第8話


 相変わらずの暢気のんきな散歩を再開したカイルだったが、ふと気づくと、だいぶ街の外れ近くまで来てしまっていた。


 特に目的地を定めていないカイルは慌てる様子もなく辺りを見渡す。

 緩い丘陵の上に集まったこの街だが、その丘の終わりを示す坂道を下ってもまだ民家は疎らに続いていた。

 そしてさらに外れに見える、一際高くそびえた建物にカイルは目を奪われる。


 その白い壁と淡い草色をした屋根で造られた塔は、長年風雨に曝されてきたからか、年季の入った何ともいえない風格のようなものを形にしていた。

 塔の最上階の部分には大きな鐘が二つ付いており、その下には長い年月を感じさせる擦り減りながらもしっかりと読み取れる聖ムルアの印章レリーフが刻まれている。


 何となくといったように、その塔の近くまで足を運んでいたカイル。


 その塔は、正確にはムルアの教会だった。

 塔の部分は取って付けられたように大きな一つ造りの建物から生えているに過ぎない。

 しかし、遠くから見たならば何よりもまずこの塔の部分が嫌でも目に留まるだろう。そしてこれ見よがしに打ち刻まれたその印章も。


 その印章には一体の蛇のような生物が遥か天空を目ざして昇り詰めていく様が描かれている。

 それは古の聖王伝説に倣ったデザインだ。


 かつて北の大地を治めていた聖王と呼ばれた君主――度重なる野蛮な魔獣の一族マーリィの侵略から王国を護ったとされる聖ムルアの英雄レオングリフが、はるか遠来から現れた邪神と闘った際に召喚したとされる聖龍を象った紋章らしい。

 ムルア教はその当時の国名がそのまま信仰の基となった形で続いてきていた。

 そしてルバルディアはそんな信仰の発祥に位置する国であり、軍の士官候補生時代にイヤという程聞かされてきたその逸話を思い出して、カイルは少しだけ鬱屈した気分になる。


 ムルア教――それはカイルが生まれてから無意識のうちに触れてきていた信仰だ。


 昔は教えられるまま、命ぜられるままその印に忠誠を捧げてきたつもりだ。

 だが、いざ晴れて士官として軍に身を置いてからの数年間を思い起こすと、その荘厳であるはずのレリーフがそれほど大層なものとは思えなくなってきていた。


 聖ムルアの教えは恩恵に慈愛、献身や守護といった言葉内だけでは小綺麗で理想にあふれている。

 だが、カイルは知っていた。

 その印のもとにどれだけ多くの血が流されてきたかを。


 ルバルディアとフューレンの戦争は、そもそもが宗教的な価値観の違いによる争いであった。もっとも長きに亘り過ぎた戦争は、事の起因となった出来事などとっくに置き去りに拡まっていったが。


 そんな過去があるからか、カイルは見上げた塔の先にあるその印章を意識せず避けるかのように視線を落として、大きな教会の二つ扉へと目を向けていた。


 そこからは二、三人のいかにも信心深そうな老人の集まりが扉をくぐって出てきたところだ。

 老人達は手持ち無沙汰に教会の前に立つカイルに対しても、人を選ばない柔和な笑顔でもって軽く会釈をしながら通り過ぎていく。

 信仰のある者の精神的な余裕と言えるか、果たしてそんなものを以前は自分も持っていたのだろうかと妙な気持ちになる。


 そのような気持ちが後押ししたわけでもなかろうが、しかし、カイルは実に数年ぶりにムルアの教えの門をくぐっていた。


 教会の内装はやはり、カイルが故郷にいた頃に何度も目にした光景となんら変わらない。建築構成が統一されているのだ。――こういった宗教的な建造物ではよくある事だった。


 少しだけ懐かしいような感覚に捉われ、教会内部の柱や燭台に至るまでをゆっくりと眺めながら、奥に位置する祭壇の近くまで歩を進めていくカイル。

 建物の中は厳粛さを際立たせるためか、ほの暗く静寂に満ち満ちている。


 そんな中をカイルは足を止めて独り佇む。


 周りに他の信者の姿は見えない。

 なんとも言えない感慨を抱きつつ、ほんの一瞬のつもりだったか――それとも数秒のつもりだったか、すっと深呼吸をするかのようにカイルは両目を閉じた。


 自分でも良く分からない心境だったろう。


 実際、この教会内に誰か他の人間が見えていたらそんな事はしなかったかもしれない。しかし、今この場には司祭や礼拝者の姿も見えず、カイルだけの場所のように思えた。

 それは他ならない、昔からカイルがこういった場所に多く触れて育ってきたからであろうか。

 そんな懐古の念とも取れる心持ちが作用したことだけはわずかに自覚できていた。


 そんな時だった。

 カイルの耳に、柔らかな声が聖堂内を包むように響いた。


「天は地に、光降り注ぎて色をもたらし――

 地は森に、命芽吹かせて彩りをきざみ――

 森は野に、馥郁ふくいくたる風をもって広がり――

 野は花に、そよぎ揺れて福音をうがち――

 そして世界は光と色と風と音によって完成されし――

 虚無の混沌から命溢れる鮮やかな世界へと――

 繰り返し紡がれる生命のその輝きをもって――」


 朗々とした、それでいて細く響き抜ける声がカイルの耳を軽やかにうった。

 驚きと共に眼を見開く。カイルの向かい――天窓を介して降り注ぐ日の光を受けた燭壇の傍に、先程まで姿を見せなかった一人の女が佇んでいる。

 薄暗い堂内の中で唯一日の光を受けるその箇所にいつの間にか女がいる。


「えっ……?」

 

 その唐突さにたじろぐカイル。

 信者はてっきり居ないと思っていただけに、驚きは大きい。


 女は長い銀のローブで体どころか顔の半分までを覆い、逆光と共にその影を深くおとしている。

 その為、カイルにはその素顔を見ることはできなかったが、その服装やシルエットから女性だということは容易に想像がつく。何より、先程の明朗として柔らかな声がその事を表していた。


 ただ目を閉じていたカイルには、先程の声が彼女のものなのかを確かに判別できない。しかし、この聖堂の中に他の人間の影すら見つけられないからには、およそ彼女が発したものだということは思いつく。

 それでも今ひとつ確証に至れないのは、当の本人が未だ顔面に深い影を刻みその表情を読み取らせないでるからだ。


 女は依然、逆光のなか静かに佇んでいる。


 カイルはまるで湧いて出たようなその女の存在に、面食らっってまじまじと当人を眺めてしまった。


 何の前触れもなく突然に現れた女の正体という事についても思考は向くが、何より、カイルの思考を揺さぶったのはその女を取り巻く空気――もしくは雰囲気と呼べる少し人とは違うその異様さだった。

 不気味さの類と言えたろうか。明らかに、どこか引っ掛かりを覚える妙な気配とでも呼ぶべきものが、カイルの躊躇を促したのだ。


 そんなカイルの内心とは関係なく、この薄暗い聖堂に現れたその女は俯き加減で影を落としていた顔をすっと上げた。


 そして、その女の目を見たと思った瞬間、全てのものが止まった。


 何がどうなったのか、カイル自身も全くと言って分からなかった。

 ただ一言、この世の全てが止まってしまったかのように感じられた。


 それは一瞬の出来事だった。

 ほんの一瞬、何百分の1秒と呼べる程の瞬きだ。

 その瞬間にカイルは押し込められたかのように、感覚が凍結したのだ。


 体が動かなかった、目が見えなくなった、耳が聞こえなくなった――わけではない。多分、体は動かせたし、目も耳も正常に働いていたと思える。

 けれどそれが出来なかった。いや、しなかったのかもしれない。

 まるで自分に五感があることを忘れてしまったかのような奇妙な空白、それがカイルを襲った。


 だが気がつくと、さっきと変わらない情景が目の前にある。

 閉じていた目を開けた時と同じ、長い銀色のローブを纏った女がそこに佇んでいるのだ。


 そして、


 浅黒い肌をした造り物のように美しい女だった。

 その瞳は鮮やかな翡翠色に彩られ、どこか物憂げに揺らめいている。

 確かに他人を惹きつけてしまいそうな程に綺麗だと言えるのだが、さきほどの様な訳の分からない感覚がカイルを取り込むことはなかった。


 奇怪な空白、連なり続いている筈のその意識の一部分を刈り取られたかのような不可思議な喪失感を微かに匂わせる。

 だがそれは、確信を持って言葉に出せるほどに明瞭としたものではなかった。


 ただ、意識の断絶――あえて呼称するのであればそのように言える――をカイルの奥底の本能とでも呼べる何かによって警告された。

 もし自身が持つ感覚を奪われ、意識を遮断されたのであればそれを知覚することなどできない。だが、切り取られた意識はおぼろなる破片を散りばめ残していった。

 それが唯一、カイルの体に起こった異変を自身に訴えかけてきている――そんな気がした。


 理由の知れない喪失感と焦燥感、それがひやりとした悪寒となってカイルの全身を舐めるように通り過ぎていった。

 はっきりと言えることは、ただそれだけだ。



「旅の方ですか?」


 それまで動きすら見せなかった女は、穏やかな口調でそう言うと軽く微笑んだ。

 その声は先程聞こえた詩のようなものを詠みあげていたあの柔らかな声そのものだ。


「ええ……はい」


 他意のない純粋な微笑に見えるそれを受けて、カイルはまたしても反応を鈍らす。

 言うまでもなく、カイルは先程のことでまだ混乱していた。さっきの奇妙な体験がカイルの脳裏に引っかかってならない。そのせいで取り乱した変な受け答えをしてしまう。


 女はカイルの事を指して旅の人間かと尋ねた。

 確かに長旅用の大きな荷物と薄汚れた旅装束のカイルを一目見るだけでそんな事は容易に想像がつく。

 しかし、先程のことから無意識に警戒心を募らせて、女のその言葉の奥に他の意味はないかと勘繰っていた。


 だが当人はそんな険を帯びた表情のカイルを一切に介しない様子で、ただ静かに、こちらを穏やかに見つめているのだった。


「……ここの、この教会の人ですか?」


 特に考えもなく、反射的と言えばおかしいが――カイルは話しかけられた事に対しての返しのようなつもりで適当な言葉をもって今度は自分から尋ね返す。

 女が纏う法衣はこの教会――ムルア教の基調とされる白と金ではなく煌びやかな銀色ではあった。

 しかしカイルは他に言葉を思い付けず、半ば否定されることを予測しながら場繋ぎでのようなつもりでそう口にした。


 カイルのその予測は当たってはいなかった。いや、外れているとも言えない。

 何故なら、カイルの問い掛けに対して女は否定も肯定もしないからだ。


 女は問い掛けを無視して、以前柔らかく微笑んでいる。

 そこには意識して無視しているというような表情の流れはなく、まるでカイルの声が聞こえていないかの様子だった。


「えっと、そのう……」


 女は微笑み黙したままその表情を変えず、カイルにその内心を読み取らせない。

 声が嫌でも反響する堂内、この距離で聞こえなかったということはない筈。ならばどうして一切の反応を示さないのか。


 おかげで二人の間を珍妙な空気が流れた。

 珍妙な空気の流れは珍妙な静寂を引き連れて、堪らずにカイルは再度、女に対して声を掛けるべく口を開く。


「え、えーっと、ここの人ではないの……ですね?」


 突然目の前に現れて一言発しただけ。あとは静かに微笑んでいる未知とも呼べる女の存在に対して、それでもカイルは出来る限りの笑顔を作ってそう尋ねた。

 何はともかく、どんな人間にも思惟的会話を持って交流を深めることを自身の志としているカイルは、無理にでも精一杯な笑顔をひけらかす。


 そんなカイルの信条とは、何ら関わりないと思わしきその女。

 どこか憂愁を感じさせる瞳からくる微笑を絶やさず、そして言葉を発しない。


「あ、あのぉ……」


 強張った笑顔と間延びした情けない声を響かせてカイルは努力を続けてみるが、状況に変化はきざさない。


 そんな光景は傍から見れば、実に滑稽なものに映ることだろう。


 しかし、カイルは限りなく真剣だ。

 カイルは何とか意思疎通を取ろうと笑顔で他愛のない話を持ち掛けようとする。だがその笑顔は誰が見ても明らかにわかるぐらいに硬い。


「こっ、ここの教会ってかなり古いですよね。なんかこう、風格が漂うというか……きっと、戦前から壊されることなく建っている貴重な教会の一つなんでしょうね」


 そんな相手をまったく意に留めない様子の女は静かに微笑み続けている。


「そ、それにしても、本当に立派な教会だなあ。古くからムルアの宣教は広くに亘っていて、様々な土地に教会が建てられてきたって話だけど、こうまで立派な教会はそうそうないんじゃないかな。――いやぁ、立派立派! この荘厳とゆーか、厳粛さを醸しつつ大衆に広く受け入れられる庶民的情緒を忘れないそんなデザインでありながら機能美にも優れ且つ前衛的な意欲をふんだんに取り入れた……そのー……内部に至るまでを完璧に丁度された仕様で無駄なく隙なく狂いなく、まさに建築物の理想郷というか到達すべき最終地点とでも呼べるべき……えーっと……」


 もともと調子の良い性格と他人怖じしない人懐っこさからくるのか。

 微笑みながらただそこに佇むだけの不気味とも取れるローブの女に対して、カイルは能天気な笑顔を向けながら矢継ぎ早に喋りたくる。

 あくまで一方的に。


「――つまり! つまりその、なんというか、こう幼き日に思い描いた自身の淡い衷情を呼び覚ますかのような、ロマンが溢れ悠久の彼方に思わず心を馳せずにはいられないかのような衝動をもたらす…… かのようでいて! ――ですね……それでいてなお! なお! なお、その……まあ、詰まるところそんな教会が先の戦禍で焼かれず、未だこうしてしっかりと残っているということに感動を覚えずにはいられないワケでして。――そう! 先の大戦はそりゃあっもう、ヒドイもんでしたから。あっ、じつは俺大戦の折はルバルディアで兵士なんかをやってたんですよ。いや、そりゃあ俺だって血腥ちなまぐさい事とか大キライですけどね。ぶっちゃけ毎日楽しく可笑しく年がら年中お祭り気分で過ごしたい的な野望を抱いている所存ですが、まー、当時は周りの人間もみんな『お国の為にぃ!!』ってな感じで、そんな甘えた事言えずに流されるまま仕方ないかぁーとか思いながら……あ、いや、実は嘘です。軍にいたってのは事実なんですけどね。ほんとは戦後に入隊したんです」


 カイルはまるで息継ぎ忘れたかのようにまくし立てる。

 もはや、何がしたいかとか、何の目的があってかとかはどうでもよくなってる感がある。ただ単に、この女性とどうやったら打ち解けて話しができるか――それだけを考えてカイルは一方的な言葉を紡いでいく。


「――ぐ、軍隊と言えば! 訓練での生活はそりゃあヒドイもんでしたよ! 元から俺にはそういの向いてないんじゃないかなぁとか思ってたんですけどね。軍紀がどうのこうのだって怒鳴られて規律や罰則でガチガチに縛り上げられちゃってもう、息すら自由にできないっていう状況で……えーと、だから、軍歌なんかも無理矢理に覚えさせられて歌わされて……いや、これがもう笑っちゃうぐらいさぶい内容でしてね。なんかもう精神がギスギスすることを前提に考えて作られたかのような内容です。――ああ、詩と言えば、さっきのも詩の一部のようだったけど、あれもムルアの教えに?」


「いいえ。あの詩はあなた方の祖先が、かの北の地にムルアという王国を築いた時代よりも遥かいにしえより受け継がれた伝承の一部です」


 と――そこでようやくカイルの言葉の猛襲にさらされていた女が遂に言葉を返した。

 単に返事を返しただけという事柄ながら、カイルにとっては訳の解らない迷宮から抜け出せたかのような安堵感をもたらした。


「ああ! そうなんですか! お詳しいんですねー。ムルアの事やルバルディアの事にも。いや、俺も出身はルバルディアですから、小さい頃からムルアの教え云々を嫌でも掻い潜ってきたワケでしてね。ああ、いえ、掻い潜ってきたって言っても、逃げてきたとかそんなんじゃないですよ」


 カイルの口調が跳ね上がる。

 先程までの焦りで出来た口調とは打って変わって、実に軽やかに口が滑っていた。

 もともとお調子者として知られている人間だが、こと女性に関する心持ちの場合、それはさらに加速する。そして相手が美人ならばなおさらに。


「――“セトラメデオクスの歌”、聞いたことが?」


 しかしそんなカイルの上昇する気分を意にも介さないかのごとく、女はその柔らかな声でもってカイルの言葉を妨げるように訊ねた。


「へ? いや、その……何ですかそれ?」


 まるで不意を突かれたかのように取り乱したカイルの受け答え。

 その唐突で先を牽制するかのようにも取れる発言はしかし、カイルの意識には特に累を及ぼさなかった。


「そうですか、それならば心に留めておいて下さい。これから先、きっとあなた方の旅に対して大きな意味を持つ事となるでしょう」


 そう言うと、目の前の女が動いた。


「は、はあ。……え? あなた”方”?」


 傾いた日差しはそれまで透明だった光に朱の色を付け、窓から堂内へと差し込んでいる。

 その色の中、女はカイルの方へと歩み寄る。


 突然のその女の挙動に対して、やはりカイルはたじろぐかのような慌てぶりを示す。それまでほとんど動かず、ほとんど喋ろうとしなかった女なだけに、カイルの側における心の準備とでも言うべきものが無かったのだ。


 近づく女を前にカイルは思わず身を引こうとする。


 だが、微かに差し込む夕日が堂内を朱に染め、その黄昏の中を行く女の姿に、カイルは見惚れてしまった。

 ――魅入られてしまった。


 その女は近くで見れば見るほどに美しいと形容できた。

 まるで作り物のような精巧な顔立ち、肌は浅黒くもどこか艶やかさに満ちていて、何よりその憂いを帯びた翡翠の瞳は、他人を惹きつけそのまま吸い込んでしまうかのような不思議な魅力に彩られている。


 女が固まったままのカイルの直ぐ側まで歩み入る。

 そしてそのままカイルの脇をすり抜けて、堂内から外へ通ずる大枠の二枚扉へと手を掛けた。


 はっとしたかのように自我がぶり返すカイル。

 慌てて振り返るその矢先に、同じように首だけ振り返って半面を見せる女がいた。


 カイルに焦点を合わせない伏し目がちなぞくっとする色気を孕んだその瞳が流れ、そして人の中身を揺さぶる不自然なほどに魅力の籠もった声を出す。


「それから、西へ――」


 もはや焦点を合わせていないのは女の方だけでなく、カイル自身もその視線の先を正確に合わすことができないでいた。

 視界をもやが覆うように、判別できないものがカイルを包む。


「……いったい……それは、どういう……?」


 何かに呑み込まれてしまいそうな意識の片隅、そんな奇妙な既知感を覚えながらカイルはそれだけを辛うじて問い返した。


「ただ西へ。そこで改めて、お話することもできましょう」


 女はそう短く口にした。

 重く軋む音を響かせて扉が開き、そして閉じる。


 その音から取り残されたカイルは、知らずの内にその場に力なく座りこんでいることに気づかないでいた。

 ただ、うすらぼんやりとした意識の膜が、思考を霞みのように余すことなく包んでいく。





 やがて、数分だったのか数時間だったのかの判別もつかぬまま、呆けた体で床に尻を付けている自らの身をようやくと自覚したカイルだ。


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