旅鴉の行方

第6話


 ある男が其処には居た。


 しかしそれは、ただそこにたたずんでいるという以上の意味はない。朝目覚めた時のような自然さで忽然こつぜんと自らの身体と意識がその場所に浮かんだ。


 だが男にとって、そこに不都合が生じている。

 それはつまり疑念である。

 何故自分がそこに居るのかという事だった。


 だがその思考が頭を巡った次の瞬間に、では一体、自分がどこに居ればよかったのかという疑念が新たに湧きこった。

 そしてそんな思考の連なりが、次から次へと新しい疑念を引き連れてやってくる。


 そうして幾許いくばくかの時を無為に過ごした後に、男はようやく気がついたのだ。

 自らが何一つとして確証めいたものを持っていないという事――自分がどうあれば不自然ではなくなっていたのか、それを己が全く知らないという事を。



 やがて男はその意識の始まりの場所を後にした。

 何を知らずとも、ともかく其処は男にとって何の意味も成さぬと判断できたからだ。


 男はしばらく歩いた。

 通り越して行く幾つかの物を目に捉えながら。

 そこにはやはり確証めいたものなど何一つとしてなく、しかし男はそれらを決して知らないわけではない。


 記憶に覚えがないというのに、認識できる不思議。

 見覚えがないにもかかわらず、それらの存在の成り立ち、名称やいわれをはっきりと知っていた。

 それは矛盾であるが、しかし事実だった。


 そこにあるのは木、草、岩、花、道、風、あるいは空と地面。

 それは誰もが意識することなく知っている事柄ばかり。だが男にとっては看過できない。


 何故なら男は知らないからだ。


 それらの物を知らないにも拘らず知っている。知識としては持っていても記憶としては持っていない。それを何時どうやって知ったのか、誰かに教わったのか、どのように学んだのか、その部分が欠落していた。


 勿論の事、多くの人間とて、物を覚えるという段階でそれら全ての記憶を有しているわけでない。

 だが記憶とは個々に自立しているのではなく、大きな流れの一端のようなものである。その大元の源流を男は持っていないという事だった。


 そこにある全ての物が男には不自然に思えた。

 だがそれらの物に違和感が拭えないでいる本当の理由は、何より自らの存在そのものが不自然と自覚していたからだったろう。

 自分が世界を知らないという事は、世界も自分を知らないという事だ。


 男はそんな広大な無関心の世界で、無知であるという我が身に苛立ちを覚えた。


 しかし、それでも歩みを止めなかった。 

 彷徨さまよい続ければ確証足りえるものが見つかるという予感があったからか、あるいはそう願っていたからか。


 そして、何日間も、何週間も、何ヶ月も、男は彷徨い続けた。

 

 肉体を維持していく術だけは、どうしてか誰よりも知っている気がした。

 だから人を寄せ付けない過酷な環境、深い森の奥も険しい山の上も、特に問題もなく通り抜けてきた。

 逆に人の大勢いる町のような場所で過ごす事のほうが、何かと不便だったりもした。


 そうして、ただ歩みを続けた。

 意味などは始めから無かったのかも知れない。

 しかしそうする事でしか、日々湧き上がってくる圧倒的なまでの苛立ちを紛らわせられなかった。


 男は何も持ち合わせていない。

 何の目的もないという事が、想像を遥かに超えて精神の内部から害をなす事もある。

 それが男の苛立ちの理由だった。


 人にとって最も重要となるのは過去でなく未来であるという。

 自分が何者であったのか? 

 自分はどのように生きてきたのか? 

 ――そんな事よりも自分は何の為に生きて行くのかというその根本を削り取られた事の方が、余程しゃくさわるのだ。


 だから只、身体を動かした。

 抗いようのない衝動に突き動かされるかの如く。


 自分の正体に興味が無かったというわけではない。

 だがそれよりも今目前にあるこの感情を処理して日々を繰り返さなければならないという事のほうが重大だった。


 しかし何も持ち合わせていない男にもたった一つだけ、自らに関係していると予感させるものがあった。


 それは名前である。


 誰のものかは分からない。

 自分のものなのか、あるいは自分よりも大切な他人のものなのか、まるで判別できない。


 それでも強く憶えていた。


「シノン……ハーティア……」


 男はそう口に出してみた。

 言い慣れているような、そうでないような、そんな曖昧な感覚。その部分だけは男にとって何かを確証付けられるものだったのだ。


 しかし――


「いいえ、あなたはヴェヘイルモット。そして私の愛しい『ユリスヴェリア』なのです」


 揺るぎない程に無関心でいた世界が、初めて男に接触をした。

 驚愕の眼で前を見つめる男の視界に映ったのは、鮮やかな翡翠色とはためく銀色。


 知らない世界で初めて自らを他者によって認識された。

 しかし、その時男の内部から湧き起こったのは歓喜ではない。


 まるで正反対の強烈なまでの憎悪だった。



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