第9話


 その男にとって自らの存在意義というものは、他人とまるで違うものであった。


 それはどういった物に価値をえているかの違いだったろうか。

 男は持ち得ない記憶、自らの意義について思案する事を早々に放棄していた。自分の一生――生涯の目的という事や、己に課された使命というものなどについて、考えを起こす事など馬鹿らしいとしか思わなくなっていた。


 何故なら、男には自らの存在を鮮烈に自覚できるという瞬間があり、それさえ実感できるのであれば、自分の身の上や我が身の今後の行く末さえどうでもよいと判断を下していたからだ。


 それは人として限りなく刹那せつな的な生き方であり、ある意味で究極の快楽主義者であった。


 ただ奇妙だったのは、男のそれはひどく特殊な形態であるという事。

 他者とは線引かれるその理由というのは、この男がある種の現存主義に傾倒している部分があるということだった。

 それもたった一つの事柄に関して。


 男は、自らの肉体のみを信奉していた。


 五感から得られる情報こそがこの世の全てであり、精神の働きかけ云々といったものをまるで意図していない。自分が考える事がこの世の真理ではなく、自分が感じる事こそが真理だとでも言わんばかりの生き方をこの短い期間に確立していた。

 この世に神はらず、それ故に精神は高尚なものでも何でもなく、世界の在り方は物質的な側面によってのみ成り立っている。これは即ち、自らの肉体も同義であり、だからこそ現存する確かな己の肉体というもののみを信じているのだ。


 少し乱暴とも取れる理論だったが、男がこれを実践して生きてきたのには理由があった。

 それは単に、男が自らの肉体に対して限界を感じた事がないという点だ。


 人が神への信仰を持つに至るは、人の身では到底解決できないような困難がその眼前に立ちはだかった時なのは常である。


 だが男にはそれがないのだ。

 これまでに経験してきたあらゆる困難は、己が身一つで力任せに引き千切れる程度のものであり、厳密に言えばそれは男にとっての困難などではなかった。

 それは他者から見ての困難であり、だからこそこの程度の些末さまつな事でつまづき、在るかもわからない大いなる意思――神とやらに縋って生きる他人を蔑視し、男はこのようになった。


 つまりそう、男が自らの意識を自覚した瞬間から持ち合わせていたこの肉体には、限りのない様な、そして純粋とも言える様な強大な力が宿っていた。


 多くの者ならばこのような現状に至った折、何故自分にはこんなものが宿っているのかという疑問を抱いて生きていくことになるのだろうか。

 だがこの男に限っては、そういった事に思念が向く事はなかったのだ。


 求めていたのは、その強大な力を解放できる瞬間――

 ただそれだけであった。


 己の肉体の奥底から際限なくあふれ来る力の奔流、あるいは単純に“力み”とでも表現できただろうそれを全身全霊でもってはき出せる瞬間だけをほっしていた。

 だが男は別段、無抵抗な者や明らかな弱者をいたぶるような嗜虐しぎゃく的趣味は持ち合わせておらず、そして無分別に暴れまわる程に理性が働いていないわけでもない。

 だから常に狙っていた。

 権力腕力を問わず自らを強者と自尊し、他者を虐げる事で自らの価値を認識しているような輩を。

 その溢れ切らぬ根源からの衝動を――純粋な暴力と呼べるそれをぶつけられる機会を。 


 そういう意味ではこの男もまた無慈悲な暴虐者だった。



 そうだったからこそ、男は今眼前に広がるその光景に感謝していた。



 何度目かになるその遭遇。

 いや追跡からの捕捉であるからには偶然というわけではない。

 むしろこの状態を待ち望んでいたかもしれない自分に、男は気づいてはいなかった。


「私の愛しい『ユリスヴェリア』、今宵もあなたを極上の宴に誘いましょう」


 人外の力を誇るこの男にとっては、もはや只の人間に相手など務まるものではなかった。

 そこに用意されていたのは不気味なまでに土気色の肌をした化け物ども。


 全身から熱気のような圧がほとばしる。

 力む身体が、心地の良い圧迫感を有している。

 自らの筋肉が骨をきしませ、それが熱となり身体を包む。


 それは歓喜である。

 肉体が歓喜に震えてさらに肉体をさいなむのだ。


 それすらも心地良い。


 曰く、ちりは塵に還るという。

 魔と魔が相対したその場でも、どちらかのより強い魔に吸い寄せられて、それは膨らんでいくのだろうか。


 結果はすぐにでも判明するだろう。


 何故なら、神ではなく力に祝福された悪魔の王の名が再び世間で噂されるようになった――

 それこそが確たる証拠と言えるのだから。



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