相手を仕留めるものとして十分。


 上半身だけを晒した状態のまま崩れ落ちる怪物の体を払い除けると、同じように続々と体躯を晒し始めた魔物どもの、その中途半端に露出したまま身動きが取れないでいるのを好機と見てとったカイル。

 剣を両手で構えると、自分と少女との間に現れた魔物どものその無防備な首を刈り取るべく駆け抜けた。


 魔物の腕がカイルに向かって何本も伸びたが、地面に挟まったように体が固定されている相手の攻撃などは恐れるまでもなかった。

 腕を掻い潜り、時にはそれを叩き斬って、怪物達の懐まで至ると、体全部で圧しかかるように体重を乗せて相手の胸に剣を突きたてる。

 引き抜いた剣と同時に身を翻して次の目標まで奔ったカイル。今度は斜め上段から勢いに任せて長剣を叩きつける。相手の首の骨の部分にまで侵入した刃を引くと、鮮血は勢いよく噴出した。


 その魔物を仕留めたところで、もう少女との距離は僅かだった。


 周りにはまだ多数の魔物が、血の池の中から今まさに生まれてきたかのような動作でゆらりと立ち上がっている。

 さながら地の底から這い出る亡者達を描いたような恐ろしい図だ。

 それに躊躇することなく、ひたすらこの場から逃げ切ることだけを念頭に置く。


 だが――

 少女の元へまであとほんの少しという瞬間、またしてもあの冷気が身を包み込んだ。


 その魔術は発動から致命的なダメージを受けるまでのタイムラグが大きいものであり、それを見越して避け切る事自体は容易い。


 けれど術をかわすべく飛び退いた先、その後の体勢や行動に至って言えば、今この状況でそうやって動きを制限される事そのものが致命的と言える。


 転がるように回避行動を取っていたカイルは、立ち上がる間もなくその両足を物凄い力で掴まれて膝を折った。

 振り向けば、また新たな魔物が今そうやって地面から這い出てくる。

 しかも、それが単体ではなく、複数体が同じ場所にて犇めくように連なっている。


 まるでそれらは顔や手が幾つも存在する新しい一体の魔物であるかのように、同じ地面から何本もの腕が足掻くように地面を引っ掻いている。

 それらの一部がカイルの動きを封ずるべく、両の足をがっちりと掴んでいるのだ。


 頭の中でこれまでにない警鐘が鳴らされているのを自覚した。


 そして次の瞬間――

 カイルの全身を覆う程の影がすぐそこまで迫る。


 体の大事な部分を守るように身を丸くしたのは本能的な反射だったろう。

 その直後、カイルの左脇腹に凄まじい衝撃が襲い来た。


 長身で体格も良いカイルが、まるで容易く数メートルは地面と水平に吹き飛ばされて、血に濡れた地面を滑るように転がった。


 全身が、重苦しい痛みによって引き裂かれる。

 脇腹から感じるあまりの激痛は視界は揺らめかせ、体の芯を痺れさせるほど。

 その凶悪な膂力に任せた魔物の一撃は、簡素な革で作られた鎧とはいえ、それを根こそぎ引き千切っていく程の威力を誇っていた。


 鎧がなければ抉られていたのは自分の骨肉だと思うと、痺れる脳に恐怖という文字が染み渡る。

 ――だがそれをじっくりと噛み締めている余裕すらカイルには与えられない。


 二の足で立つことがままならず、剣を杖のように地面に刺して胡乱な体で起き上がったカイルをまた別の影が覆った。

 腕を腰から後ろに大きく振りかぶった体勢の怪物をその揺らぐ視界で捉えたと思った刹那、ぞっとする風圧を感じたその腹部に、突き上げるような一方向の力場が発生する。


 とてつもない力で叩き上げられたカイルの身体は、人間一人を遥かに超える高さまで軽く浮き上がり、その後ろにあった木の幹へと激突する。

 軋んだ自らの筋肉が呼吸を奪う。

 腹の肉が押し上げられて肺を圧迫したかのように、空気が勢いよく吐き出され、血の混じった咳が鳴る。

 揺れしなう木の幹をずるずる擦り落ちて、その根元へと力なく腰を落とした。


 あまりの衝撃に自分の上半身と下半身が二つに分かれたと思った。だが、地面に座りこんだ体はちゃんとした人間の形を保っていた。

 体が痺れているせいか、どこかふわふわとした感覚で、自分に肉体があるという感覚がまるで消失していた。

 喉の奥から壊れた笛の音のような呼吸音が聞こえるのは、喉に詰まった血のせいか、それとも肺の形状がひどいことになっているせいだろうか。


 霞んでゆく視界に、ふと、白色の肌をした魔物達の合間で鮮やかな銀色の煌きが流れ動いているのを見つける。


 そうしてそれは、ゆっくりとカイルの目前へと至ったのだった。


 その女の顔さえもはっきりと識別できないほどに視界はぼやけ薄れていた。

 額から何か生暖かいものがぬるりと垂れたような感触があった。おそらく木の幹に叩きつけられた時に頭を打ったのかもしれない。痛みは感じなくなっていたが、瞼がやたらと重い。


「人の身でありながら、よくそこまで立ち回れるものです。賞賛に値する事柄だと褒めるべきでしょうか。しかし、その奮闘もここで終わりを迎えてしまう」


 カイルは女の言葉の半分も耳に入れることが出来ない。

 それほどに頭は痺れ、気怠けだるいような安らぎがその微かな意識を包み込む。それに身を預けてしまえばどんなに心地良いものだろうかと、それだけを考えていた。


「さあ、咲かせましょう。あの子を誘う死の花を――その芳醇な死の香りを辺りに満たせば、きっとあの子はやってくるでしょうから」


 はっきりと視認できないながらも、その女が微笑んだのを感じ取った。

 そのなまめかしくありながらも――まるで無垢な顔とも取れるその微笑だけは、何故かカイルの網膜に張り付いて離れないかのよう。


 女がカイルから視線を外して、脇合いに控える群れた魔物達へと当てた。



 つられるよう微弱な視界で同じ光景を捉えたカイルの脳が――

 ここに来てはっきりと覚醒を選んだ。



 背筋がひび割れる程に凍りついたカイルが、声にならない叫びを上げる。

 麻痺して薄れていた手足の感覚が一気に引き戻る。

 それと同時に痛みは全身を駆け抜ける。


 だがそんな事に構っていられないほどの光景がそこに広がっていた。


「や、め……ろ……っ!!」


 何体いるのかも確認できない魔物の群れの中心――

 そこで、一体の魔物が、その腕に力無く頭を垂れた少女の体を引きつかんでいた。


 魔物の掌はあまりに巨大で、儚げな少女の体など丸ごと握り込んでいる。

 そうして、不気味な骸骨の顔はこの上なく歪み切る。

 その顔半分に至るまで開かれた大口へと、少女の頭へと持っていく。


「――や、めろぉぉぉ!!」


 ありったけの力で叫んだ。

 その掠れた弱々しい声は、しかし、まるで泣きじゃくる子供のそれにしか聞こえない。


 全身の痛みを抑え込んで身体を起き上がらせようと試みる。だが、力なく座り込んだその体勢から前のめりに倒れ込むことしかできない。

 背骨が千切れているのではないかという激痛だけがカイルの体を伝う。

 動き出せる力などは、とうに残っていない。


 どんな状況でも護ってみせると強く誓った対象が、必ず連れて帰ると固く約束したその少女が、今そこで歪な怪物どもに喰らい殺されようとしていた。


 それを前にして、カイルはまるで虫ケラのように地を這うしかできないでいる。


 魔物の大口がゆっくりと意識のない少女の頭へと寄る。しかし、カイルのその位置からでは、魔物の馬鹿みたいに大きな頭蓋で隠されて見えなくなる。


 ただ、僅かに垣間見える垂れ下がった腕はまるで力無く、少女が意識を取り戻す素振りはないようだ。

 あるいは今ここで目覚めてしまうより意識の無いまま死ねる方が幸せかもしれない――

 カイルの頭のどこかで、そんな冷めた考えが過ぎったことさえ意識の表層には映らない。


 ただ自身の無力さと不甲斐無さへの悔恨が、滞ることなく巡っていく。

 こんな理不尽を繰り返させないためにと強く誓ったそれらの多くの思いが、今そうして形も成さずに消えかかっていく。


 そして、カイルの脳裏にあの日の光景がありありと甦った。


 あの日の悲劇と今とがここで重なるように色彩を持つ。

 幼い少女のその淡い色合いをした栗色の髪と、幼馴染のリュカのあの艶やかな色合いの亜麻色の髪が、微かに混じり合うようにその瞳には映った。


 その虚ろな幻影に、カイルは在りし日の風景を思い起こしていた。


 思えば――

 自分は本当にリュカの事が好きだったのだと振り返る。


 幼き日、城で初めて出会ったあの日から、自分は彼女のことが気になって仕方がなかった。

 親しくなってから知った彼女のその優しくて恥ずかしがりやな性格も、自分が二つ年上だからと言って無理強いに吹かせるそのお姉さん風も、成長した彼女のその長く美しい亜麻色の髪も、その全てがカイルにとって心弾むようなものだった。


 そんな懐かしい多くの記憶たちがカイルの胸に舞い戻る。


 だがそのリュカティアは、弱く浅はかだった自分と引き替えになって死んだ。

 カイルの思い上がりが彼女を殺したようなものだとさえ言ってしまえる。


 彼女の死――

 あの一瞬の光景だけは、どうあっても処理し切れず、ただ心の底の底へと落とし込んできた。


 水底から、それが今、浮かび上がってくる。


 あの時も、そして今現在も、これ程までに無力で矮小な自分は、一体どうしていれば良かったのだろうかと自問を繰り返していた。


 あるいはもっと敬遠に神に祈りを捧げて、助けを請うべきだったのだろうか。

 人の身でありながら、まるで自身で何事もやってのけれるとおごっていた自分の罪なのだろうか。

 可能性や希望と呼ぶような飾り立てた言葉を発して、その実自分がどのような現状にいるかを冷静に見極めようとしなかったその甘さが原因なのだろうか。

 そうして、ちっぽけな自分の底をしっかりと見据え、訪れるであろう奇跡を信じて待っていればよかったのだろうか。



 いや――

 奇跡ならば、一度その身に起きている。



 それはまるでカイルが望んだようなものではなかった。その奇跡の中でカイルの願いは一つとしても叶えられる事はなかった。

 しかしあの奇跡の只中で、あれは自分に『力を与える』と、そう言った。

 『強い思いと同じ分だけの力を与える』と、そう確かに口にしたのだ。


 力とは一体何の事だろうか。 


 自分の身にこれまで取り留めて変化などは無かったし、何かを得たという実感もまるで無かった。

 それらはやはりただの夢幻であったのだろうか。 


 だがそれでも、自身の命があの場から救われたことは事実だった。


 奇跡ならば一度その身に顕在化していたという記憶だけが、只カイルには残っている。 

 そして力とは何なのかは知らずとも、カイルには機会が与えられた。

 もう一度本当の意味での生を得る機会が、そこに用意されたのだ。


 背負うべきものがどれだけ重くあっても、決して折れず曲がらずに胸を張り続ける――

 憧れの人のように。


 窮地に立たされた時であっても、護るべき存在のために揺るぎ無いほど冷静だった――

 掛け替えのない人々のように。


 本当の意味での強さを持った存在に、その理想に限りなく近づくためのチャンスを自分は貰っていたのだと思い出していた。



 そして―― 


 その与えられたチャンスはまだ終わってなどいない。



 カイルはまだ生きている。


 その幾多の大切な思いの炎でさえ、まだ完全に吹き消えていない。

 魂の奥底でくすぶった何かが、カイルの体を揺り動かしてくる。


 今ここで目をつむるわけにはいかない。

 心臓が脈打ち続ける限り立ち上がる事を望まなければならない。


 強い思いとは、あるいはこういったものを言うのだろうか。


 そうであるならばきっと、その思いを今ここで確固たる”力”へと具現させなければならないのだろう。



 一体どれほどの時間だっただろう。

 激しい思いがせきを切ってカイルの胸の内を流れ渦巻いた。



 もしかしたらそれが走馬灯などと呼ばれるものだったのかも知れない。

 だが今そんな事は些細なことだ。


 ふと、ぼやけるような視界に一度だけ見た覚えのある波打つ金色の体毛と双つの小さな満月を捉えた気がした。

 しかしそれは錯覚だったろう。いやカイル自身の意志によって、それを錯覚として処理した。


 ――二度目の奇跡を望むには、ムシが良ぎるよな――


 揺らぐ視界は次第に明瞭になりながら、それを以って幼い少女を喰らい殺そうとしている魔物の姿を捉えた。

 他の魔物達もあの女も、ただその様を傍観するかのように周りを取り巻いているに過ぎない。


 その最中で、まるで芋虫のように無様に地面を這って、体勢を整えようとしているカイルに気づく者はいない。

 まるで無様でありながら、しかしカイルのその瞳に宿る煌々こうこうとした光はまるで諦めてなどいないことの証明。


 ――無駄なあがきでいい――

 ――ただの時間稼ぎで構うもんか――


 カイルに勝算も打開策も無かった。

 それでもやるべき事があると、この状況下で確信していた。


 だがそれでも、全身の痛みは退かず、身体に受けた損傷は容易に回復するものではない。

 体中の奥底から気力を振り絞ってみても、この魔物達を仕留めきれるなどと思える筈がない。


 それでもカイルは、体に残ったありったけの力を捻出して姿勢を変えた。

 利き手に剣の柄の感触がある。あれだけの攻撃を受けて、よくもまあ放り落とさなかったものだと我ながら感心する。

 その柄から鍔元の部分へと持ち手を変える。

 必死の力でうつ伏せだったその体勢を変えて起き上がると、鍔元で握り締めた長剣を構える。

 まるで弓をひくように、腕を後ろ手に肩と直線状に置く。

 そして照準を付けるように剣先で狙いを定めた。


 まるで不自然な体勢のままであったが、腕と肩と腰との筋肉をまさに引き絞る弓の弦のように緊張させて張力を得る。


 そして、その長剣を渾身の力と共に投擲した。


 びゅん――と、風切り音をなびかせ、カイルの長剣は空気をく。

 狙い定めた目標へ、寸分も違わずに命中する。


 今まさに少女の頭を噛み砕こうとしていたその際どい魔物の後ろ首を、剣は深々と突き貫く。

 鈍い音を発して刃の中間あたりまで刺し侵した剣は、対象の活動を完全に停止させた。

 少女の身を捕らえたまま、魔物はぐらり真横に倒れ込こんでいた。


 女が振り向く。

 カイルを見据えるその顔は相変わらずで、まるで感情一つ映さない。


「よく、それだけ諦め悪く足掻あがこうとするものです。しかしながら、今更あなたが何をしようと、状況は何一つとして変わらないということがお理解わかりでないのでしょうか」


 女が淡々と口にした通り、確かにカイルの行動など所詮悪あがきでしかない。


 少女を喰い殺そうとしていた魔物の一体は確かに仕留めることができた。

 しかし、まるで立ち代るかのように新たな魔物が輪の中心にゆっくりと歩み入り、少女の体を攫み取ったのだ。


 そうしてまた同じようにその歪な顔は割れ、実に緩慢な動作で小さな子供など一飲みにできそうな大口が開け放たれる。

 今度はカイルに向け、正面から、少女の柔らかい頭を噛み砕こうとする様を見せつけるかのように。


 それでもカイルは諦め切ることができない。


 倒れ伏したまま、地を這いつくばって前に進もうとする。

 満足に体も動かせないというに、その少女を救うべく手足で地面を掻き泳いで移動する。

 たった数センチの距離を進むだけで体中は酷く軋み、激痛が意識を繋いでくれた。


 終わってしまった過去はどれだけ願ってみても変えられることはない。

 しかしそこにあるのは過去ではない。

 今現在の出来事なのだ。


 そうであるなら、結果を迎えるまで確定されるべきものなどは何一つとしてない筈だ。


 たとえそれがどれだけ絶望的な状況、目に見えて分かりきっていると言われるような確率であっても、賽の目は投げ落とされるその瞬間まで決定はなされない。

 だから、まだ過程であるこの瞬間にそれを途中で投げ出すことをカイルはしない。

 かつて自らが犯した過ちを繰り返すわけにはいかない。


 カイルはただ、その瞬間を見据え続ける。

 決して諦めずに、前へと突き進む。


 あるいはカイルは、一度否定しておきながらどこかで奇跡を待っていたのかもしれない。


 だがその奇跡は前と違ったものだ。

 誰かから与え授かるような都合の良いものではない。

 それはきっと、自らを信じ続けて到達した者だけが勝ち得るようなもの。最後の最後までその目を閉じずに抗い続けた者に開かれる定理のようなもの。

 そういった類の奇跡を、心のどこかで信じていた。


 今また、意識のない少女の頭を噛み砕かんとした魔物のその口が徐々に近づいていく。

 まるでカイルに、その巨大で歪な歯が少女の頭部へと到達する様を見せつけんばかりに殊更ゆっくりと迫る。


 だが、それを絶望の眼差しでなど見ていない。

 どこまでも強い眼光でその様を睨みつけながら地を這っている。

 そこから決して目を逸らさずに、体全体に駆け巡る激痛を意識しながら、ひたすらに前へ前へと地面を掻く。



 そして、決して揺るがなかったカイルの瞳に映ったものは――




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