並んだ雲と影

第13話


 微かな月の光を反射して、幻想的な色合いを醸し出す銀色のローブ。

 そこから覗く褐色の肌には、この世のものとは思えない淫靡いんびさが宿っている。


 頭部を丸々と覆っていたそれが、まるで流れる水銀のような滑らかさでするりとはだける。そこから顕になった造り物めいた美しい顔立ちは、息をするのを失する程に嬌美であった。

 そして、穏やかに閉じられていた両の瞼がゆっくりと開かれ、その脳裏に焼きつくほどに鮮やかで蠱惑こわく的な翡翠の瞳がカイルを捉えた。

 その背骨を直になぞられるかのような視線から逃れる術もなく、カイルは暫しの間、自分が自由な意思を持った人間だということを忘れていた。


 しかし、そんな空白も僅かなもの。

 カイルは額を押さえると、前回と同じようにして突如と現れたその女へと向き直った。


「まさか、こんなにも早く再会できるとは」


 呟くような小さな声で、そう言葉にしたカイル。若干、調子めいて言葉を飾るも、緊迫した感が否めない声である。


 目の前のローブの女――それは間違いようもなく、あの教会にて曰くありげにカイルを焚き付け、今こうしてこの場所に居る起因をつくった張本人だ。

 そしてその夢幻のような不確かさと危うさの裏に、どう足掻いても逃れられない呪縛のようなものを感じさせる、そんな不可思議に美しい女だ。


 女はまるで変わらない。

 その穏やかな微笑を湛えたまま動く気配がない。他の一切の感情の起伏を察することができない、そんな微笑である。

 そうしてやはり静かに佇み、ただカイル達に視線を投げ掛けたままでいた。


 カイルは今、あの教会で始めてあった時には感じる事がなかった明確な感情を抱いていた。

 それはこの奇怪が連続する森の中だからという事が一因としてある。

 しかしそれ以上に、この状況があまりにも出来すぎているというのがあったからだ。


 女の言葉に誘われるままこの森までやって来た。

 その事を何度も懸念していた事は確かだ。それでも尚、何かに引き寄せられるように足を向けてしまった。その終着点かの如く、女は再び自身の前に姿を現した。

 それも、連なり立つような“異様”を引きつれて。


 どうやらこれを危惧しないでいられる程には、カイルは能天気な性格ではなかったらしい。


 湿気がぶり返したかのように、じっとりと汗ばむの感じる。

 その焦りは握った手を伝って、後ろにいる少女にも伝わってしまっただろうか。そんな一抹の不安が、少しだけカイルの頭を冷ます役割を果たしてくれた。


 そして、女に対する恐怖という感情が、どんな思考よりも明確な形でカイル達の前に顕になったのは――

 欠けていた月からの光の雨が完全な状態で地面の上に降り注いだ時だった。


 その光景を第一に目撃したカイルは身をひるがえし、後ろの少女の視界を外套で覆い塞ぐように拡げる。

 しかしその時には既に、くぐもった悲鳴がその胸のすぐ傍から聞こえていた。


「ひっ……!!」


 少女は震える喉と体で、言葉にならない声を上げる。

 その無邪気だった幼い両目は、恐怖に引きるかのように極限まで見開かれていた。


 自分の反応が遅かったことに、胸内で舌打ちするカイル。


 あまりに凄絶な光景を目の当たりにした少女は、膝から崩れるように座り込んでいる。

 そんな恐怖に怯える小さな体をしっかと支えるように身を屈ませて、ただカイルは相手を少しでも安心させることだけを考えてその身を抱き寄せた。


 カイルは少女を抱きとめたまま、顔半分だけを向けた。

 煌びやか銀色のローブが辺りのそれらと反して嘘のように映える――なんとも表現できぬそのおぞましい光景へと。


 静かにそして穏やかに佇む女の周り、そこには惨殺された無数の屍が転がっている。

 その酷く損壊させられた死体の数が一体どれだけに上るのか、その判断はつかない。それは人の形を保っているものが数える程にしかないからだ。

 かつてはそれが人の手足や頭だったと彷彿させる――そんな部分的な肉塊が、辺り一面に転がっていた。

 臭いがまるで収まらなかったのも頷けるぐらいの血溜りがだ。


 そんな中心で、女はどこまでも安らかに微笑んでいた。


 かつて経験したことのない恐怖に、呼吸の方法すら忘れてしまったような少女。その小刻みな震えをその身で相殺させるように強く抱き止めていた。

 だがあまりのショックから、カイルの腕の中で次第意識を遠のかせた。少女は耐えられず、その精神の線が途切れてしまったのだ。カイルにその身を預けたまま、眠ったように大人しくなる。


 カイルはその身を庇うように体勢を変えてから鋭い視線を女に向ける。


「状況を説明して欲しい。一体、何がどうなっているんだ……? その周りにある死体は……」

「――ええ。私が」


 カイルが全部を言い切るまでもなく、女はそう言って、軽く首をかしげるように変わらず微笑み続けている。

 その短い返しだけで、おおよそカイルの知り得たかったものが手に入る。同時に、その返答に対してカイルの心音はどくっと大きく跳ね上がている。


 状況があまりにも通常のものから逸脱していて、上手く頭が回ってくれない。

 そんなままならない思考を無理矢理にでも巡らせて、カイルは現状を把握しようとする。


 そこ等中に転がっているそれらは、おそらく話で聞いていたこの森を根城にする野盗達の群れだろう。所々に散らばる、その肉片となった手に握られている無骨な武器がそれを証明している。なにより、この森にこれだけの人数が群がっているという事だけでも、それらは容易に察しがついた。 


 女の言葉をそのまま信じるならば、問題は、そんな相手等をどうやってこの様な姿に変える事ができたか――

 いや、なんの為にそこまでの殺し方をしたのかだった。


 そこまで短い間で思案したカイルだが、答えになど辿り着けるはずがなかった。

 こんな状況をどうやって看破しろというのか、そんな無茶に応えられるほどの頭脳は持ち合わせていないといった叫びだけが心中で木霊する。


 しかし、ただ唯一この状況を説明できる人間をの当たりにしている。

 それは事の真相に至れるほど定かではないが、この場ではそれ以外の方法など思いつきもしなかった。


 カイルは喉の張り付きを意識して騙し、ただ抑揚のない声を発する。


「どうして、こんなことを……?」

「それはあの子を此処に呼ぶためです」


 返事が返ってくるなどという確証はなかった。

 しかし意外にも、女はその異様に艶の篭った声音でカイルの問いかけに対してまっとうな言葉をもって返した。


「呼ぶ?」 

「そうです。彼らはあの子を呼ぶために、そしてあの子を飽きさせないよう、少しでも長くもてなせるよう、その為の素材となってもらったのです」

「素材だって? なにを言って……いや、そんな事よりも、あの子とは一体誰の事なんだ?」


 問いかけに対しての応答はあるものの、その言葉の意味するところがまるで理解できない。


「みながあの子のことを、まるで自ら死を撒き散らすかのように噂していますが、本当はまるで違うのです。あの子はただ、誰よりも死の匂いを敏感に嗅ぎ分けられるというだけ」

「死の匂いを……嗅ぎ分ける?」

「そうです。だからあの子が行く先々には常に“死”が蔓延まんえんしている。それをはたから見ただけの者達が、あの子が死を運んできていると勘違いしてしまったのです。まるで“死”を運ぶ“黒い風”だなどと」


「黒い風……? 死……?」


 そこまで口にしたカイルは、その数ある言葉達に関連する一つの存在を思い起こしていた。

 まるで取り留めの無かった破片たちが、次第に組み合わさるようにある人物を――その眉唾と判断していた伝説の域の噂話を思い返していた。


「ヴェヘイルモット――“黒き死の風”ヴェヘイルモットの事を言っているのか?」


 ここに来るまでに何度も耳にしていた噂。

 伝説の傭兵ヴェヘイルモットがこのハーレィにも姿を現し、そして行く先々にて死を撒き散らしているという話の内容。


 ヴェヘイルモットは触れたもの全てに“死”の烙印を与える悪魔の化身であり、自らが不老不死という体に生まれついた事を呪っている。それ故、自分以外を全て”死”で埋め尽くさんと各地を廻っているのだという――そんな類の与太話だ。


「馬鹿な! 実在しているわけない、そんな無茶苦茶な存在! ……それに、今ヴェヘイルモットがどう関係してるっていうんだ?」


 この女がカイルをここまで来させたのは間違いようのない事実であり、ともするならば、今そうして口にしているヴェヘイルモットとも何らかの関連性があるのだろう。


 しかし、そこがカイルには分からない。

 自分と実在するかも分からない伝説の傭兵とに一体なんの接点があるのか。――皆目見当もつかないのだ。


 しかし、その焦燥と怪訝の混じった問いに、女はそれまでのように答えようとしない。

 ただ緩やかな動作で一歩、その場から足を踏み出した。


 赤黒く染まった地面――

 血と臓物に彩られたその上をまるで音も立てず、滑るような動作で渡っていく。


「覚えていますか? “セトラメデオクスの歌”という言葉を」


 そのきらめく銀色が流れるようあまりにも軽やかにそして流麗に、その場所を巡るべく歩みを止めない女。

 降り注ぐ青い月の光は銀色と暗色にまるで違った印象を彩る。


 そのどこか神々しさすら感じる絢爛けんらんとした光景に――カイルはしかし、未だ意識の戻らない幼い少女をその身に抱き、警戒心を強く示す鋭い一瞥でもって相手への牽制を図っていた。


「――“セトラメデオクスの歌”……あるいは“始原の歌”と言い換えたほうが、あなた方には馴染みがあるのでしょうか」


 女はそのカイルの険しい視線をまるで意に介さない。

 いやそもそも、目の前の存在がカイルの感情や動作に反応したことなど一度たりともない。


「“始原の歌”――たしか、ブランスタの古い言い伝えに出てくる詩のようなものだった筈。……それが一体何と関係しているって?」

「その“始原の歌”が綴っているのは、ただ一つの簡潔な事柄です。それは生命の誕生そのものを歌ったものであり、それ一つのみでは何の意味もありません」


 女は重力をまるで感じさせない足取りで血溜りの池の中をゆっくりと踊り廻るかのように足を動かす。

 そしてそのまま、カイル達を背中越しに捉えて言葉を紡いでいく。


「そもそも“セトラメデオクス”とは、始まりと終わりを意味するもの。そしてあなた方に伝わった“始原の歌”は、文字通り誕生を綴ったものでしかない。しかし生命とは生まれながら、もう一つの意味を持つのです。対照的に見えて、根源となるものは同一な事象、すなわち“死”です。そして、この地に語り継がれてきた伝承に登場する“死”を象徴とする悪魔の王の存在」


「それがヴェヘイルモット? ……いや、待ってくれ! 話が錯綜さくそうしている、今話しているのは大陸の伝承に出てくる――御伽噺に登場するヴェヘイルモットの事だ。さっきまで話していたのは、大戦末期にその名を付けられた傭兵の話だったろう」


 思わずカイルは顔を上げ、大きく異を唱えていた。

 しかし女はカイルに向き直る素振りすらなく、変わらずその銀のローブに包まれたシルエットだけを見せている。


 カイルとその女とでは、こうして言葉を交わしていてもまるで次元が違う――何か計り知れぬ障壁があるかのようだ。


「何も間違ったことではないのです。あなた方にとってのあの子の認識は二つあるという事。しかし私達にとってあの子はただの一つだけということ」

「その口ぶりじゃ、まるで伝承にある悪魔の王が、今現在に噂されているヴェヘイルモットと同一の存在だとでも言ってるようだ。……まさか、そんな馬鹿な話があるもんか。そもそも、俺が訊いたのはそんな話じゃない。どうして俺をここに導いたのか、俺とヴェヘイルモットとやらに何の関係があるのか、――訊きたいのはそれだけだ!」


「あなたとあの子に直接的な関係はないのです。しかしあなたが関わった存在とあの子の間にはどうしても断ち切れない繋がりが存在しています。それ故に、あなたをここまで招き、そして今こうしてあの子の到来を待ち望んでいるのです。もっとも直接あなたとあの子が会う必要もなければ、今この場所でなければならないという事もありません。ただ事象がここで重なりあったというだけの話なのです。あるいは、あなた方には都合が良かったと言えば伝わりますでしょうか」


「俺が関わった存在? 次から次へと分からない事を……!」


 カイルは呻くようにそう呟いた。

 最初から薄々とは感じていたことだが、この目の前の女はただ人語を喋れるというだけのまるで別の生き物か何かのように思えて仕方が無い。感情と呼べるものが介在しないその口ぶりが、おそらくそんな錯覚を生み出しているのだろう。


 カイルはここまで、相手が同じ人間であるという認識をまるで持てないでいたのだった。


「さあ、これ以上は話をしていても、あなた方にはただの繰言くりごととしか捉えられないでしょう。言葉を介してでは、私の話を真に理解していただくことは不可能に近いこと……」


 そう口にした言葉の最後で、ようやくカイル達の方へと向き直った女。相変わらずの微笑がその顔には張り付いている。


 その様を見てカイルはただ観念した。

 おそらく、目の前の存在は自分達との会話も意思疎通もなにも求めてはいない。まるで反作用のように、言葉に対する言葉を返しているに過ぎないのだ。

 それは的外れなものではないが、しかし正解へと辿り着くこともまた決してないと言い切れるものだった。



 ふと女が、空を仰ぎ見るように首を巡らした。そのローブが僅かに揺れただけで、幻想的な銀色は月明かりに映し出される。


 その動きを少なくない警戒の顔付き眺めるカイル。


「少し、意外なことに……あの子はこの場所を見つけるのをらしくもなく手間取っているようです。普段ならば、これだけの死の匂いを漂わせれば、たとえどこにいようとも嗅ぎつけてきてもおかしくはないのですが……。やはり、”干渉”が生じているのですね」


 別段、同意を求めるわけでもなく、ただありのままの事柄を淡々と述べた風だ。そうして、何故か視線の先をカイルの顔からその胸元へと移した。

 そこには、カイルの胸で力無く横たわるように気を失っている少女の姿があった。


「――!?」 


 女のその視線の意味をカイルは理解してしまった。

 それはその場所に転がる無数の無残な屍の山と、この女との先程までの会話を照らし合わせれば察しうるもの。


 恐ろしい想像が悪寒となってカイルの背骨を這う。


 無防備に倒れこんでいる少女の体を自らの片腕で確りと抱きかかえ、体勢を変えた。

 そんなカイルの強張った動作などは気にも留めず、女はローブの裾から露にした褐色の腕を持ち上げ、その掌をカイルの胸元へと向けた。

 その不自然な動作にカイルの眉間の皺はさらに深く刻まれ、無意識に力むように全身が騒ぎ立つ。


 そして次の瞬間――

 その手からは銀色のローブが発する煌きとはまた別の輝きが出現した。


 反射的にカイルは掴んだままだった剣の柄を引き抜いては、横に飛び退くように身を転じる。何が起こったのかも理解できないまま、しかしその瞬間の危機を察知した体が直ぐさま行動を起こしていた。


 それまでに培ってきた、そんな一瞬の判断力――幾多の戦場で繰り返してきた、命のやりとりにより鋭敏化されたその自己防衛の本能的な感覚がカイル自身とその身に抱く幼い少女の命を救う事になった。

 その事に気づいたのは地面を転がるように飛び退いたあと。――先程まで自分達がいたその場所を振り仰いでからだ。


 カイルはその光景に目を疑う。

 地面に突き刺さるように生えている巨大なその氷柱の存在は、この場所にまるで似つかわしくないものだった。


「何だ――!?」


 その様に乾いた声だけが口から漏れる。


 しかし、忽然と現れたその氷塊を通した先、銀のローブを纏った女が変わらずにその掌を自分達に向けているのを見て取った。

 そしてまた同じように女の手が青白く瞬くように輝き始めた。

 その瞬間、自身の周りを包む空気が、まるで肌を刺すほどの冷たさを持ったのを感じ取る。


 またしてもカイルは、反射的にその場から飛び退いていた。

 しかし今度はその体勢を崩すことなく、ローブの女の姿をはっきりとその両目に捉えたまま、真後ろにステップを踏む。


 まさにそんなカイルの鼻先で、空間ごと凍りつくかのような冷気の奔流が姿を現した。まるで大気そのものが氷結されたかのように、どこからともなく氷の塊が出現したのだ。


 その現象に思わず背筋も”凍りつく”。

 喩えでもなんでもなく、一歩でも動きが遅れていれば今その鼻先にある氷の塊に自らが取り込まれてもおかしくはなかった。


 カイルは飛び退いたその体勢のまま、抜き放った剣を片手で構えて女に向き直る。


「そうか、魔導士だったのか?!」


 おおよそ人智の掛け離れた現象に行き当たった場合、まず疑うべきは魔導士とよばれる者達の存在である。魔術と呼ばれる常人には想像もつかない力を自在に操り、その身を闇から闇へと移して常に時代の影に君臨し続けてきた者達。


 今ここで起きているこれらの異常を説明するのに、これほど明確な根拠もなかった。


 そうであるならば、そこらに転がる野盗たちの残骸がこうまでも凄惨な姿へと成り下がっているのも、今までカイル達の足を止めていた奇妙な血を蒸発させた霧のような存在にも全てに説明が付く。


 魔術の力をもってすれば、人間の身体をこれだけ損壊させる事も――そもそも、たった一人でその大量の人間の息の根を止める事だって可能と思える。野盗達とて抵抗はしただろう。それがいかに困難な所業かは言うまでもない。

 人という領域の外側の力――魔導の術をもってするならば、これくらいの事は容易いのかもしれないのだ。


 だがそれらの解明が成されたとて、今カイル達を襲う状況にさしての抑えにもならない。


 女は飛び退いたカイルの後を目で追って、狙いを付けるようにその掌を向けている。青白い微かな輝きが、またしてもそこから発せられる。


「――よしてくれ! 何のつもりなんだ!?」


 声を荒げて制止を呼び掛けるカイルだが、それと同時にその場からの離脱も既に終わらせている。

 何もない空間から瞬時に湧き起こる冷気の風を感じ取ると、躊躇することなく地面を蹴ってそこから距離を空けた。そうしてまた、カイル達の目先に巨大な氷柱のようなものが新たに出現したのだ。


「性急なれど、あの子をこの地に導くため、あなた方には”死んで”欲しいのです」

「くそ! イカレちまってるのかよ……!!」


 カイルが盗み見た女の表情――

 一切として変化のないその穏やかな微笑が、今この場ではこの上なく恐ろしいものとしか映らない。

 女はまるで安らいだような表情のまま、命をよこせとの宣告してきたのだ。気が触れているどころの話ではなかったろう。


 続けざまにもう二度ほど、女の手は不気味な発光を繰り返し、その都度カイルが足を置くその地面は巨大な氷柱で串刺しにされていく。


 その青白い発光から氷塊が姿を現すまでは少しばかりの時間差があるようで、その隙を突いてカイルは魔術によるその攻撃を巧みに回避していく。

 しかし気絶した少女を抱いたまま、どこまでも運良く逃げ続けられるとは考えにくかった。


 幸いにも少女が目を覚ます気配はない。

 この状況では、少女をただ闇雲に怯えさせてしまうだけだろう。

 幼子一人ぐらいならばその身に担いで動き回れないでもないカイルだが、このままでは埒が明かない。下手を打てば二人一緒に仕留められてしまう。


 必ず守り通すと誓ったカイルの胸の内は、このまま無策に逃げ回ることを危ぶんだ。


「俺をヴェヘイルモットとやらに会わせるんじゃなかったのかよ!?」


 カイルは血の池の中で身動き一つせずに佇むローブの女とのその相対的な距離を目視で測りながら、問いかけるように疑問の声を投げ掛けた。

 相手が返答をくれるかの判断などまるで付けず、意識を少しでもらせる投げ石になればと見做していた。


「先ほども申したように、あなたとあの子とが直接会う必要はないのです。ただあなたを見ている存在、それとき合わせたいだけなのです」

「俺を、見ている……? 一体全体、あんたは何の話をしているんだっ!」


 女の言葉の意味は深く考えずに、カイルは相手の注意を惹きつける事のみを前提に動く。

 想定していたよりも容易に話に引き摺り込めたようだが、その腕は相変わらずカイル達を捉えていた。


「自らが何者であるのか――自らの真の役割がなんであるのか――、それを知らずに状況により与えられた生を享受しているという事は往々にしてよくある話ではないでしょうか。あなたは何も戸惑う必要はないのです。盤上の駒はただ、自らは予見できない大きな流れに沿って動くだけ。本来そこに自我も何も必要とされていないのですから」


「……目的も意義もなく、誰かや何かの思惑に巻き込まれて生を送れってか? 馬鹿にしてくれるよ! 俺はもう、神さまだとか運命だとかに縋って生きていくのは御免願いたいのさ!」


 そう言い放った言葉の最後でカイルは素早く行動に移った。


 その場に幼い少女を残し、足に目一杯の力を込めて地を蹴る。しっかりと剣を構え、脇目もなく女に向かって突進していた。

 そんな唐突な動きに反応するかのように、女の手は向かってくるカイルに絞って狙いを定めている。

 そして女の掌がまたも青白く光り輝き始める。


 カイルは速度を落とさずにその様を見て取ると、風ではためいた自らの外套を引き剥がし、空中に大きく広がるように女目掛けて投げ付けた。

 魔導士を相手にするのは始めての経験であるカイルだったが、まるで空間ごとを凍りつかせるようなその術には、少なくとも目視とその掌による照準が必要だと見破ったのだ。


 それ故に外套を目晦くらましの要領で相手へとなげうった。


 だがそんな程度のもので、相手の視界を完全に塞ぐことなど不可能だったろう。何よりそんなものに囚われず、術を強行していたとしても十分カイルを仕留められる確率は大きい。無謀な賭けとさえ言えた。


 渦巻く冷気が鎌首をもたげてカイルを取り囲む。

 それにはまるで躊躇せず、ただ全速で駆け抜ける。


 左半身に刺すような鋭い痛みが走ったことさえ意識から外して、女との距離を瞬く間に詰め寄ると、投げ放った外套を通り越して体ごと跳び掛るようにぶつかった。

 まるで枯れ葉が舞うような感触を残して容易く相手はその姿勢を崩し、血溜りのその中に派手な飛沫ひまつと音を立てて倒れこむ。

 その上の位置へと素早く陣取ると、カイルは手に持つ剣の切っ先を相手の喉元へと突きつけた。


「さあ、これで終わりだ!」


 荒い息を整える素振りもなく、その剣先にぐっと力を込めて凄んでみせるカイル。

 その左肩から手にかけてささくれだった激しい氷雪が降りているのは、直撃はせずとも相手の術を喰らってしまった証拠だ。

 しかし幸運なことに、左手が動かなくなるほどの重症ではない。


 血溜りに倒れたまま、まるで動じない瞳でカイルと自らに当てられた長剣の刃とを順に視線でなぞる女。

 やはりそこには微かな感情でさえ見て取れない。


 月の淡い光の下、銀色のローブは血で穢れたというのにその輝きは失せず。またその女の褐色の艶肌もまるで色気を失っていなどころか、本当の魔性であるかのように血を吸った事でさらにその蠱惑さを高めたかのよう。


 女が腕を持ち上げてカイルの顔面に向けた。


 警戒するように、その握った柄へさらに力を込めるカイル。微動した剣先は女の喉の薄皮を破り、その肉の内へと小さく進入した。

 そんな状態である筈の女の表情はまるで変わらず、どこまでも艶やかに妖しく――まるでカイルを魅了するかのようだ。

 その意識を奪う夢幻のような光景を振り払うべく、相手の様子を細部にまで警戒して構える。


 しかし、女はカイルに向けた手をそのまま倒すように横に向けた。

 いぶかしんだカイルがその掌の向きと視線の先とが重なる場所を知った瞬間、思わず体中から汗が噴き出る。


「――や、やめろっ!!」


 切羽詰まった声が鳴り響く。


 女が掌を向けたその地面には、先程カイルが自身の動きを最大限に発揮するため、その場の置き残してきたままの少女の姿があった。

 この距離では少女の元まで駆けつけている時間はない。女が術を使用すれば、瞬くまに幼い少女の命が奪われてしまう。


「この剣をあともう少し押し込めば、本当にあんたの喉を貫くんだぞ! こんな不毛で馬鹿げたことはもう止めるんだ!!」


 カイルはその手に握る長剣をさらに押し込めて女の肌へと喰い込ませる。そうして焦燥に満ちた声で喚くしかなかった。


 だが女は、あと幾らかでも剣先が侵入すれば絶命するかもしれないというこの状況下にもかかわらず、その視線はカイルどころかその喉元の刃にすら向けていない。

 その翡翠色をした鮮やかな瞳はただ一点、未だ目を覚ます事無く横たわる少女へと向けられている。


 女の掌がまたしても青白い輝きを発し始めた。


 その様を目撃したカイルは声にならないようなくぐもった罵声を飛ばし、握った長剣を素早く翻して光り輝く女のその腕に剣を叩きつける。

 しかし刃を立てた訳ではなく、腹の部分で打ち払ったというのが正しかった。


 打ち払われた女の腕に深い傷はつかなかったが、それでも青白い光――魔術の発動は阻止できた。

 しかし女は自分の腕を鉄塊で殴られたというのに悲鳴の一つもあげずにいる。ただ無感動の目でまた同じようにその腕を少女へと向けようとしたのだ。


 その行動を少なからず想定していたカイルの行動は迅速だった。


 懲りずに伸ばそうとしたその腕を引っ掴み、相手の肩口の方へと捩じるように手を回す。そしてそのまま相手の上体を持ち上げるように力を込めれば、その華奢な身は反転する。

 そのうつ伏せ状態の背中から、間接を極めて捕った腕を自らの膝で押さえ込み、手にした長剣の根元を首の後ろからあてがった。


 そうする事で、相手の身動きを一先ひとまずは封じた。


「あんた本当に――他人どころか自分の命にさえ頓着しないっていうのか!? どうかし過ぎてるぞ!!」

「今この場で最も優先されるべき事のためには命というこだわりは然したるものではないと、そういった認識が必要なのです。ただあなた方にはこういった物の考えができないというのも承知の上。故にこれらの問答は何の意味も持ち得ません」


 女は取り押さえられたまま眼だけでカイルを見遣ると、その無機質な瞳を正面に戻す。


「あるいは今ここで私を殺すことでも、死はまた一つ増えることになります。そうなれば後の処理が憚られる事態とはなりますが、それでもあの子はここに至ることができるでしょう。そうであるなら、必要最低限の目的は果たされるかと」


 カイルはそのあまりにも揺らぎのない素振りが、内心でこの上なく恐ろしく感じ始めていた。

 いくら勝手が違うとはいえ、自分の命に執着せずに襲ってくる相手を捌ききれる自身はなかったからだ。


 だがそれでも、カイルは相手の女を息の根を止めて安全を図るという方法を取る気はなかった。

 それはカイルの生来的な甘さである。

 下手をすればカイルのみでなく、必ず無事に送り届けてみせると約束した幼い少女の命さえ危ういのだ。本来ならば手段をどうこうと言っている余裕などは無い筈だった。


 それでもカイルはそういった割り切りをしたくなかったのである。

 それはやはり甘さとも言えるが、彼の本質とさえ言ってしまえるものだったからだろう。


「自分を殺させるか、俺達が死ぬかのどっちでもいいって事かよ?!  あんたの言ってる事、無茶苦茶すぎるぞ! 俺はあんたを殺すつもりはないし、むざむざ殺されてやるつもりもない!」


「では、これから先をどうしますか? 私を捕らえたまま、無為に時を過ごすとでも」

「ああ、それでも良いな。あんたの狂った考え方はともかく、ここにヴェヘイルモットとやらを呼び込むのが目的ならば、こうしてそいつが現れるまで何時間でも待ってればいい。幸いあんたは俺達を殺すことが最終的な目的じゃないんだろ? ならこのまま膠着こうちゃく状態ってのもありだ」


「そうですか。しかし残念ながら、此方はそれほど事を長く構えるつもりはありません。あの子のためにと用意したものですが、ここで使わせましょう」

「まだ何かするつもりか? もう、いい加減諦めてくれてもいいだろっ」


 身動みじろぎ一つせずに、それでも言葉内だけで何かを画策してるらしい女をカイルは呆れた声で批判する。 

 この状態で何をやらかすつもりかは分からないが、これだけ骨を折って相手をしているのだ。その労をおもんぱかってくれてもいいのではという思いが強かった。



 しかし――



 カイルのそんなどこか悠長な思いは、すぐさまにも消し飛ぶ事となる。

 辺りに広がる血溜り――どれだけの数の人間から絞って作ったのかも想像したくないそんな恐ろしげな地面が突如としてざわめき立つ。


 血でできたその池が、風もないこの場所で小波を打ち始めた。その波の幅が次第に大きくなりながら辺りを揺らした。

 その血液の波がバラバラの欠片となったかつて人間達だったものを飲み込んだ。

 それは比喩ではない。地面に埋まっていくように、肉片が血の池に沈んでいくのだ。


 そして、何事かと目を見張ったカイルの前方の血溜りが一段と大きく震えた。


 血液がまるで生きているかのように大きな波を作り、そしてそれが決壊する。

 風もない――そもそも波打つほどの深さなどない筈だ。血の池とは言い表しただけで、本当は地面が血にれているに過ぎないのだから。


 それでもその刹那、カイルは黒血に混じっている奇妙な”モノ”が見えた気がした。


「……なんだ……何をしたんだ?!」


 そんな不安げな声を上げたカイルは、取り押さえた相手の体をさらにきつくし押さえる。

 そうした所で勿論相手からの反応などはない。


 すると、今度は波などというもので表現できない動きをその血溜りが起こす。まるで噴出すマグマのような柱が一つ二つとその周りにあがった。

 そして今度は間違えようもなく、カイルのその目は血の水柱の中に隠れる妙な”モノ”の正体を捉えていた。


 血の池の中から、現れるであろう筈もないものがそこには現れた。気味の悪いまでに白い肌をした大きな腕が、複数本その地面から生えていたのだ。


 ――繰り返すが、血の池といってもそれは地面に広がった血液がそう錯覚させるものであって、実際にはただの土でしかない。


 にも拘わらず、そこから何本もの奇妙な腕が生えだした。それは見ている内にどんどんと増えていき、そして腕から下の部分をもさえ見せ始めた。



 その光景に、女を捕らえていたカイルの腕の力が一気に抜け落ちる。



 それは目の前の出来事が驚愕に値するものであったからだ。しかし、そんな感覚すら凌駕する事実を――

 カイルが目の当たりにしたからでもある。


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