第12話


 その異変に気づいたのは森の深い部分へと至っての事。


 この地方の気候は寒冷帯に属しており、湿度の少ない乾いたものだ。さらに時期は秋も終わりの頃、今の季節が一番空気の乾燥が顕著な筈だろう。


 しかし、異常なほどの湿気しけた空気が森の奥から漂ってくる。

 もちろん、風の通りの悪い森林の中はそれまでの平野に比べて空気が停滞しているのは判る。

 だがそれを考慮したとしても、この湿度は明らかな異常だった。


 ここ数日、雨も降っていないというのに草葉の表面にはつゆが。


 カイルは当初、この森を日が沈む前に抜けきるつもりでいた。

 それほど大きな規模の森ではなく、さらにはここ周辺の地形から考えてみても、容易にそれが可能だと判断していた。

 その判断だけは今も間違いはなかったと思っている。


 それ故にろくな準備もせずにこの森の中へと足を踏み込んだ。

 だが、この森はどこかがおかしい――そういう直感的なものを感じ取る。

 何か、妙に尖った臭いというべきか空気というべきか、そんなものが森の奥深くから漂ってくるのだ。


 体中がべたつくのは、何もまとわりつくような湿度のせいだけでなさそうだ。なんとも表現し難い嫌悪感のようなものが、自身の足取りを重くする。


 カイルはどちらかと言えば経験主義に近い性格の持ち主だ。

 自分が体験したこと以外には信頼を置かないようにしてきたし、またあまり抽象的な類の物も特に信じなかった。

 だから今回のような根拠のない直感――そういったものに強く揺さぶられて思考が鈍るというのは始めてに近い経験だ。


 それ故に明確な結論を出すことが出来ず、先に進むべきか引き返すべきかの判断がつかずにいた。

 少し進んでは、嫌な感覚にさいなまれ、また足を止めるというような事を繰り返していた。


 森の中は異様なほどに静まり返っている。

 鳥や虫たちのさえずりも聞こえないどころか、生物が活動していることを示す物音一つしない。


 そういった状況も含めて、カイルは悪い予感だけをひしひしと感じ続けていたのだった。



「……どうにも参ったな……」


 カイルは切り取られた空を仰ぎながら、そんなことを独り呟く。


 鬱蒼うっそうと茂る木々の緑によって、この位置からは太陽を拝めない。もう既に傾き始めていてもおかしくない時間が経っている気がした。

 だが、森の中は足を踏み入れた時と変わらずの薄暗さだ。


 息を吐くように、手近にあった木の幹に背を預けては何やら思案顔で辺りを窺うカイル。

 そうしたところで、この正体不明の感覚を究明できるわけでもないだろう。

 それでも増していく不安感に比例して警戒の度合いがつりあがり、そんな行動を取っていた。


 この森に入る前に出会った子供達の話では、森の中に立ちの悪い連中が住み着いては盗賊紛いのことをやっているという事。

 だが、そんな程度の危機感では済ませられない何かを感じる。

 もちろん野盗やらも危険な存在には変わりないのだが、そういった感覚とはまるで別向きでの話だ。


 もっと得体の知れない、奇怪なものを先ほどから感じ続けていた。


 旅の途中、何度もガラの悪そうな輩に出くわしたことも、討伐軍より撃ち漏れた凶悪な魔物と遭遇したこともあった。それらを切り抜けるだけの腕をカイルは持っている。

 だが今感じるそれは、そのようなレベルで推し量れない何かだ。


 しばらくはそうやって周辺の様子見をしていたカイルだったが、結局、根拠も確証も持てないまま――それでもこの森は危険であるとの判断を下すしかなかった。

 この森を通らずとも西のクツァルトへは行く事が出来る。

 だいぶ遠回りとなってしまうが、一旦森を出て南へと大きく迂回すれば西のクツァルト領へとは到れるはずだ。


 明確な根拠を見つけられなかったカイルだが、特に急ぐ理由もないのだ。遠回りとなる道を選んだ所で何の差しさわりもない。

 最終的にはそんな事を掲げて、来た道を引き返すことにした。



 しかし、数歩ほど足を動かしたところで、嫌な汗はこれまで以上に吹き出ることになる。


 前を往く視界が、ぼやけるように白く染まっていた。

 湿度のかさがさらに膨れあがったかのような肌触りを引き連れて、濁った濃霧がカイルの行く先を阻むように湧き起こる。


 こんな時間帯にこれほどの霧が降りるなど、まるで聞いたことがない。

 明らかな異常。

 原因も何も解ったものではないが、この場所は何かがおかしいという念はもはや疑う余地すら無くなったようだ。


 本能的なものに動かされて、カイルの足は自然と速まる。


 この森の地形はそれほど複雑なものではない。それを見越して、やぶの道を突き進んでいく。


 森や山の中というのは、真っ直ぐ進んでいるつもりでも紆余曲折を辿たどってしまうものだが、この規模の森ならば闇雲に進んでも無事抜けられる算段がカイルにあった。


 端から見れば、前後左右を濃い霧に囲まれて下手に身動きができない状況だったろう。

 しかしカイルは歩みを止めて霧が過ぎるのを待つという選択肢を取らなかった。というよりも、一刻も早くこの場所を離れるべきだと判断していた。


 水気を含んだ薄い膜を突き破るように進むカイル。

 霧は近づけば薄く、遠くなれば濃くその姿を変える。



 そんな奇妙な景色を何度も繰り返していた時――

 前方から人の声のようなものが聞いた。



 反射的に身を低くして木陰へと身を潜ませていたカイル。無意識にその利き腕は腰に提げた愛用の長剣の柄へと伸びる。

 しかし視界状況は最悪なまま、何かの気配を探ろうにも頼れるのは聴覚ぐらいのものだ。

 その耳を最大限に研ぎ澄ませて、霧の向こうから聞こえてくる音を拾おうとする。


 静寂のみが覆っていた森の中から響いてくるものは微かではあるが、やはり人の声だと判断ができるものだ。


「……うっく…………えうっ……」


 まるですすり泣いているような声が静寂の合間から届いてくる。

 身を硬くしてその場で動きを止めたカイルだったが、まるで子供が怯えて泣いているようなその声には聞き覚えがある気がした。

 少なくともこの白いもやの向こうに、自分以外の誰かが居ることは間違いなさそうだ。それも声の調子などから判断してみても、野盗やそれに準ずる輩のもでないのは明白だろう。


「おーい! そこに誰かいるのかーっ!?」


 カイルは声が聞こえてきた方向に見当を付け、大きく伸ばした声を張り上げる。

 この霧では相手までの距離を測ることは出来ない。だが微かでも相手の声が聞こえるという事は、それほど遠くにいるわけでもない。


「―――っ! ……だ、だれー? だれか、いるのー?」


 はじめに鋭く息を飲み込んだような、そんな怯えた声が聞こえた。そのあとからおずおずといった感じのか細い声で返事がくる。

 あちら側も姿は見えないがカイルの存在は認識したようだ。


「怖がることはない! 俺の声が聞こえる方向に歩いてこれるかーっ!?」

「……う、うん!」


 か細くはありながらもしっかりとした返事の声を聞いて、カイル自身もその声のした方向へと足を進める。


 やはりその声は小さい子供のもので間違いはないだろう。それに加えて、カイルの耳には聞き覚えのある声なのだ。


 纏わりつく霧の中でまた数回、お互い声を出し合いながら位置を確認し、そして少しずつ近づいていく。

 相手との距離が段々と近くなっているのは声の響き具合で判断できた。


 すると、白い靄ばかり映していたカイルのその視界に、ゆっくりと人の形をした影が現れる。

 随分と小柄なその影もカイルの輪郭を捉えたようだった。


 お互い数歩もしない内に、その姿がはっきりと視認できる距離まで至った。


「やっぱり、君はさっきの……」

「あ、お兄ちゃんだ!」


 小さな影だったそれは、霧が薄くなったその場所で姿をくっきりと見せて、安心したかのようにカイルの元へと駆け寄ってくる。

 その小さな女の子は嬉しそうにカイルの外套がいとうすそを両手でぎゅっと握った。


「さっきの集落の子だね? どうしてこんな所に……。いやそれよりも、きみ一人でここまで来たのか?」

「えっとね……」


 カイルはその子の肩に軽く手を乗せるようにして片膝をついた。

 しかし、カイルのその表情はどことなく険しいもので、女の子は言いよどむように言葉を詰まらせた。


 その少女は先程カイルが立ち寄った集落で、奔放に遊びまわっていた子供達の内の一人だ。

 歳の頃は七、八歳くらいだろうか。細やかな栗毛色のくせっ毛があちこちに広がった歳相応の愛らしさがにじみ出ている。


 少女は両手で抱えるようにカイルの外套を抱き込んだまま視線を左右になぞっており、カイルの質問の答えはその仕草からおおよその見当がついた。


「……これ、お兄ちゃんにわたそうと思って」


 そう言って、遠慮がちな仕草でその小さな手のひらをカイルに向けて差し出す。

 そこには薄い紫の色を帯びた半透明な石が乗っていた。


「これは、水晶石の欠片か。これを俺に渡すために、ここまで一人で追ってきたっていうのかい?」


 その小さな欠片を受け取り、見定めるように手の上で転がしていたカイルだったが、すぐさま目の前の少女へと向き直っていた。


「あのね、旅のお守りなんだって。おばあちゃんがね、これを持ってると道にまよわなくなるって言ってたの」


 少女は不安そうにその瞳を揺らめかせてカイルを見上げている。

 その視線を受けて、当人はどうにも困ったかのような複雑な表情を映す。

 しかし、すぐさまその顔つきを引き締めると、静かではあるがしっかりとした声色で口を開いた。


「どうしてこんな無茶をしたんだ。いくら昔よりは安全な土地になったからって、子供一人が不用意にこんなところまでやってきていいわけないだろ。もし、この森の奥に魔物の生き残りでもいたら、無事でいられる保障なんてなかったんだぞ」


 なるべく声の調子は落として、決して怒鳴ったりしないよう心掛けながら――しかしカイルは強い口調で少女に向けて言い放った。


「あ……えっと、その……」

 

 その大きな瞳を曇らせて、少女は俯いてしまった。


 この子にとってはカイルのためと思っての行動だったのかもしれない。しかし、その子供故の浅はかさ――認識の薄さはとてつもなく危険なものだ。そういった部分を保護してやらねばならないのが大人の役目であり、同時に、そのことを理解させなければならないのがカイルの務めだ。

 だからカイルは似つかわしくない、厳しい表情を携えたまま、膝を折って少女のその瞳を覗き込むように位置を合わせていた。


「いいかい? 君がここまで無事だったことさえ、この上ない幸運なことなんだ。少しでも悪い方に傾いていたらどうなってたかを、想像したくもない」


 この世界から人間に害をなす魔物達が一掃されたわけではない。

 昔よりも魔物の数が減っていることは事実に違いないが、生き残ったそれらが変わらずに人間の天敵であることも事実だ。

 カイルも何度もそのような危険な目に遭ってきたのだ。


 だからこそ、中途半端な教えで事を済ませるわけにはいかなかった。


 それに恐いのは何も魔物に限った話ではない。悪意や敵意をもった存在は同族の中にもたくさん居る。


「自分がどれだけ危ないことをしていたのか、それだけはちゃんと理解してくれるね? もし君に何かあったら、どれだけの人が悲しい思いをするのか……それを心に刻んでおいて欲しいんだ」


 最後の言葉はどこか物悲しさを含ませたような響きを伴って、白い闇が包む森の奥へと消え入るかのよう。

 あるいはどこまでも続く静寂の合間にあって、そこだけが切り取られたかのように響き渡った。


「……ごめんなさい。お兄ちゃんにどうしてもこれ持っておいてほしかったの。少しの間しか、なかよくできなかったから。でもわたし、そこまで考えてなかったから……」


 俯いたまま、消え入るような震えた声でそう呟く。

 カイルは少女の頭に手を乗せかえ、癖の強いその栗毛をくしゃりと緩く撫でた。

 そうしてからすっと立ち上がると、もうカイルの顔には普段通りの調子の良い笑顔があったのだ。


「そんなにまで、俺の事を心配してくれたのか。ありがとうな――出会って間もない俺のためにここまで出来るんだ、君はすごく優しいんだね」


 その手に持つ水晶の輝きを確かめるよう、覗き込んでみるカイル。

 水晶は魔除けの一種としても昔から重宝されてきたもので、また重大な決断の場面で迷わなくなるとも言われている。それが転じて旅のお守りとして活用されるようになったと、そんな話を聞いたことがあった。


「おこってない……?」

「はは、始めから怒ってなんかないさ。君は俺の話をしっかりと聴いてくれた。それに自分がやった事がどれだけ危険かってのを理解もしてくれた。なら、俺はそれで十分に役割を果たせているよ」

「やくわり?」

「あー、いや、まあ歳を重ねるとね、そういったものが降りかかってくるんだよ。――って、こんな話を君にしても仕方がないよな。……何やってんだか」


 幼い少女はきょとんとした仕草で、立ち上がったカイルを眺めている。

 対するカイルはなんとも曖昧な笑みで以てその疑問の顔に応える。

 その手に持つ紫水晶の欠片をぐっと握って見せては、もう一度少女に向けて「ありがとう」と言葉を紡いだ。


 ふと考えれば――カイルが昔、城壁を越えて外へと出たときの大人達の対応がこの上なく厳しいものだったのは、存外に今のカイルと同じ心境であったからではないか。

 そんな気がしてならない。 


 結局自分は、知らずに大切なことを多くの人から教わってきたのだという感慨を抱く。


 ただそのような感慨など、今目の前にいる幼い少女に伝わるはずもない。気弱に揺らめいているその瞳を数度大きく瞬かせて、カイルを見上げ続けている。

 しかしそのカイルの表情や仕草から、自分の気持ちをしっかりと受け取ってくれたことを感じ取ったのか、次第つられるように明るい表情を取り戻していく。



「さぁて、君をしっかりと家まで送り届けるのがもう一つの務めなわけだが。……困ったな。この霧じゃあ、俺はともかく子供の足で抜けきるのは……」


 カイルは森の中を見回す。

 霧は相変わらずにその場を濃く覆っており、これを抜けきるのは簡単ではない。

 ましてや、今そうしてカイルにすがり付いている幼い足では、どれだけの危険が伴う道となることか。この森の地形は把握しているつもりだが、数歩先も見通せないこんな状態では、この先何が起こるかの予想など出来たものではないだろう。

 カイル一人ならば多少の無茶を押し通してみせる。だが、今そうして外套の裾をしっかりと握りこんでいる存在を考慮すれば、そのよう無茶は通さない方が良い。もしもがあっては事だ。


「仕方がないか、霧が晴れるまではここでじっとしていた方が良さそうだ」


 せめて太陽の位置だけでも分かればこの地理と照らし合わせて、おおまかな方角の見当もつくというもの。しかし水気が織り成す白色の闇は、一体どこに太陽が出ているのか判断させてくれない。

 ただこんな霧の只中であっても、こうやって光が差し込んで辺りが見渡せるということは太陽はまだ沈み切ってはいまい。


 カイルは手頃な場所に背負っていた荷物を置くと、幼い少女を促して自分達もその場に腰を降ろしたのだった。



 しばらくすれば霧はおさまると考えていたカイルだったが、その濃度は一切として衰えることなく続いた。 

 それでも表面上はなんの懸念も無いように繕って、傍にいるもう一人を怯えさせまいとしているカイル。


「――それじゃ、誰にもここに来ることを告げずにやってきたのかい?」

「うん……。みんなに言うと、ダメだって言われると思って」

「じゃあ、やっぱり直ぐにでも迎えが来てくれるってわけにはいかないか」

「ごめんなさい……」

「なぁに、大丈夫さ。霧さえ止んでくれれば、こんな森すぐにでも抜けられるよ。そうしたらその言葉、心配してるだろうみんなにもちゃんと言わなきゃだな?」

「わかった」


 カイルの明るい口調につられて、沈みがちだったその顔に花が咲いたような笑顔が戻る。

 そんな無邪気な笑顔は、カイルの心中も少なからず軽くしてくれていた。


 癖の多いふわふわとした栗色の髪は、カイルにとってどこか懐かしさを感じさせる。

 そんな懐古の情も相まってか、その愛くるしい笑顔をしっかりと守ってやらねばならないという思いをより一層強くさせるようだ。



「少し冷えてきたか。ほら、マントの裾に包まるといい。少しは暖がとれるよ」


 そう言って外套の裾を広げるようにし、寒さが凌げる程に上等とはいえない服装の少女を自らの脇に招き入れた。

 濃い霧は徐々に二人の体温を奪っていき、更には湿気たこの空気では火をおこすことさえままならない。

 包まった外套で身を寄せ合うようにしてその寒さを紛らわす他なかった。


 招かれた少女は、単純に肌寒さが和らいだことに安心しているのか、それともぴったりと身を寄せ合うことで心細さが拭い去られたのか、外套にすっぽりと包まったまま嬉しそうに「えへへ」と笑っている。


 しかしその状態でふと気が付いたように、まじまじとカイルの顔を見つめた。

 ようやく取り戻したその明るい笑顔は、また少し曇ったそれとなる。


「お兄ちゃん、どこかいたいの?」

「え……?」


 少女の唐突なその質問に、虚を突かれたかのような受け答えをするカイル。思わず、その不安げな瞳を同じように見つめ返してしまう。


「なんだかくるしそう……」

「そう見えるかい? はははっ、いや、気のせいじゃないかな。とくに具合が悪いってわけでもないぞ、うん」


 自分で手足や体をなぞるように動かせて、どこにも異常はないというようなことを示してみせる。しかしながら、それらのうそ臭い一連の動作からでも、カイルが何かを隠そうとしているのは明らかだ。

 そして、そんなカイルの様を見て、少女はまるで不思議そうに首をかしげていた。


 そう、カイルがこの森に入ってから感じていた得体の知れない不安感――もしくは不快感とでも言うべきもの。それは未だにその心中に強く張り付いて離れないでいた。

 それ故に、その顔付きにもどこか余裕のない緊縛したものが見え隠れしていた。


 しかしそれを表に出せば、目の前の幼い少女が感化して怯えてしまうことは明白だ。

 少しでも相手を不安がらせないよう抑えていたつもりなのだが、普段からの芝居がかったような口ぶりや身ぶりはこんな時まるで役に立ってくれない。


「本当になんでもないよ。大丈夫、俺が必ず、君をみんなの所まで送り届けるから」


 カイルは一呼吸おいた後で、少しだけ力強い口調でそう言ってみせた。

 一体この先にどれだけの事が待ち受けていようとも、それだけは自身に課した最低限の義務だと心得ていた。


「この森には入った事は? ここはいつもこんな濃い霧が発生するのかな?」

「ううん。おかあさんとヤクソウをとりに来たことあるけれど、こんな風にまっしろになるなんて、わたし知らなかった」

「そっか……」


 辺りは既に薄暗くその色を変え始めている。さすがにもう日は落ちてしまったのだろう。

 それでも二人を取り囲む濃い靄はまるで晴れようとはしない。


 そんな中、ただひたすら待つしかないカイル達にとっては、この気味の悪い森が醸し出す不安感を受け流すしかなかった。



 だがそんな心根を打ち砕こうとするかのように――

 この不気味な森は、またさらにその姿をおぞましいものへと変貌させた。



「――ひぅ!?」


 最初に聞こえたのは、そんな押し殺した悲鳴だった。

 目の前で展開される光景に、びくっと体が反応した少女。その身を縮ませて、カイルにしがみ付くように手をやる。

 その反応を受けるまでもなく、カイルも思わずその身を強張らせていた。


 目の前に広がっていた、うすぼんやりとした白い闇――彼らの足を止まらせていたその霧が今、鮮やかなぐらいまで赤く染まっていたのだ。


「なんだ……一体……?!」


 あまりにも想定外の光景に、カイルは茫然とした顔を惜しげもなく晒す。身動き一つ取ることを忘れてその様を食い入るように見つめていた。


 日が沈みかけ、薄暗さを際立たせた色合いになったとはいえ、これほどまでにはっきりと赤く染まる霧の存在など聞いたこともない。

 夕日に照らされてなどという幻想的なそれとはまるで違う、それは茜色などではなく――深紅なのだ。

 まるで鮮血がそのまま霧へと変貌したかのような刺々しい色調だ。


「どうなってるんだこれは……? それに、この臭い……」


 思わず顔をしかめたカイルが口元に手をやる。

 赤い霧の出現と同時に、辺りを嫌な記がを思い起こされる錆びた臭いが充満している。

 生臭く、砂鉄を噛んだような独特な苦味を持つ臭い。


 気分が悪くなるほどの”血の臭い”が、カイルの鼻腔びこうに触れていた。


「これじゃまるで、血の霧じゃないか……」


 独りでに呟くよう、カイルはそんな言葉を漏らしていた。


 震えた少女は蒼い顔でそのカイルにしっかりと抱きついており、それを半分抱き上げるようにして立ち上がる。

 少女もこの血の臭いにやられたのか、その顔はさらに青白く辛そうなものとなっている。


 もはやこの森は奇妙だとか気味が悪いだとかいう次元での話では無くなっていた。

 明らかに通常の尺度では測りきれない事態が、今ここに広がっているのだった。


 カイルはすぐさま後悔した。自分の判断が誤っていた事に対してだ。

 最初から感じていたこの嫌な感覚――明確に判別はできなかったが、この感覚が間違いではなかったことだけは今こうして証明された。

 それを始めから信じておけばと、今更どうしようもない事を悔やんだ。

 少なくともこんな所で立ち止まっているべきではなかった。それ一つとってみても、自分の迂闊うかつさを呪いたい気分だ。


 だが、そうこうしていても何も始まらないことを心得ているカイルは、乱れた呼吸だけでなく自身の気持ちも整えるように一度大きく深呼吸をする。


 そうして、傍らの少女に目一杯の明るい声でもって語りかけた。


「心配することないさ。大丈夫、君はちゃんと家まで帰れるよ。――言ったろ? 俺が必ず連れてくって」

「で、でも……お兄ちゃん……」

「ちょこっとばかし妙なことになってるけど、ただそれだけだよ。ただ、少しでも早くこの場所からは離れた方がいい。少し危険な道になるかもしれないけど、一緒に歩けるかい?」


 カイルはそう言うと、その手を差し伸べるように少女に向けた。

 向けられた当人は未だ怯えた青白い顔のまま、それでもカイルのその手を両手でぎゅっと握ると「うん」と小さく呟いた。


「よし、良い子だ」


 握られた手を同じくらい強く握り返して頷くと、カイルはその小さな歩幅に合わせるように足を進めた。


 視界の状況は相変わらず不鮮明なままだが、用心深く道を辿っていけば大きな危険はない筈だ。


 ただ言うまでも無く、二人が辿るそれは道と呼べるほどに大層なものではい。草木から地面が僅かに露出しているだけの不確かな獣道である。

 さらには、方角を知る術がまるでない。

 少女の足に合わせていては、闇雲に歩いただけで上手く森を抜けられる確率は高いとはとても言えない。


 それでもそこに止まる危険の方が遥かに大きいと直感していた。


 抑えていたつもりの冷や汗がその頬を伝う。

 それを鬱陶しいと感じてるいとまさえない気がしていた。


 カイルは空いた掌で先程少女から貰ったあの水晶片を取り出す。

 気休めかもしれないそんな小さな頼りでも、今は縋りたい気分だった。



 常軌をいっした鮮血色の霧が覆う森の中、カイルはただ眼前の道だけを見据えるようにして、注意深くそして慎重に幼い少女の手を引いて歩く。


 深い霧はカイル達の行く手を惑わすように張り付いて離れないでいた。

 まるで霧が意思を持って二人を森から逃がさないようにしていると、そんな嫌な想像を掻き立てるほどに不自然なものだった。


 だが、途中何度も足を取られて転びそうになる少女を支えながら、そして小さくすくみ上がり、足を止めそうになる少女をまるであっけらかんとした口調と笑顔で気遣いながら、カイルはこの不気味な迷宮の出口だけを必死で探した。



 そんな切り結ぶような労が実ってか、辺りを包む恐ろしい霧がだんだんと薄くなってきていることに気がつく。



 それまでどこまで進んでも同じような景色だけが繰り返されていた中、少しずつではあるが先を見通せる範囲が広がっていく。

 それまで近づかなければ影さえ見えなかった生い茂った木立が、少しずつ姿を見せ始めていた。そして何より、空を見上げれば薄赤い膜を通して明るい月明かりが差し込んできている。


 もうとっくに日は沈んでしまったようだが、そんな事よりもこの霧から抜け出せるという実感が持てたことにカイルは長い息を吐いた。


 その安堵の気持ちは横を歩く少女にも伝わったのだろう。強張っていた表情をいくらか和らげて、夜空に浮かぶ少しだけ欠けた丸い月を指差した。


「お月さまが見えるよ、お兄ちゃん」

「ああ。――ようやく、この馬鹿みたいな状況から抜け出せそうだ」


 少女が指差した月は少しだけその顔を見せていたが、次第に雲の合間に隠れていってしまった。

 残念そうにまた表情を落とす少女だったが、夜空を見る限りそれほど雲がでているわけでもない。すぐにまた顔を出すだろうとカイルは笑いかけた。



 二人が、木々が生い茂る森の中にあってぽっかりと空いたような更地の上に足を踏み入れた時には、既に彼らの周りから張り付くような湿気は姿を消していた。

 荷物も服装にもじっとりとした水気の重量感こそまだあるが、空気はだいぶ乾いている。

 問題の全容が見えたわけではないが、状況が好転したことは確かだ。



 ただ妙な違和感が、まるでしこりのようにまだ残っている。



 そのことを思案しながら手を繋いだ隣の少女に目を遣ると、まだ苦しそうに青白い表情で俯いていた。


「気分はまだ優れないかい?」

「うん、まだ気もちわるい」

「これだけのキツイ血の臭いだ……慣れない人間じゃ、吐き気を通り越して倒れそうにもなるからなぁ。それに―――」


 そこまで口にしたカイルがはっと気付いたように顔に手を当てる。

 そして確かめるように数度、周りの空気を吸い込んでみる。


 そこでようやく、引っかかっていた違和感のようなものに気づいた。


 不気味な赤い霧は抜けたが鼻をつく濃い血の臭いがまだ離れない。

 いやそれどころか、前にも増して濃い血の臭いが辺りには充満しているようだった。


 カイルの表情がまた少し張り詰めたそれとなる。

 状況は好転したと思っていたが、完全に脱したわけではない。


 少し油断が過ぎた自分を叱咤するように額を軽く叩くと、しっかりと前を見据えた。

 一刻も早くこの森を抜けて、少女を先程の集落まで送り届けるまでは、安心もなにもしていられなかった事を思い出す。


「さあ、もう少しだけ頑張れるかい? 森さえ抜ければ、家まではすぐだよ」


 力強くありながら、穏やかな口調でそう促すカイル。


 月の傾きと星の位置からおおよその方角は割り出せる。そうなれば森を抜けきることは容易い。

 そして森さえ抜ければ、後は広がる平原を抜けて街道に出られる。

 そこまでくれば辿り着けたも当然だろう。


「うん、がんばれる」

「偉いな。あともうちょっとの辛抱だ」


 か弱げだがしっかりと言い切った少女の頭を褒めるように撫でてやるカイル。

 少女はそれで幾分か気が紛れたようで、くすぐったそうでいて嬉しそうな声を上げる。


「――あ、お兄ちゃん、あそこに誰かいるよ」


 そんな少女はカイルを通り越した先を見て、不思議そうな声を上げた。


 その言葉に反応したカイルはしかし、少女ほど無邪気にそして無警戒ではいられなかった。かばう様に素早く前に出ると、習慣的に腰に提げた長剣の柄へと利き手が伸びていた。


 月は未だ雲に隠れている。

 木々の絶えたその空き地の中心であっても、影は暗く落ちて全体を見渡せないでいる。

 しかしそんな中に、微かだがはっきりと一つの動く影を見つけた。


「誰だ――?!」


 カイルは大きく声を上げる。

 わずかだが揺らめくように立っている人影をその両目は確かに捉えている。


 それまで見せなかった緊迫した様子のカイルをの当たりにして、その背中へと隠れる形となった少女は短い悲鳴をあげている。

 こんな場所にいる人間に心当たりがあるとすれば、自分達のように森へ迷い込んでしまった輩か、そんな人間を獲物にしている質の悪い方の輩かだ。前者ならば状況的にむしろ好都合だが、後者であった場合は極まりなく面倒になる事だろう。


 警戒の度合いを強めたカイルは、薄暗い辺りなど構わずにその影の全貌ぜんぼうを収めようと必死に目をらしていた。



 かげっていた月明かりが、その場にゆっくりと降り注ぐ。

 深い森の中で、その場所だけ草木をむしり取られた様相を成す地面の上をその淡い月明かり差す。


 そしてきらめく銀色のローブを照らし出した。


「あなたは……!?」



 月明かりがその影の全容を示した。

 その光景にカイルは驚きの声を返すしかなかった。


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